タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

【書評】エトガル・ケレット「あの素晴らしき七年」(新潮社)-イスラエルに暮らす作家がユーモラスに描き出す日常と戦争の影

中東地域は、争いの絶えない地域であるが、イスラエルは間違いなくその中心にあって、争いの火種となっている場所だと思う。1948年に独立が宣言されて以降、第一次中東戦争が勃発し、第二次、第三次、第四次と周辺国との戦争を繰り広げてきた。1993年には、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長との間で「オスロ合意」と呼ばれる和平交渉が合意されたこともあったが、ラビン首相に対するイスラエル国内の批判が高まり、その結果ラビン首相が暗殺されるなど、平和な状況は長く続くことなく現在も戦闘状態が継続している。

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

本書「あの素晴らしき七年」の著者であるエトガル・ケレットは、イスラエルに住むユダヤ人作家だ。

 

本書は、著者の日常に起こる出来事を記したエッセイとなっている。息子の誕生や父親の死といったライフイベントについて書かれた文章もあれば、作家として各地の文学イベントに招かれた際の旅の途中の出来事、日常で経験する些細な出来事など、著者自身が経験する様々な出来事についても記されている。

そして、本書の全体を通じて見え隠れするのがイスラエルという国家が置かれている状況だ。

巻頭におかれているエッセイ「突然いつものことが」は、自爆テロと思われるテロリストの攻撃による怪我人で混乱する病院で著者が妻の出産を待っている場面が描かれる。妻の妊娠、出産という人生で当たり前に起きるライフイベントのすぐとなりで、テロリストによる攻撃で命を落としたり、大怪我をして治療を受けている人たちがいるという非日常的な状況。それが、普通の光景として描かれているのだ。

著者にとって、ごく普通の日常と戦争という非日常は、相互に反する存在ではなく、密接に関わりあう現実なのである。今日、平和に過ごした1日も、明日には悲劇的な1日へと変貌する可能性がある。もしかすると、明日には命を失ってしまうかもしれない。

もうひとつ、著者にはユダヤ人であるというアイデンティティがある。「ユダヤ民族の保護者」と題するエッセイでは、ドイツのレストランでドイツ人の男性とトラブルになったことが語られる。「ユーデン・ラウス!(ユダヤ人は出て行け!)」と言われた著者は、どのドイツ人男性と押し合いになり、同席した出版社の編集者や店のウェイターらに仲裁される。結論から言えば、著者がドイツ人から言われた「ユーデン・ラウス!」は、著者の聞き間違いであったのだが、ドイツ人から辛辣な言葉を投げつけられたと勘違いするほどに、著者のユダヤ人としてのアイデンティティは、彼を締め付けているのである。

そして、七年目の最後に記されるエッセイでも、戦争の影が色濃く反映される。

「パストラミ」というエッセイでは、テルアビブの郊外で空襲に遭遇した時のエピソードが記されている。民間防衛軍の指示にしたがって地面に横たわるのだが、腹ばいになろうとしない7歳の息子を腹ばいにさせようと夫婦は「パストラミ・サンドイッチごっこ」を提案する。妻が腹ばいになった背中に息子が乗り、その上から著者がそっと覆いかぶさる。息子をパストラミに、夫婦がパンに見立ててサンドイッチを作ったのだ。

テロリストによる自爆テロで話をはじめ、7年後のラストのエッセイでは空襲から身を守る場面で終わる。戦争が常に身近にあるという日常は、しかしながら、このラストのエッセイをもって終了したわけではない。イスラエルパレスチナとの戦闘状態は、まだこれからも続いていくのである。著者の息子は、これからも戦争を背負って成長していく運命にある。本書の中にも、成長した息子を軍人として送り出せるかという親として悩ましい問題について夫婦で話し合う場面がある。

戦争が日常に存在するという環境は、悲惨さや悲劇性に満ちているはずなのに、著者が記す数々のエッセイには戦争の影も描かれているのに、悲惨さを感じさせない。非日常にあってユーモアを前面に出せるということが、賞賛すべきことなのか、驚嘆すべきことなのか。そのあたりが私の中では整理しきれていない。