タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「戦争日記 鉛筆1本で描いたウクライナのある家族の日々」オリガ・グレベンニク/渡辺麻土香、チョン・ソウン訳/奈倉有里ロシア語監修/河出書房新社-突然始まった戦争。子どもたちとの地下室の避難生活、そして夫や他の家族を残しての国外脱出。怒涛の日々を描き出す鉛筆画が私たちに伝えるもの

 

 

著者のオリガ・グレベンニクさんは、ウクライナのハリコフ(ウクライナ語の発音で「ハルキウ」)生まれの絵本作家でありイラストレーター。9歳の息子と4歳の娘をもつ母親でもある。

本書「戦争日記 鉛筆1本で描いたウクライナのある家族の日々」は、著者とその家族が、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、相次ぐ空爆から身の安全を確保するために地下室での避難生活をおくり、さらに苛烈さを増すロシアの攻撃から逃れ国外へ脱出するまでの日々を記録したものである。恐怖と不安をどうにか振り払おうと持っていたスケッチブックと鉛筆で著者はこの記録をつけた。絵を描くことで心の平穏を保ち感情をコントロールした。

戦争が始まって8日間、家族は地下室で暮らした。そして、9日目にポーランドワルシャワに逃れた。ワルシャワに脱出したのは、著者とふたりの子どもたち、愛犬、そして“絵を描く力”だけだった。夫はウクライナに敷かれた戒厳令のため国外に出られない夫は祖国に残った。ポーランドに逃れた著者の家族は、その後ブルガリアに移り、本書刊行時点(2022年9月)でもブルガリアで生活していると思われる(本書巻末、ロシア語監修の奈倉有里さんによる解説記載内容からの筆者推測)。

ある日突然、他国が自分の国に理不尽な攻撃をしかけ、無辜の市民がその犠牲になる。私のように一見平和な日本という国に暮らしている身からすると、まったく想像もつかない現実がウクライナでは起きている。いったいどのような大義名分を振りかざしているのかは理解もできないが、ロシアが振りかざしている大義名分が一方的にロシアに都合のよいものであろうことは間違いないと思う。そのような理不尽な大義名分が平和な暮らしを求めるウクライナの人々を恐怖と不安に陥れ、混乱を生じさせたということは、歴史上の悪行として後世に語り継がなければならない。もちろん、著者にはそのようなつもりはないだろうが、本書がその一助を担う記録となるだろう。

黒色鉛筆のみで描かれるラフスケッチのような絵は、それが描かれた時点での著者の置かれた環境や心境、不安や恐怖、子どもたちや家族への愛情、ともに避難生活を送る隣人たちへの連帯と感謝の気持ちがはっきりと表れていると感じる。映像を通してしかわからないウクライナの姿は、リアルな外見を私たちに伝えているが、そこに暮らし戦争の恐怖に怯える人々の心の内を映し出してはいない。カメラが映し出せるのは表に見えている部分だけだ。ロシアの侵攻が始まり、攻撃が続く中で人々がなにを考えていたのか。どのように生きていたのか。当事者である著者が描き出す絵には、その姿だけではなく心の内までもが描かれているように思えた。

著者は本書の巻頭に記した文章の中で、この日記を書くのは「戦争反対!」とためである、と記している。戦争には勝者はなく、あるのは血と破壊とわたしたちひとりひとりの心の中にできた大きな穴だけだ、と記している。戦争における“勝者”とはなんなのか。戦争は、いわゆる戦勝国となる国家にも、敗戦国となる国家にも多大なる犠牲をもたらす。国家指導者が「我が国は戦争に勝った!」と声高に叫ぶとき、その勝った国家の中にも膨大な数の戦死者があり、戦傷者があり、そして遺された家族がある。彼らは指導者が叫ぶ勝利の雄叫びに共鳴できるのだろうか。著者が記しているように、残るのは勝利と引き換えに失ったものの大きさに対する喪失感だけなのではないだろうか。そう考えた時に、戦争ほどおろかで馬鹿げていて理不尽な悪行はないと考えざるを得ない。

本書は、まず韓国語に翻訳されて出版された。日本語版は韓国語訳からの重訳になる(訳者は韓国語翻訳者なのはそのため)。また、イタリア語、ルーマニア語、ドイツ語、フィンランド語など世界各国に翻訳が進んでいる。あのときウクライナで起きていたこと、ウクライナで暮らしていた人たちが考えていたこと、彼らが感じていた恐怖と不安、そして戦争の愚かしさと理不尽さ。そうした真実が本書が世界中に広まることで知られていくことだろう。そして、後世に残る貴重な記録となるだろう。

なお、本書は売上から1冊につき100円がウクライナ赤十字に寄付されることになっている。私が購入した1冊が、ウクライナで戦争の恐怖と不安にさらされたり、実際に負傷したりした人たちを支えるわずかばかりの一助になれば幸いである。

「雌犬」ピラール・キンタナ/村岡直子訳/国書刊行会-重苦しい閉塞感が漂う中で描かれるのは、究極の母娘物語

 

 

物語は、コロンビアの太平洋岸にある寒村を舞台に描かれる。主人公はダマリスというもうすぐ40歳になる黒人女性。彼女にはロヘリオという旦那がいて、夫婦の間には子どもはいない。子どもを授かるために祈祷やさまざまな民間療法を試したが、結局彼女は妊娠できず、子どもは諦めざるを得なかった。

そのダマリスが、一匹の雌の子犬をもらい受けるところからストーリーが展開していく。彼女は、その雌犬を溺愛する。自分には生まれなかった子どもの身代わりであるかのように愛情をそそぐ。雌犬が暖かく過ごせるようにと自分のブラジャーの中に入れて、その柔らかい乳房で雌犬を優しく包んでやる。その溺愛ぶりに従妹のルスミラからは「あんた、触りすぎてその動物を殺しちゃうよ」とまで言われてしまう。

ダマリスにとって雌犬は、実の我が子同然の、いやきっとそれ以上の愛情をそそぐべき対象である。しかし、成長した雌犬はある日突然ジャングルの奥に消えてしまう。ダマリスは必死に幾日もジャングルを探し歩くが、雌犬はみつからない。やがて、彼女がその存在を諦めた頃に、雌犬はひょっこりと戻ってくる。痩せ細り泥だらけになった姿で。ダマリスはそれまで以上に雌犬を甘やかし溺愛する。だが、その愛情を知らぬかとごとく雌犬はまた姿を消す。ダマリスは、雌犬の動物的な行動に振り回されることになっていく。

「雌犬」が描くのは、まぎれもない母娘の愛憎の物語だ。母であるダマリスと娘である雌犬の関係は、ペットと飼い主などという関係などではない。動物のとしての本能もあり自由奔放に生きる娘(雌犬)と相手は犬であると頭では理解していても、まるで人間の、自分が腹を痛めて生み育てた実の娘であるかのように、ときに異常とも思える愛情と憎悪を抱えて接する母(ダマリス)。その姿は、物語の舞台となっているコロンビア太平洋岸の村という場所の閉塞感と、女は結婚したら跡継ぎとなる子どもを生み育てることが存在価値であり役割であるという古くからの因習とが相まって、息苦しくさえ感じさせる。

雌犬の奔放さに振り回されたダマリスは、やがてその愛情を失い、雌犬を他人に譲ることになる。しかし、雌犬は慣れ親しんだ我が家に気軽に里帰りするかのように、ダマリスの元に戻ってくる。ダマリスは、雌犬を追い払い、雌犬は愛しい母親からの厳しい仕打ちに驚く。ダマリスと雌犬は、戻っては追い払われの関係を繰り返すのだが、それにもやはり、“ペットと飼い主”ではなく“人間の母娘”の関係性を感じてしまう。そして、ラストに描かれるのはこの物語ならではの衝撃であり、一方でなるべくしてなったラストでもある。

ダマリスと雌犬の関係性に目がいきがちだが、脇を固める登場人物たちもふたりの物語にかかせない存在となっている。ダマリスの夫ロヘリオは、漁師兼猟師であり、冒頭で自分が飼っている犬が尻尾に傷を負い、そこが化膿して蛆がわいているのを見つけると躊躇なくその尻尾をぶった切るような粗野な男であるが、ダマリスと雌犬の関係は静観している。かといって放置しているわけではなく、時にアドバイス的なことをしたりフォローしたりすることもある。雌犬を溺愛するダマリスに、触りすぎて殺しちゃうと告げた従妹のルスミラもやや嫌味ったらしい部分もあったりするが、悪い人間ではない。その他の人物たちもいろいろと個性的な部分はあるが、悪人はほとんど存在しない。また、ダマリスには子どもの頃に目の前で友人が海にさらわれてしまい、その友人が発見されるまでの間、エリエセルおじから毎日ムチで打たれ続けるという経験をしていて、その経験が彼女の心にトラウマとなっている。

ロヘリオが犬の尻尾を躊躇なくぶった切る場面や少女期のダマリスがムチ打たれる場面など、粗暴さや陰湿さといった人間性であったり、土着性だったりが「雌犬」という作品の雰囲気を作る重要な事柄であり、物語に深みを与えているのだと感じた。

こうして書いてみると、「雌犬」は重くて読みにくそうな印象を与えてしまうかもしれない。しかし、ストーリーはテンポも良くて、文章も難しくないので、むしろ読みやすい方だと思う。逆に言えば、テンポよく読める文章だからこそ、読んでいる途中のふとした瞬間であったり、読み終わった後に作品を振り返ったときに感じる物語の奥深さだったり、重さが際立って感じられるのかもしれない。

「トータル・リコール ディック短篇傑作選」フィリップ・K・ディック/大森望編/早川書房-映画化された表題作を含む10篇で構成された短編集。ディック入門にちょうどいい一冊だと思う。

 

 

1990年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演で映画化され、後にコリン・ファレル主演でリメイクされた「トータル・リコール」の原作となる「トータル・リコール」(「追憶売ります」を改題)、2002年にトム・クルーズ主演で映画化された「マイノリティ・リポート」の原作となる「マイノリティ・リポート」など10篇の短篇作品を収録するフィリップ・K・ディックの短篇傑作選。本書はハヤカワSF文庫から刊行されているディックの短篇傑作選の中では第2作となる。

表題作「トータル・リコール」(深町眞理子訳)は、火星に行くことを夢見る男ダグラス・クウェールが《リカル株式会社》(これはクウェールの読み違いで実際には“リコール社”を訪れることから物語が始まる。そこで彼は“惑星間刑事警察機構(インタープラン)”の秘密捜査官として火星に行ったという超現実的記憶を脳に植え付ける処置を受けることで、記憶でのみ火星に行くことを実現するのである。だが、その処置の最中に思わぬトラブルが起きてしまう。クウェールの脳内には現実に秘密捜査官として火星に赴いていた記憶があったのだ。

脳の奥底深くにしまいこまれて忘却の彼方のかすかな記憶に過ぎなかった事実が思わぬ形で覚醒し、それが次第に大きな出来事へと発展していく。平凡な政府系機関の職員にすぎないはずのクウェールは、秘密捜査官として火星に赴任しある任務を遂行していたという記憶を植え付けられ/思い出したことで、彼はその生命を狙われることになる。平凡なはずのクウェールとはいったい何者なのか。彼の記憶に刻まれた彼のリアルとはなんだったのか。短篇でありながら複雑な設定が施されたストーリーは、これぞフィリップ・K・ディックという作品なのだろう。実はずっと昔に、「電気羊はアンドロイドの夢をみるか」を映画「ブレードランナー」(ハリソン・フォード主演のリドリー・スコット監督作品)きっかけで読んだだけで、その他の作品を読むのは今回がはじめてだったので断定することはできないのだが。

トム・クルーズ主演で映画化された「マイノリティ・リポート」は、事前に犯罪の発生を予知し犯罪者を犯罪を起こす前に逮捕してしまうシステムが確立された世界を舞台に描くサスペンス。この世界では、“犯罪予防局”という組織があり、予知能力者の力で犯罪の発生を事前に予知し犯罪者になると予測される人物を犯罪実行前に逮捕することで凶悪犯罪を抑止している。その犯罪予防局の創設者であり責任者がこの物語の主人公アンダートンである。

物語は、予知能力者が「犯罪予防局長官のジョン・A・アンダートンはある男を殺そうとする」という予知カードをアウトプットしたことで動き出す。アンダートンは、その情報を誤りと断定するが、犯罪予防局で出力された情報はいずれ軍にも伝わる。アンダートンは、自らの無罪を証明しなければならない。だが、彼を逮捕しようとする追跡者から逃れ、自らの無罪を証明することは簡単なことではない。それでもアンダートンは謎の協力者のサポートを受け、事件の真相を求めて闘っていく。

殺人などの凶悪な事件を未然に防止できたらとは、誰しも想像することかもしれない。しかし、現実には人の行動を事前に100%予測することは不可能だし、凶悪犯罪を未然に防ぐことも難しい。その不可能性を踏まえてこの短篇を読むと、犯罪予防局という存在に不安と恐ろしさを感じずにはいられない。予知能力者が予知した情報にもとづき、まだ事件を犯していない人物を犯罪者として逮捕し拘禁する。しかし、その予知情報は絶対的に正しいのか。このような世界が現実に存在するとしたら、いつ自分がアンダートンのように実際には誤った情報で犯罪者とされてしまうか予測できない社会。そのような社会は本当に安全で健全な社会と言えるのか。「マイノリティ・リポート」は、平和で安全な社会はどのようにして作られ維持されるべきかを現実社会の私たちに考えさせる小説だと感じた。

短篇2篇のレビューですっかり長くなってしまった。全10篇の収録作品は以下の通り。

トータル・リコール
出口はどこかの入口
地球防衛軍
訪問者
世界をわが手に
ミスター・スペースシップ
非Q
フード・メーカー
吊るされたよそ者
マイノリティ・リポート

紹介した2篇以外で印象深かったのは「地球防衛軍」。1953年に発表された短篇で、地上では核戦争が行われ、人間は地下深くに潜って暮らしているという設定。地上で戦っているのはロボット兵器で、人間は新聞記事のその戦争の様子を知る。地上は放射能に汚染されているため、人間は十分な装備を整えていないと地上に出ることはできない。しかし、実は......。という話。米ソの冷戦時代、各国の核兵器開発競争が激化していく中で書かれた作品と考えるとたっぷりの皮肉と警告の意味合いが込められているのではないかと感じる。

勝手なイメージでフィリップ・K・ディックの作品は難しいと思っていた。確かに簡単には読み込めなさそうな作品もあるだろうが、それはほんの一部で実際には面白い作品の方が断然多いのだと本書を読んで思った。長編小説はハードルが高いかもしれないので、本書のような短編集からはじめてみるのがよいと思う。そういう意味では、ディック入門書としてオススメの一冊だと思う。

 

「死の自叙伝」金恵順/吉川凪訳/クオン-“死”をテーマにした49篇プラス1篇の詩は、私たちに人間を本質とは何かを問いかけているように思う

 

 

まだ死んでいないなんて恥ずかしくないのかと、毎年毎月、墓地や市場から声が湧きあがる国、無念な死がこれほど多い国で書く詩は、先に死んだ人たちの声になるしかないではないか。

「『死の自叙伝』あとがき」で著者の金恵順(キム・ヘスン)はそう書いている。

この詩集が刊行されたのは2016年。“死”をテーマとして49篇の詩が収録されていること、そして冒頭に引用したあとがきに書かれた著者の言葉から、この詩集に深い意味が込められていると強く感じる。

やはり思い起こされるのはセウォル号事件だ。明らかな人災により沈没した船で数多くの若い命が理不尽に奪われたあの事件は、韓国の人々に大きく深い傷を残した。それはおそらく、いつまでも消えることのない忘れることのない傷だ。韓国の文壇では、セウォル号事件の前後で作家たちの創作に対する意識や書くことに対する気持ちが大きく変化したとも聞く。

「死の自叙伝」は、2018年に英語に翻訳されていて、その際に「リズムの顔」という長い詩が加えられている。日本語版である本書には「リスムの顔」も収録されている。英訳版「死の自叙伝」は、カナダのグリフィン詩賞という文学賞を受賞しているが、このグリフィン詩賞は“詩壇のノーベル賞”と呼ばれる権威ある文学賞であり(制定されたのは2000年とのことなので歴史的には比較的浅い)、この賞をアジアの詩人として最初に受賞したのが金恵順の「死の自叙伝」となる。

49篇の詩は、すべて死をテーマとするものだが、そのテイストはバラエティにとんでいる。「出勤 一日目」と題する第一詩は、地下鉄の駅で突然意識を失った私の視点で描かれる。ひとりの人間がゆっくりと死に向かっていくその横を人々が足早に通り過ぎていく。荷物を剥ぎ取り、服を剥ぎ取り、携帯で死にゆく人の姿を写していく人々と死にゆく者との対比が描かれていく。

詩を読むということは、その向こう側やその裏側、書かれていない事柄に意識を向けることだと思う。書かれている情報が少なく観念的でもあるなかで、そこにどのような物語を感じるか。読者の想像力が必要とされるのが詩という文学だということを「死の自叙伝」を読んでみて思った。そして、良い詩人というのは読者に豊富な想像力を喚起させるのだということも強く感じた。

訳者はあとがきの最後にこう記している。

『死の自叙伝』には、金恵順の持ち味である奇抜なイメージ、スピード感、時にグロテスクである力強さが存分に発揮されている。

先述したように、49篇の詩はひとつひとつ個性的でバラエティ豊かな作品となっている。訳者が書いているようにグロテスクとも感じられる描写もある。しかし、グロテスクさであったり、残酷さであったり、ときには無機質であるということも、すべては人間の本質を示しているのではないだろうか。“死”というのは、どのような人間でも取り繕うことのできない本質的な部分をさらけだすことなのではないだろうか。「死の自叙伝」にある49篇プラス1篇の詩を味わうことで人間の本質とはなにかを改めて考えてしまった。

 

「昔には帰れない」R・A・ラファティ/伊藤典夫、浅倉久志訳/早川書房-これぞ想像力と驚かされるヘンテコリンだけど惹き込まれる短編の数々

 

 

SF界のホラ吹きおじさんが語る抱腹絶倒、奇妙奇天烈な16篇

帯にはそんな惹句が書かれている。これは煽りでもなんでもなくて本当に抱腹絶倒で奇妙奇天烈なホラ話(この言葉が本当にぴったりだ)が収録されているのがR・A・ラファティ「昔には帰れない」である。そんな抱腹絶倒・奇妙奇天烈な16篇のラインナップは以下の通りとなっている。

素顔のユリーマ
月の裏側
楽園にて
パイン・キャッスル
ぴかぴかコインの湧きでる泉
崖を登る
小石はどこから
昔には帰れない
忘れた偽足
ゴールデン・トラバント
そして、わが名は
大河の千の岸辺
すべての陸地ふたたび溢れいづるとき
廃品置き場の裏面史
行間からはみだすものを読め
一八七三年のテレビドラマ

「素顔のユリーマ」から「昔には帰れない」を「Ⅰ」、「忘れた偽足」から「一八七三年のテレビドラマ」を「Ⅱ」として2部構成になっている。この分類について訳者のひとり伊藤典夫氏は「あとがき」でこう記している。

本書では収録作を大きく二つにわけた。第一部はすべてぼくが気に入って訳した作品で、ラファティとしてはシンプルな小品を集めた。(中略)第二部はちょっとこじれているかなあと思う作品と、浅倉さんの長めの翻訳でかためた。

収録されている16篇はどれも面白かったのだが、個人的に気に入ったのは最初に収録されている「素顔のユリーマ」(伊藤典夫訳)と最後に収録されている「一八七三年のテレビドラマ」(浅倉久志訳)の2篇。

「素顔のユリーマ」は、こんな一文から始まる。

彼は一党の最後のひとりといってよかった。

“一党”とは? 『偉大な個人主義の最後のひとり』でもなければ『今世紀の真に創造的な天才の最後のひとり』でもない。彼=アルバートは、『最後のドジ、まぬけ、うすのろ、阿呆』なのである。アルバートは、物覚えが悪く、4歳まで物もろくに言えなかったし、6歳までスプーンの使い方も覚えられず、8歳までドアのあけ方もわからないほどだった。彼は字が読めるようになっても書くことができなかった。そこで彼は“ズル”をするようになるのだが、ここからラファティの“ホラ吹きおじさん”ぶりが存分に発揮されるようになってくる。

文字が書けないアルバートは、自転車の速度計、超小型モーター、小さな偏心カム、おじいさんの補聴器からくすねた電池を使って自分の代わりに文字を書く機械を作った。その小さな機械を手に隠し持って機械に字を書かせるのである。

いや待て待て笑、右と左の区別さえ独特な方法を使わないとわからないような『最後のドジ、まぬけ、うすのろ、阿呆』なアルバートが、そんな巧妙な仕組みの自動筆記機械を作り上げるという設定がもうこれでもかというほどのホラ話ではないか。

それからもアルバートが自分ができない分野をサポートする機械を次々と作ってズルを続けていく。計算が苦手だから代わりに計算する機械を作り、考えることをサポートするロジック・マシーンを作り上げる。もうありとあらゆる苦手なことを機械を作ってズルをすることで乗り切っていくのだ。いや、そんなすごい機械を作る技術があるならドジでもうすのろでも阿呆でもないだろ、というツッコミは野暮というもの。そのヘンテコリンな設定こそがこの物語の面白さなのだ。

こうして次々とあらゆる機械をアルバートが生み出し続けたことで次第に彼は機械たちに苦しめられるようになっていく。そして、その状況に対応するために彼はハンチーという機械を作るのだが、こいつがさらに彼を追い詰めるものとなっていく。だが、アルバートはドジでまぬけでうすのろで阿呆だから自分ではどうすることもできない。最後にアルバートはハンチーの助言によって大きな決断をする。ラストの一文はこう締めくくられる。

二十一世紀は、この奇妙なかけ声とともに始まった。

ヘンテコリンなホラ話の結末は、ヘンテコリンだからこそなんともいえない恐ろしさを増幅させるのである。

わずか20ページほどの短編に長々と書いてしまった。でも、もうひとつ印象的だった作品「一八七三年のテレビドラマ」についても少し書いておきたい。

「一八七三年のテレビドラマ」の“1873年”とは、イギリスでテレビの開発が始まったとされる年で、当然ながら“テレビ”という装置はまだまだ存在していなし、当然ながら“テレビドラマ”も制作されていない。つまり、「一八七三年のテレビドラマ」は、架空のテレビドラマについて書いている短編なのである。

テレビ草創期のテレビドラマ(“スロー・ライト”ドラマ)は、オーレリアン・ベントリーが制作したという設定でこの作品は語られていく。ベントリーが制作した13本のテレビドラマのひとつひとつの内容を説明していきながら、その中でひとつの奇妙な物語が構成されていくのである。

13本のテレビドラマは、冒険あり、ミステリーあり、迫力のレースがあり、恋愛があり、死がありとバラエティに富んでいる。ベントリー作品の常連とも言える(テレビ草創期のドラマだから役者の数も少ないはずなので、必然的に起用される役者の顔ぶれは同じくなっていくのだが)役者たちがどのような役柄を演じ、どのようなストーリーが展開されたのか。そのドラマのあらすじを読んでいるだけでも楽しくなってくるのは、ラファティという作家の凄いところだと思う。

さて、「一八七三年のテレビドラマ」はただオーレリアン・ベントリーが制作した13本のドラマの筋立てを並べ立てているわけではない。話が進むに連れて、ベントリーが残したドラマの記録の中にドラマとは関係のない会話が残されていることがわかってくる。そして、その謎の会話が個々のテレビドラマをいつの間にか繋ぎだし、そこにオーレリアン・ベントリーと看板女優クラリンダ・カリオペー、さらに他の役者たちの関係性が絡み合ってカオスな状況を作り出していく。読者は、ベントリーが残した13本のテレビドラマの話よりも、そのドラマの裏側で進行していく物語の方に次第に興味を持っていかれることになる。そして、最後にはこれまた奇妙奇天烈な展開に驚かされるのである。

紹介した2篇以外の作品も面白い作品ばかりだと思う。ヘンテコリンなホラ話であることはもちろんだが、どこか郷愁を誘うような作品だったり、ブラックユーモアな作品だったりとバラエティ豊富なので、どれかひとつは面白いと感じられる作品が見つかるのではないだろうか。

 

 

「パイド・パイパー 自由への越境」ネヴィル・シュート/池央耿訳/東京創元社-ドイツ軍の空襲が続く中、老人が語った彼の体験とは

 

 

ドイツ軍による空襲が連日のように続くロンドン。連日の戦局分析会議でくたびれ、夕食をとろうとクラブに足を運んだ私は、そこでジョン・シドニー・ハワードと出会い、彼が経験した壮絶な体験の話を聞く。

ネヴィル・シュート「パイド・パイパー 自由への越境」は、ドイツ軍による攻撃が激しさを増す中、老弁護士ジョン・シドニー・ハワードがドイツ軍の目をかいくぐりながら子どもたちを連れてフランスからイギリスを目指す道中を描く物語だ。

戦争で息子を失ったハワードは、その傷心を癒やすためにフランスの片田舎にあるホテルに滞在していた。ドイツによるフランスへの侵攻は次第に激化し情勢は厳しくなっていく。イギリス軍のダンケルク撤退の報を知ったハワードはイギリスへ帰ることを決める。そして、彼の帰国の話を聞きつけた同宿の夫婦からあることをお願いされることになる。それは、夫婦のふたりの子どもを一緒に連れて帰ってほしいというものだった。夫婦の夫は国際連盟の職員でスイスの本部を離れることはできないし、妻は夫のそばに残りたい。しかし、子どもたちを危険に晒すわけにはいかない。そこで、ハワードにお願いしてきたというわけである。

こうして、ハワードはふたりの子どもたちを連れてイギリスへ帰国の旅に出るのだが、ここからがこの物語のメインである。当初、鉄道などを利用してすんなりと帰国できる目論見だったハワードたちだが、ドイツ軍の攻撃が激しくなりフランス各所がドンドンと侵略、占領されていくことで移動ルートが次々と狭められていく。そして、次第に彼らは追い詰められていく。

また、旅の途中でハワードは、別の子どもたちも一緒にイギリスへ連れて行くことになっていく。ドイツ軍の攻撃によって両親を殺されひとり生き残った子やホテルのメイドの姪っ子など。本書のタイトルである「パイド・パイパー」は、「ハーメルンの笛吹き男」で笛の音色で町の子どもたちを連れ去ってしまう笛吹き男を指すが、フランスからイギリスへと命がけの旅を続けるハワードは、まさに善良なる“パイド・パイパー”である。また、作中ではハワードが草笛を作って子どもたちを楽しませたり励ましたりする場面が描かれるが、そこも“パイド・パイパー”たる一面であろう。

冒頭に、ドイツ軍の空襲が続く中でハワードが自らの数奇な旅の話を私に語っていることから、彼が無事に祖国に戻ってきたことは明らかだ。彼が子どもたち全員を無事に連れてこられたのか、子どもたちはイギリス到着後どうなっていったのか。その行末はラストにハワード自身の口から告げられる。

本書は1942年に刊行された。ハワードがイギリスへの帰国を決断するきっかけとなったダンケルクの戦いは1940年のことだから、ものすごくリアルタイムに書かれた作品である。リアルタイムに書かれた作品であるからこそ、そこには著者が戦争をどう捉えていて、その時代を生きている人たちや後世の人たちに何を伝えようとしたのか伝えてくれたのかを知ることができると思う。老体に鞭打ち、子どもたちを守ってイギリスへの旅を続けたハワードは、その点で見れば英雄といえる。一方で、老人や子どもや女性たちがその身を危険に晒し、命をかけて生きていかなければならないという異常な状況は、戦争というものの非日常性や非人道性を表していると感じる。戦時における英雄を描いているようにみせて、その根底には戦争の異常さを訴え明確に戦争を(その当時でいえばおそらくはナチスドイツを)批判する意志がこの作品には込められているのではないかと思った。

 

「ロボット・イン・ザ・ホスピタル」デボラ・インストール/松原葉子訳/小学館-第1作は劇団四季が舞台化し日本で映画化もされたベストセラー。第5作となる本作でもチェンバース一家にはいろいろなことが起こります。

 

 

第1作「ロボット・イン・ザ・ガーデン」が劇団四季によってミュージカル化されたり、嵐の二宮和也さん主演で映画化(映画タイトルは「TANG タング」)もされるなどベストセラーとなっている超絶カワイイロボット“タング”とタングと暮らすチェンバース一家のドタバタを描くシリーズの最新第5作が出た。今回のタイトルは「ロボット・イン・ザ・ホスピタル」。病院を舞台にしたどんなドタバタが飛び出すのだろうか。

wwws.warnerbros.co.jp

パンデミックの影響によるさまざまな制約も解除されてきて、チェンバース一家には平穏な日常が流れていた。元気に小学校に通うタングも、ホームスクーリングで学ぶボニーも、ベンとエイミーにもいつもと変わらない日々があった。

ただ、平凡で平穏な日常の中にもなにかしらのトラブルはつきものだ。物語が始まって早々にベンは隣人のミスター・バークスの手伝いをしていてが膝を骨折し、1ヶ月の不自由な生活を送ることになる。その傷が癒えたかと思えば、タングの宿泊学習に付き添いで参加して今度は手に火傷を負ってしまうのだ。

ベンにとっては災難の連続だが、どちらの怪我も彼自身の不注意が原因なので、同情はするけども思わずハハッと苦笑いしてしまう。そして、チェンバース家には、ベンの怪我だけでなくいろいろとトラブルが起きる。期限ギリギリになって学校のイベントに着る衣装が必要だと言い出すタング(小学生くらいのお子さんをお持ちの家庭なら少なからず似たような経験をしているのでは?)や学校の宿題を「やりたくない」とゴネるタング(今頃我が子の夏休みの宿題の進み具合にヤキモキしている親御さんも多いだろう)に頭を抱えるベンとエイミー。ホームスクーリングをしているボニーも友だちのイアンとの関係になにかあったようなのだがなかなか心を開いてくれない。前作までのように突然ロボットが庭に出現したりするようなハプニングは起きないが、その分どの家庭でも起きているような、子どもを育てていると「そういうことあるよね~」と共感しまくりな出来事が次々と起きる。その点では、前作までと比べてよりチェンバース家を身近に感じられる作品になっているのではないだろうか。

タングやボニーの問題だけでなく、ベンの姉ブライオニーにもこれまでにない変化がある。もともと彼女自身が夫との関係や娘アナベルとボーイフレンドのフロリアン(彼は精巧に作られたアンドロイドだ)の関係、同性パートナーを持つ息子ジョージーのこと等等いろいろと頭の痛い問題を抱えながら、姉としてベンとその家族を叱咤し支える役割を担っていた。そのブライオニーが、本作では交通事故に遭い(事故に至る経緯にはボニーが参加したSTEMコンテストの発表会があり、そのことがボニーの心を傷つけてしまう)、それをきっかけに自分を見つめ直そうと足を踏み出すことになる。

そしてタングだ。学校の宿題を「やりたくない」と拒否するタングは、どうやら学校でも問題を起こしているらしい。ベンとエイミーは、小学校からの呼び出しを受け、校長のミセス・バーンズと担任のグレアム先生からある事実を伝えられる。それは、タングにとって名誉なことでもあり、しかしベンやエイミーにしてみれば不安もあることだった。

シリーズ作品を第5作まで読んできて思うのは、チェンバース家がけして特別な家族ではないということだ。そして、少し見方を変えることで、彼らが経験することは私たちにも当てはまるところがあるということだ。たとえばボニーのこと。学校生活に馴染めず自閉スペクトラム症であるボニーにベンもエイミーも当初は困惑していた。同じような子どもを持つ家族はこの世には数え切れないほどいるだろう。私には子どもがいないので想像でしか語ることができないから綺麗事になってしまうかもしれないが、ベンもエイミーも自閉スペクトラム症の娘との生活を通じて多くを学び経験していると思う。ときにはイライラして娘にあたってしまったり、言葉選びを間違えて娘を傷つけてしまうこともある。それでもふたりは娘を思い、彼女にとって一番と思える選択をする。まだまだ幼いボニーだが、今後このシリーズが書き続けられる中で成長し、なにかしらの変化があるかもしれない。それを見守ることも読者としては楽しみであり不安でもある。また、タングについても彼をロボットとして見れば特別な存在かもしれないが、ごく普通の人間の男の子と考えれば、その言動や成長は微笑ましくもあり腹立たしくもある。でも、子どもの成長を見守るというのは、その子どもの言動に一喜一憂することでもあり、着実に成長していく姿に安心するということでもあると思う。まさに読者はひとりの男の子の成長をベンやエイミーと一緒にハラハラドキドキワクワクしながら見守っているのだ。

この先タングもボニーもドンドンと成長して、やがて大人になっていくだろう。このシリーズがいつまで続くのかは作者以外に知るよしもないが、親戚の子ども成長を見守るおせっかいなオジサンのような気持ちで今後も新作をチェックしていきたいと思っている。おそらく1年後くらいに出るだろう第6作をワクワクした気分で待ちたいと思う。

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