タカラ~ムの本棚

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「将棋指しの腹のうち」先崎学/文藝春秋-いまや“将棋メシ”という言葉もすっかりメジャーになりましたよね

 

 

 

藤井聡太さんが最年少プロ棋士になり、破竹の29連勝を記録したことでにわかも含めた将棋ファンが増えた。そして、その当時から藤井さんが数々のタイトルを獲得して五冠(竜王、王位、叡王、王将、棋聖)となった現在に至るまで世間から注目されるのが、いわゆる“勝負メシ”と呼ばれる棋士たちの食事やおやつである。ニュースやワイドショーでは対局の状況よりも何を食べたかの方が重要で、藤井五冠が注文した料理やお菓子をこぞって紹介していたりする。

「将棋指しの腹のうち」は、そんな棋士たちとメシにかかわるさまざまなエピソードが書かれたエッセイ集だ。著者はプロ棋士先崎学九段。羽生善治九段などと同世代の実力派の棋士であり、将棋マンガ「3月のライオン」(羽海野チカ白泉社)の将棋監修者としても知られている。

本書では東京千駄ヶ谷にある将棋会館近くの、棋士たちがよく利用するお店をテーマにして7つのエピソードが収録されている。お店のラインナップはこんな感じ。

第一局【みろく庵】
第二局【ほそ島や】
第三局【代々木の店】
第四局【チャコあやみや】
第五局【焼肉青山外苑】
第六局【きばいやんせ】
第七局【ふじもと】

第三局だけ具体的な店名ではなく【代々木の店】となっているのは、そのお店の名前が思い出せなかったのと書かれているエピソードがお店にとって良いエピソードではないからということらしい。

藤井五冠がデビューして将棋メシ、勝負メシが注目されるようになった頃、著者の先崎九段はうつ病を発症して将棋の世界から距離をおいていた。なので、第一局に取り上げられている【みろく庵】が、将棋ファンの聖地のような存在になりお客さんが殺到していたことを知らなかったという。先崎九段にとって【みろく庵】は、将棋会館での対局や勉強会が終わってから軽く一杯やるのにちょうどいい蕎麦居酒屋という店だったのだ。それが聖地となっているのだから驚いただろう。【みろく庵】は2019年に閉店してしまったので残念に思っている将棋ファンは多いと思う。

その他、【ほそ島や】は「将棋指しにとっての社員食堂」ともいえる棋士女流棋士奨励会員たちがよく利用しているそば屋、【チャコあやみや】はステーキハウス、【きばいやんせ】は居酒屋、【ふじもと】は鰻屋である。

目次にズラッと並んだお店の名前をみると、さぞかし将棋指しはいいものを食べているのだろうと思ってしまうが、たしかにいいものを食べている場合もあるが、けっしてグルメぶっているというわけではない。【ほそ島や】の魅力はそばの美味しさももちろんだが、若手の奨励会員にとってはなんといっても量。そして、いまでこそあまり見られなくなったようだが、先輩棋士がさりげなく後輩たちの食事代を払うという習慣だ。芸人の世界とかでもそうだが、先輩が後輩の面倒をみるというのは将棋界でもあるそうで、だがそれも最近では失われている。それは、ある事件がきっかけで対局中の外出が禁止になってしまったからとのこと。将棋界に限ったことではないが、不正防止という観点である程度の制限がかかってしまうのは致し方ないとはいえ、それがその世界で働いている人や関わっている人の楽しみや権利を奪ってしまうのは残念だ。

第四局【チャコあやみや】の羽生善治九段とのエピソードがよかった。NHKの仕事で長時間の解説(しかも同時に複数の対局分!)をふたりでこなさなければならなかったとき、夕方の休憩時間にふたりは【チャコあやみや】でステーキを食べる。その後、夜の部の解説を疲労困憊で乗り切ったふたりは、将棋会館の床に座り込む。どちらも口をきくのも大変なくらい疲れている。そこで先崎九段が自分でも意外な言葉を口にする。

「チャコのステーキ、おいしかったなあ」
瞬間、彼の声があの元気な甲高いものとなった。
「うん、おいしかった」
「あのステーキのおかげで、いい仕事ができたなあ」
「うん、ちょっと疲れたけどね」
本当に冗談抜きで、彼の口から疲れたという言葉を聞いたのはこの時だけだと思う。

疲労困憊の中で奮闘するふたりで食べたステーキ。きっと羽生九段の中に深く染みた食事だったのだろう。

他にも、棋士女流棋士奨励会員たちとのさまざまなエピソードが、それぞれのお店と結びついて記されている。笑えるエピソードもあれば、心にグッとくるエピソードもある。食と人生は切っても切り離せない関係だと思うが、将棋というやや独特な勝負の世界に身をおいている人たちだからこそ、その中で味わったさまざまな食事やお店との出会いが印象深いエピソードになっていくのではないだろうか。

私は将棋のことはさっぱりわからないけれど、たまにネットで対局をみたりするのは好きだ。最近はAIが対局中の優勢の度合いなんかを判定してくれたり、次の一手を予想したりしていて、それが覆されたりするとコンピュータではまだまだ太刀打ちできない人間の凄さを感じられる。そうした棋士の凄さを思い返しながら、本書にあるようなエピソードを読むと、棋士人間性のようなものも垣間見えて楽しいと思う。

紹介されているお店に行ってみてもいいかもと思う。