京都という場所は、訪れる人を魅了する街だ。それは、私たち日本人だけではなく、世界から訪れる外国人観光客にとっても同様で、京都は国際的な観光都市でもある。
- 作者: クラスナホルカイラースロー,Krasznahorkai L´aszl´o,早稲田みか
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 2006/03
- メディア: 単行本
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ハンガリーの作家クラスンホルカイ・ラースローは、1997年に初めて京都を訪れ、京都に魅了された。2000年に国際交流基金招聘フェローとして再来日すると、日本の伝統建築についての研究を深めながら半年間滞在した。そのときの経験から生まれたのが、本書「北は山、南は湖、西は道、東は川」である。
本書は、京都が舞台である。いや、“京都が主人公”である。
本書は、京都という場所から見る出来事が描かれる。それは風景であり、人間の営みであり、自然の摂理であり、時代の移り変わりである。古の都として存在する京都という土地が見守り続けてきた事柄を語りだすことで、雄大であり哲学的な世界を形成する。
京都のとある寺とその庭が見つめる京都は、いつしか時空を超えて、時間と空間を超越していく。だが、そこには読者をいたずらに困惑するような突飛さはない。むしろ、読者は語り部の導く時空の超越に身を任せ、ゆっくりとした高揚感の中に快感を覚えるかもしれない。
本書には、唯一の登場人物が存在する。それが、「源氏の孫君」である。「源氏の孫君」は、しかし、特定の誰かを表しているわけではない。彼(もしかしたら彼女かもしれない)は、京都に集う人々の象徴的な存在として物語の中に配置されているように思う。「源氏の孫君」は、気分のすぐれぬままに京都の街をさまよい歩き、やがて寺にたどり着く。
数ページ程度の短い章の積み重ねで描き出される物語は、短いにもかかわらず疾走感とは無縁のゆったりとした流れを感じさせる。それは、ラースローの文章が持つリズム感がもたらすものであり、加えて京都という街が有する悠久さが相乗的に影響し合って生まれたリズムだと感じる。
クラスンホルカイ・ラースローは、訳者あとがきによれば「現代ハンガリーを代表する作家」なのだという。だが、日本で翻訳出版されている作品は本書が唯一である。
今回、本書を読んでみて、「これは読者に相当の力量を要求する小説だな」と感じた。実際、私自身も最後まで読み通してはみたが、著者が伝えようとしている世界観をしっかりと受け止め、理解できたとは思えない。途中、何度も話を見失いかけたし、実際に見失った。だから、読み終えるのに時間を要した。日本の作家だと、丸山健二が近いように思う。
ラースローの他の作品が、本書と同様に読者の力量を要求するタイプの作品なのかは不明だが、本書を読む限りは売れるタイプの作品でないことは間違いないだろう。個人的には、ラースローの他の作品も読んでみたいと思うのだが、それは難しいことなんだろうと思っている。