タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

大規模なシステム開発プロジェクトの裏でITエンジニアは命を削る。犯罪に走るヤツも出てくるだろうね-藤井太洋「ビッグデータ・コネクト」

IT業界で働いていると、とても尋常とは思えないような働き方をした経験のあるエンジニアの話を当たり前のように聞くことがある。月の労働時間が300時間を超えたとか、1週間以上家に帰っていないとか、毎日深夜タクシー帰宅を続けて1ヶ月のタクシー代が数十万円になって馴染みのタクシー運転手からお中元やお歳暮が届くようになったとか。あ、最後の話は私の実話です。

ビッグデータ・コネクト (文春文庫)

ビッグデータ・コネクト (文春文庫)

 
ビッグデータ・コネクト (文春文庫)
 

藤井太洋ビッグデータ・コネクト」は、自治体のITプロジェクトを巡って誘拐事件が発生するサスペンス小説であるが、その根底にあるのはIT業界の深い闇である。

京都府警の万田警部は、XPウィルスというコンピュータウィルスを開発しバラまいたとしてITエンジニアの武岱修を逮捕したものの、2年にわたる拘留期間中に黙秘を貫いた武岱と、彼の弁護にあたった女性弁護士・赤瀬によって結局彼の嫌疑を証明できないままに終わる。

それから2年後。滋賀県大津市に建設された「コンポジタ」と呼ばれる施設の利用者管理システム開発を請け負っていたITエンジニア・月岡冬威が何者かに誘拐され、切断された指が送りつけられる事件が起きる。万田は、捜査本部の沢木から事件の捜査に加わるように指示され、ある人物の協力を得るように要請される。その協力者とは、武岱修だった。

本書は、月岡冬威誘拐事件を軸に据えたミステリー小説にあたるのだが、ミステリーとしての部分はそれほど目新しいものではない。それ以上に印象深いのは、「コンポジタ」のシステム開発に関わるエンジニアたちの、過酷な仕事ぶりが実にリアルに描かれていることだ。

冒頭にも書いたが、IT業界で働いていると、「それってホントですか?」と思わず聞き返したくなるような話をよく聞く。私は、幸いにしてプロジェクトの中でも元請けに近い上位レイヤに位置づけられるようなシステム会社に所属していたので、現場レベルでの過酷な環境に関わったケースが数えるほどしかないが、末端の下請けソフトハウスや派遣のエンジニアの中には、既述したような経験をしている人は多い。

本書でも、「コンポジタ」開発の請負は、何社もの会社が関わり、複雑な契約関係によって成り立っている。誘拐される月岡も、システム開発の現場リーダーではあるが、実体としてはかなり下層に位置する下請け会社のエンジニアにすぎない。しかし、エンジニアとして高い能力のある月岡は、ユーザーとの折衝やシステム仕様の検討・設計、プログラム仕様書の作成と開発、テストに至るすべての工程を担当せざるを得なくなり、その責任感もあって開発環境を自腹で整備するなどして追い込まれていく。

それでも、プロジェクトが予定通りに進捗し、予算も適切に運用されていれば、さほど大きな問題には発展しない。だが、「コンポジタ」は度重なる仕様変更や使い物にならないシステム設計、プログラムコードの存在によって、予定していた年度末のカットオーバーを大幅に遅延していて、それも現場エンジニアのプレッシャーになっている。

誘拐事件の捜査のために「コンポジタ」の現場を訪れた万田たちが、プロジェクトルームで工程を示すガントチャートが書かれたホワイトボードに“3/202”と記されていることに気づく場面がある。

「内藤さん、リーダーが何言ってるんですか、早く三月を終わらせましょう」
三月? と思ったとき武岱が膝を叩いた。
「おい、まさか、年度末の納品ができてないのか?」
「……ええ」
「じゃあ、あの数字は……」とホワイトボードの“3/202”を指さそうとした武岱に、劉が先回りした。
「そうです。あれは今日の日付ですよ。三月の二百二日。この部屋にはまだ年度末が来ていないんです。納品できていないので、一部の請負にはお金も払われてません」

--「7.コンポジタ」(p.163-p.164)

この場面、一般の方には意味不明かもしれないが、修羅場のプロジェクトを経験した人なら身につまされる話かもしれない。「コンポジタ」のような例は、まれなケースであろうが(少なくとも、私が経験した現実のプロジェクトで年度末納品を半年以上遅れたケースはない)、年度末になって開発等の遅延によってシステムの納品予定が大幅に遅れ、結果的になかなか3月が終わらないということは、IT業界で仕事をしているとよくあることだったりする。

ゴールデンウィークが開けるまでは3月だ」

という会話は、プロジェクトメンバー間では普通に交わされる会話だったりもする。

小説の話でなく、ITエンジニアの苦労話になってしまったが、本書を読んでいると「月岡冬威誘拐事件」の部分よりもエンジニアが身体も心もボロボロになりながら、それでもプロジェクト完遂のために頑張らざるを得ない辛さの部分が強く印象に残ってしまう。ただ、「エンジニア過酷物語」の部分だけで小説が構成されてしまうと、ただただ辛いだけのネガティブな作品になってしまう。ミステリーとしての弱さ(やはり、ラストに描かれる事件の真相部分に設定的な無理があるように思える)はあるが、エンターテインメント性を付与することで、小説としてのリーダビリティは高まっているのは確かだ。

著者は、自身がITエンジニアでもある。だからこそ、本書に描かれているような現場の状況やIT技術に関する知識が小説のリアリティを生み出しているのだと思う。本書のラストシーンは実に意味深だ。京都府警サイバー犯罪対策課の万田と武岱修が絡む物語は、これから新たな展開を描き出すことも可能だし、シリーズ化も期待できる。次作が執筆されることを待ち望んでいる。