『すばらしい新世界』の基本的なテーマとなっているのは故人と社会の軋轢で、そこに大量生産・大量消費を中心とする社会の興隆と優生学の不気味な発達を背景に、科学と政治が結びついた場合の危険性、特に官僚組織がそこに関わった場合の危険性が描かれている。
これは、本書巻末の植松靖夫氏による解説からの抜粋である。
オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」は、ジョージ・オーウェル「一九八四年」やレイ・ブラッドベリ「華氏451度」と並ぶディストピア小説の代表的作品として知られる。これら「ディストピア小説」で描かれる世界では、常に人民が抑圧される。支配する者と支配される者があり、被支配者はただただ押さえつけられ、自由もなく、考えることすら禁止される。作者は、このような抑圧的な世界を描いてみせることで、自由の素晴らしさを読者に考えさせているといえる。
先に抜粋引用した植松氏の解説にあるように、「すばらしい新世界」には大量生産・大量消費が世界観のテーマとして含有されている。「すばらしい新世界」の世界では、人間の誕生すらオートメーション化された大量生産によって制御され、〈中央ロンドン孵化・条件づけセンター〉という施設で、人工受精によって機械的に生産されている。人間は、受精前の段階から明確に階級付けが行われ、支配階級として国家運営等の重要任務にあたるアルファ、ベータと労働力として人間扱いされることのないガンマ、デルタ、エプシロンに分類される。
人間は人工受精によって生産されるため、この世界では家族の形式が存在しない。男と女が子孫を残す生殖目的でセックスるをする必要がなく、むしろそのような目的で行われるセックスは嫌悪の対象でしかない。セックスはただ快楽のために行われるものであり、相手を特定しないフリーセックスがあたりまえなのだ。
その新世界に異変をもたらすのが、《野蛮人居留地》と呼ばれる場所から連れられてきたジョンという若者である。彼は、リンダという女性が妊娠して出産した子どもであり、新世界においては非文明的で野蛮な存在である。
野蛮な存在であるジョンは、新世界においては異端の存在である。人々は、野蛮人を興味津々で見守る。新世界において彼は実験台である。彼の行動は観察され、研究される。当初は、新世界の発達した文明に惹かれていたジョンだが、やがて新世界がもつ異常さに気づき、嫌悪するようになっていく。
先述したように「すばらしい新世界」は、ディストピア小説の系譜に連なる作品である。だが、他の小説と比べると描かれる世界観に厳しさや怖さは薄い。そうした世界観の相違は、訳者あとがきの冒頭の一文からも明らかだ。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界と、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の世界-この二つの反理想郷(ディストピア)のどちらかで生きなければならないとしたら、ほぼ全員が後者を選ぶのではないだろうか。
実際のところ、「一九八四年」や「華氏451度」の世界のような悲壮感、強い支配による抑圧といった暗黒的な面は、「すばらしい新世界」には存在しない。新世界の住民は、そもそもの生産段階で階級分けがなされ、思想を徹底的に制御される。そのため、新世界の住民たちには支配や差別という概念が存在しておらず、そのような思想にとらわれないから、悲観的になることもない。むしろ、彼らは幸福感すら感じている。
ならば、「すばらしい新世界」の世界は、理想郷(ユートピア)なのだろうか。もしかしたら、そういう見方の方が正しい面もあるのかもしれない。
「いや、それはやはり違う。一見自由なように見える世界だからこそ、不自由が存在しているのだ。だからこそ、野蛮人であるジョンが新世界に投げかける疑問が新世界を困惑させ、混乱させるのだ。この小説は、そうした一見平和に見える世界こそ疑ってみなければならないのだということが描かれているのだ」
という意見もあるかもしれない。小説の読み方は、読者の数ほど存在するのだから、明確な答えが存在するわけではない。どの読み方、どの考え方もすべてが正しいのかもしれない。ただひとつ言えるのは、自らが置かれている現実は、常に疑ってみるべきだということ。とくに、体制が誘導する道筋には常に疑いの目を持って観察し判断しなければならないということ。そういう考え方を読者に問うという意味で、「すばらしい新世界」はやはりディストピア小説の代表的作品となるのかもしれない。
- 作者: ジョージ・オーウェル,高橋和久
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07/18
- メディア: 文庫
- 購入: 38人 クリック: 329回
- この商品を含むブログ (331件) を見る