タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

とてもよくできた物語である。だが、どこかモヤモヤした印象が残っている-寺地はるな「ビオレタ」

読み終わって、しばし考えたくなる小説というのがある。その本が面白くないというわけではない。ただ、読み終えて、どこかモヤモヤした印象を残す作品というのがあるのだ。

ビオレタ (一般書)

ビオレタ (一般書)

 

寺地はるな「ビオレタ」は、読み終わってからもモヤモヤした印象が拭い切れない作品だ。

突然、婚約者から婚約解消を告げられた妙は、悲嘆の涙に暮れているところを菫という女性に拾われる。大柄な体格の菫に引きずられるように彼女が営む雑貨屋《ビオレタ》に連れて行かれた妙は、事の次第を話すことになり、さらにはその流れのままに《ビオレタ》で働くことになる。

本書を読んでいて一番モヤっとしたのは、物語の基軸となるストーリーが見えにくかったことだ。

「ビオレタ」には、大きく2つのストーリーがあると読める。

  1. 婚約解消という喪失を経験した妙が、菫や千歳と出会い関係を持つことで再生していく物語
  2. 菫が営む雑貨屋《ビオレタ》に集まる人々が“棺桶”を庭に埋めることで安息を得て再生していく物語

いずれも“再生”がテーマであるが、作品として形作られた場合の印象は大きく違うと思う。

妙の再生を主軸として描いた場合、どん底の状態に突き落とされた女性が、ちょっと不思議な人たちと関わり合い、ときに心の奥底まで見透かされるような強引なアプローチや、ときに突き放すような愛情を受けることで、次第に人間的に成長して再生していく、というストーリーになるだろう。

一方、《ビオレタ》に集まる人々の再生を描いた場合、1本の長編としてよりも複数の連作短編として構成されるストーリーが考えられる。様々に事情を抱えた人々が《ビオレタ》にあらわれては、自らの憂いや過去を“棺桶”におさめて庭に埋める。その人だけが抱える何かを埋葬することで、その人はそのくびきから解放されて再生へと足を踏み出す。

「ビオレタ」は、そのどちらのタイプでもない。というより、両方をひとつの作品の中で融合させてしまっているように感じる。

基本は、妙の物語なのだろう。だから、妙の視点で話は進んでいくし、妙の感情がストレートに作品に描かれる。それでいて、ところどころに挟まれる《ビオレタ》の客のエピソードが、妙の物語にオーバーラップしているのかというと、そういうわけでもない。お客のエピソードに対する妙の関わり方がどうにも希薄な印象を受けてしまうのだ。

それでも、最後まで大きくストーリーが破綻することはないし、キレイに着地していて読後感もよい。最後のページを読み終えて、本をパタンと閉じたときに、「良い作品を読んだ」という満足感はある。それでも、モヤモヤとした印象は拭えない。

これはやはり、デビュー作ということがもたらした一面なのかもしれない。

同じポプラ社の新人賞を受賞したという理由で比較してはいけないのだが、寺地はるな「ビオレタ」とほぼ同じ印象を受けたのが、齋藤智裕(水嶋ヒロ)「KAGEROU」だった。あの作品も、作品として面白かったのだが、どこかモヤモヤした物足りなさを感じさせた。「KAGEROU」に関しては、そのモヤモヤの正体は「物語の背骨となる設定は面白いのに、その肉付けに失敗している」と考えた。「ビオレタ」に対しては、逆に「肉付けされたエピソードやキャラクターは魅力的なのに、物語の背骨に曖昧さを感じる」のである。

かなり厳しいことを書いてしまった。もし、著者の寺地さんご本人がこのレビューを読まれたら、相当に気分を害されるのではないだろうか。

だが、私は「ビオレタ」は大変にレベルの高い作品だと思うし、寺地はるなという作家は、大きな可能性をもっていて今後の活躍が大いに期待できる作家だと思っている。だからこそ、手放しで褒めそやすばかりでなく、気になったところを伝えることで、それがほんの少しでも次の作品、その次の作品を書くときに役立ってくれればいいな、と思うのである。