タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「呑み込まれた男」エドワード・ケアリー/古屋美登里訳/東京創元社-愛する息子ピノッキオを探して巨大な魚に呑み込まれたジュゼッペ。魚の腹の中で彼が綴ったこととは

 

 

エドワード・ケアリーの翻訳最新作「呑み込まれた男」が刊行された。まだ発売日より前だったが、立ち寄った丸善丸の内本店でひっそりと平台に置かれているのを見つけた私は、迷うことなく購入した。で、翌日から読み始めた。

「呑み込まれた男」は、「ピノッキオの冒険」に登場するピノッキオを作ったジュゼッペを主役とする物語だ。自らが作り上げた愛する息子ピノッキオが家を飛び出してしまい、ジュゼッペは必死で息子の行方を探し求める。そして、海辺の町で木彫りの人形が町を困らせているという噂を耳にする。ジュゼッペは、漁師が木彫りの人形を縛り上げ、古いぼろ船に放り込んで海へ流したと知る。彼は別の漁師から船を買い、ピノッキオを探して海へ漕ぎ出す。そして、巨大な魚に呑み込まれる。

本書の第1章、第2章は、ジュゼッペがピノッキオを創造し、逃げられ、探し求めて魚の腹に呑み込まれるまでの話が描かれ、第3章からはジュゼッペが魚の腹の中でみつけた“マリア”という船に残されていた品で生き延びることになる。彼は船長が残した航海日誌に、自分も記録を書き残していく。それは愛する息子のために残す記録だ。

こうして、ジュゼッペの回顧録のような形で物語は進んでいく。彼の生い立ち、父親との関係、過去に愛した女たちのことを彼は航海日誌に記していく。巨大な魚の腹の中という闇の恐怖や自分以外に誰もいない場所という孤独に抗うがごとく、ジュゼッペは日誌を記し、物語を創造する。かつて木彫りのピノッキオを創造したように、堅パンをこねた粘土で塑像を作り、木板に絵を描く。

読んでいくうちに感じたのは、本書が“父と息子”を描いた物語だということだった。ジュゼッペとピノッキオの物語であり、ジュゼッペとその父親の物語であり、マリア号の船長トゥグトゥスとその息子の物語。この“父と息子”という関係性が、本書のコンセプトというかキーワードのように、物語の中盤から終盤へと読み進める中で感じられるようになっていた。

本書の冒頭の献辞をケアリーは、「愛する父(1938~2010)と第一子だった息子(2006)を偲んで」(西暦年は横書きに合わせて数字表記にしました)と記している。本書が“父と息子”の物語だと感じたとき、あらためて献辞を読み返し、この物語はジュゼッペとピノッキオ、ジュゼッペの父の物語であると同時にケアリー自身の愛する父と息子との関係を反映した物語なのではないかということを思った。ジュゼッペは、ケアリー自身でもあるのではないかと感じた。

そんなことを思いながらこの物語を読み終えて、古屋美登里さんの訳者あとがきを読んでいくと「父と息子の物語」というワードが記されていた。そこには私が感じたこととは少しニュアンスは違っていたけど、本書やケアリーの過去作における登場人物たちの造形の共通性について記されていて、なるほどと思った。

最後に、本書のラストについて感じたことを書いておきたい。本書には「エピローグ その後」という章がラストにある。何が書かれているかについては、まだ未読の方の興を削ぐことはできないので書かないが、個人的にこのエピローグの必要性について考えている。エピローグの直前の章のラストシーンで物語が終わったとしても、読者は十分に納得する終わり方だと思うが、ケアリーはさらにエピローグとして後日談的な物語を記している。エピローグ自体ももちろん面白いし、これはこれでアリだと思うのだが、なくても物語がつまらなくなるわけではない。うーん、どっちがよかったんだろう。他の読者はどう感じるんだろう。