タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

内田百閒「私の『漱石』と『龍之介』」(筑摩書房)ー漱石と龍之介に対する百閒の愛情と哀悼と哀惜

 

岡山の中等学校時代に「吾輩は猫である」を読んで漱石に心酔した内田百閒は、漱石が乗った急行が岡山駅に停車すると聞き及び、漱石の姿をひとめ見ようと友人を連れて駅で待ち構えます。停車中の車中を覗き込み、一等客車にそれらしい人影を見つけますが、本当に漱石なのかよくわからないまま「あれが先生だったはず」と納得します。ただ、実際にはその急行に漱石は乗っていなかったことを後日知ることになります。

大学生となり上京した百閒は、漱石の門弟となります。早稲田にあった漱石邸(漱石山房)で行われていた木曜会に通うようになります。小宮豊隆をはじめとする漱石門弟たちの末席に座ることとなったのです。

それにしても百閒の漱石愛は本当に深いと感じます。もう深すぎて深すぎて、好きすぎて好きすぎて、漱石のすべてが気になって仕方がないのです。自分が嫌いな相撲や謡を漱石が好みと聞けば、そのことを苦々しげに記したりしています。

百閒は、生活には随分と困窮したようで、漱石から借金をしています。借金のお願いに漱石が泊まっていた湯河原の温泉宿に向かうエピソードが、本書には繰り返し出てきます。百閒としては、この話は相当に印象深い話なのでしょう。それにしても、百閒の借金のお願いをふたつ返事で引き受ける漱石は、実に器が大きいというか、面倒見の良い師匠だなと思います。多くの門弟たちが漱石を慕う理由がこういうところにあるのでしょう。

夏目漱石というと、背広姿で腕に喪章をつけて右のこめかみに手を当てて伏し目がちに写っている写真があります。本書を読んで、あの写真で着ていた背広を百閒が譲り受けていたことが記されています。びっくりしたのは、百閒がその背広を普通に着て、しかも着古してしまったからと最後は燃やして捨てているのです。「なんともったいない!」と思うのは、文豪・偉人としての存在価値で漱石を見ている現在の私たちの感覚なのでしょう。百閒にしてみれば、師匠の背広を譲り受けたのだから、それを身につけられるのが嬉しいことだったに違いありません。

本書には、芥川龍之介との交流についても書かれています。龍之介から海軍機関学校のドイツ語教師の職を紹介してもらった話や、その機関学校で見聞したエピソードで龍之介の姿が描かれています。それと、彼が自殺する直前、百閒が最後に龍之介と会ったときのことも記されています。

本書は、内田百閒が、尊敬し崇拝する夏目漱石との思い出、同じ漱石門下の仲間である芥川龍之介との思い出を書き記した文章の集大成です。漱石や龍之介の様々なエピソードは、百閒の筆によって生き生きと面白く描かれています。と同時に、本書は漱石や龍之介に対する鎮魂を記したものでもあります。漱石が亡くなった日の話、命日に門弟たちと集まったときの話、自殺する2日前に龍之介の家を訪れたときの話、彼の死後に彼を思い出すときの話。そこには、死んでいった者への哀悼と遺された者の寂寥があります。夏目漱石の享年は49歳、芥川龍之介の享年は35歳です。それに対して、内田百閒は81歳まで生きました。敬愛するふたりを亡くしてからの時間が、百閒にはどれほど長く感じられたでしょう。

内田百閒の少し毒気のある文章の面白さで見えにくいかもしれませんが、本書には愛情と哀悼と哀惜がたくさん溢れていると思うのです。