タカラ~ムの本棚

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「春、死なん」紗倉まな/講談社-普遍的にあるのに避けがちな性をテーマにして人間の本質的な部分を見直す短編集

 

 

紗倉まな「春、死なん」は、人間の普遍的な欲求のひとつである性をテーマにした2編の短編が収録された短編集。表題作「春、死なん」は老人の性、「ははばなれ」は娘からみた母親の性を描いている。

70歳の富雄は、息子夫婦が建ててくれた二世帯住宅に暮らしている。6年前に妻の喜美代に先立たれ、今は同じ屋根の下に息子家族が暮らしていても、富雄は孤独である。そして、『傍目から見れば、富雄の七十歳の老体からはすでに抜け落ちたと思われているであろう性欲』は、若い頃と比べれば劣るがいまだに枯渇することなく、むしろ持て余すほどだ。そんな性欲を自慰行為でやり過ごす虚無感は、富雄を一層孤独にさせる。

「春、死なん」は、誰もがいずれ迎える老いと、老いてもなお枯れることはない性への欲求とのアンバランスさがもたらす心の不安を描いている。これまで、どこかで避けてやり過ごそうとしていた、あるいは存在しないふりをしていた老人の性をしっかりと描いている。

人は、誰かとつながっていることで孤独から逃れようとする。つながり方にはさまざまな形があり、必ずしもセックスを必要するわけではない。それでも、相手の肉体を求め合うことでつながりの深さを感じることもあるだろうし、セックスレスが互いの関係を希薄にする場合もある。深くつながりあっていた相手を失ったときの喪失感とそこから生まれる孤独感は計り知れないものがあるかもしれない。

「春、死なん」が描くのは老人の性だけではない。古くから暗黙の了解のごとく存在する家庭における男と女の役割とそこに見える違和感も描かれている。男として、女として、夫として、妻として、親として、子として、息子として、娘として、嫁として、さまざまに存在する“として”という暗黙のうちにレッテル貼りされた役割。その役割が安定して機能しているときは、誰もその違和感に気づかない。しかし、何かが少し変化して役割が不安定になったときに人は違和感を覚え、やがて不安を感じる。だが、その違和感や不安こそが実は本来の姿なのではないか。それを認めることで人は強くなれるのではないか。

“として”というレッテルが足かせになり、自由なようでいて実は不自由な生き方を私たちは強いられているのではないか。最後の場面を読み終えてふとそんな気持ちにさせられる作品だった。

「ははばなれ」は、娘の視点から母親の性を描く。

コヨリの母はあけすけな性格の女性だ。見た目とか体裁とかに頓着しないし、思ったことは無自覚に口に出してしまう人。母はコヨリを帝王切開で生んだが、そのことを当たり前のように受け入れて、あっけらかんと口に出すし、夫や息子に渋い顔をされても傷跡を隠さない水着を着る。そういう母だけど、墓参りから帰宅した家の前に立っていた不審な男を恋人と話したときは、コヨリも驚いた。しかも、母は彼がインポで悩んでいるという話までしてくるのだ。

あけすけな母親の性の告白がコヨリにとってショックなのは、母の性的な部分を知ったからというだけではない。コヨリは、夫との間に子どもができないことに悩んでいる。病院に行って検査を受けたりもしている。けれど夫はあまり問題意識を共有してくれていない。

「ははばなれ」という作品のポイントは、結婚、妊娠、出産という流れが当然であるかのように思っている私たちの認識が、当たり前ではないし、そのことについて男女で考えが噛み合わないもどかしさがあるということだと思う。それが、帝王切開の傷跡にまつわるエピソードだったり、コヨリの不妊のエピソードとして描かれている。これは、本作を読む人の性別だったり、置かれている立ち位置だったり、世代だったりで共感できたり、よくわからなかったりするところかもしれない。

本書は、老人の性、母親の性といった、あまり表立って語られることのないテーマが描かれているが、読んでみると性=セックスという話ではなく、性別、世代、夫婦、親子といった関係性や立ち位置の中で人間としての本質的な部分であったり、考え方や意識の乖離といった部分が存在することが描かれているのだと感じた。理解しているようで実際には何もできていない本質をしっかりと認識できた読書だった。