タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く」奈倉有里/イースト・プレス-ロシアで暮らし学んだ日々。その中で出会った人々、学んできたことを振り返った記録。読んでいてさまざまな思いが深く胸に響いてきた。

 

 

何かを学ぶということは、長い人生において必ず自分の血となり肉となるということを人生も折り返し点を過ぎてゴール地点も視界に入ってくるようになった今強く感じている。

なぜそういう話から始めるかといえば、本書「夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く」が、奈倉有里さんがロシア語を学んでいく中で得た出会いであったり、ロシアという国で見聞した出来事が彼女の今を構成するとても大切な要素となっていると感じたからだ。

高校1年生のときに、「自分も英語以外の言語がやりたい」と考えた奈倉さん。“自分も”というのは、彼女のお母さんが“趣味として”ドイツ語を学び、さらにスペイン語も学んでいたからで(しかもいずれも独学である)言語を学ぶということに対するハードルが低かったのだろう。第1章「未知なる恍惚」で描かれる家庭内の描写(ドイツ語、スペイン語を学ぶお母さんが家中の家具や家電に単語を書き、ロシア語を学ぶ奈倉さんはそこにロシア語の単語を書く)や書店に行けば友人から「ロシア関連の本には見境がない」と言われるほどロシア語やロシア文学に関する本を手にとるほどにロシア語にのめり込んでいく描写が面白い。面白いと同時に、若い時にこんな風にすべてを捧げられるほどにのめり込めるものと出会えた奈倉さんを羨ましくも感じた。

こうして、「進路というものが自分にあるのならロシア語しかない」とまでになった奈倉さんは、2002年から2003年にかけての冬にロシアのペテルブルクに渡る。渡航の旅の途中で大雪によるトラブルに巻き込まれたりするが、親切なバイオリン弾きの紳士に助けられてなんとかペテルブルクに到着し、語学学校でロシア語を学ぶ。さらにモスクワにあるロシア国立ゴーリキー文学大学に合格し2008年に日本人としてはじめて同大学を卒業した。本書には、波乱のペテルブルク渡航時のエピソードから文学大学で学んだこと、ロシアで出会ったたくさんの人との思い出が記されている。それは、奈倉有里というロシア文学研究者、翻訳家の礎を築いた若き日のノスタルジックな思い出であり、真剣にロシア語、ロシア文学と向き合ってきた学びの記録である。

いくつか印象に残ったエピソードがある。第5章「お城の学校、言葉の魔法」には、ペテルブルクで通った語学学校で出会ったエレーナ先生のエピソードが書かれている。奈倉さんはエレーナ先生と出会ってロシア語で詩を読む楽しさを知る。ペテルブルクの大学で文学を学ぼうと考えていた奈倉さんにモスクワの文学大学を薦めてくれたのもエレーナ先生だ。そして、アレクサンドル・ブロークという詩人を教えてくれたのもエレーナ先生だ。奈倉さんが魅了されたブロークの詩の一部が本書内で引用されている。

僕は喜びに 向かっていた
道は夕闇の露を 赤く照らし
心のなか 息を呑み 歌っていた
遠い声が 夜明けの歌を[・・・]
心は燃え 声は歌った
夕暮れに 夜明けの音を響かせながら[・・・]

本書のタイトル「夕暮れに夜明けの歌を」は、おそらくこのブロークの詩の一節からつけられたのだろう。

アレクサンドル・ブロークの詩の魅力については、第17章「種明かしと新たな謎」でも記されている。「かの女」というブロークの代表的な作品を引用した上で、原語の“音”に魅了されたことを奈倉さんは書いている。詩に書かれていることの意味やブロークの伝記的事実はわからなくても、エレーナ先生の朗読を聞き、その音の響きに魅了された。そして、文学大学で出会ったアントーノフ先生の授業で「かの女」がもつ詩のリズムについて学んだことでさらに衝撃を受けることになる。本書ではもちろん日本語の訳詩となっているが、奈倉さんが魅了されたという原語の音の響きを機会があれば聞いてみたい。

本書ではエレーナ先生の他に奈倉さんが出会った人々についての思い出がたくさん記されている。ペテルブルクで出会ったユーリャという女子大学生。モスクワで出会ったインガというドイツからきた女子留学生。宿泊所で出会ったサーカス団の青年で道化師のサーシャとアクロバットのデニス。同じ学生寮で同居していたマーシャとは現在でも連絡を取り合う仲が続いている。

奈倉さんにとって一番の出会いは文学大学の文学研究入門の講座で出会ったアレクセイ・アントーコフ先生である。しょっちゅう酒を飲んでいることで学生の間でも有名人だったアントーコフ先生。でも、アントーコフ先生の最大の魅力はその授業にあった。彼が授業を始めると学生たちはその講義に魅了される。普段は酔っ払ってフラフラしている先生が、いざ授業となると人が変わったようにいきいきとして学生たちを講義の世界に集中させる。まるで作り話やマンガに登場するような人物だが、紛れもなく実在の先生だ。多くの人にとっては、こんな先生に出会うことは奇跡とも言えるくらい稀なことだろう。以後、大学を卒業するまで奈倉さんはアントーコフ先生に師事し、彼からたくさんのことを学んでいく。アントーコフ先生の授業での奈倉さんの存在感から創作科の学生からネタにされて、その創作があらぬ誤解に発展してしまったりもする。アントーコフ先生との数々のエピソードには、奈倉さんの先生に対するリスペクトの気持ちがギュッと詰まっていると感じる。そして、本書の最終章になる第30章「大切な内緒話」での卒業論文でのエピソードにつながっていくのである。

今、ロシアはウクライナへの軍事侵攻により世界的に非難されている。奈倉さんが学んでいた頃にもロシア国内とロシア周辺との状況はかなりひどいものだった。警察組織の腐敗やチェチェン問題などがあり、自爆テロ事件なども起きている。そして、その状況は今もなお変わらぬままに、クリミア併合や現在のウクライナ軍事侵攻へとつながっていく。そうした中にあって、奈倉さんは自分は無力であったと記している。そのうえで、無力でなかった唯一の時間があり、それは詩や文学を学ぶことで生まれた交流のときであったと記している。人は言葉を学ぶ権利があり、その言葉を使って世界中の人たちと対話する可能性がある。それが“分断”を生むのではなく“つながり”を生むにはどうしたらよいか。日本語以外のロシア語という言語を学び、ロシアで暮らして多くの出会いや多くの経験をしてきたからこそ、奈倉さんは言葉の大切さを感じているのだろう。

すでに多くの人が本書を絶賛している。今回、私自身も読んでいて、単純に面白いという他にいろいろなことを深く考えた。私は日本語以外の言語を知らないが、翻訳された文学作品やノンフィクションを読むことで世界を身近に感じることができる。この本は、言葉の持つ力について改めてじっくりと考えることを促してくれる本だと思う。考えること、そして理解することで相手との“つながり”を深めていく。いがみ合う世界ではなく分かり合う世界になることを祈るし、自分自身がそうなるように行動していきたいと思っている。

「呑み込まれた男」エドワード・ケアリー/古屋美登里訳/東京創元社-愛する息子ピノッキオを探して巨大な魚に呑み込まれたジュゼッペ。魚の腹の中で彼が綴ったこととは

 

 

エドワード・ケアリーの翻訳最新作「呑み込まれた男」が刊行された。まだ発売日より前だったが、立ち寄った丸善丸の内本店でひっそりと平台に置かれているのを見つけた私は、迷うことなく購入した。で、翌日から読み始めた。

「呑み込まれた男」は、「ピノッキオの冒険」に登場するピノッキオを作ったジュゼッペを主役とする物語だ。自らが作り上げた愛する息子ピノッキオが家を飛び出してしまい、ジュゼッペは必死で息子の行方を探し求める。そして、海辺の町で木彫りの人形が町を困らせているという噂を耳にする。ジュゼッペは、漁師が木彫りの人形を縛り上げ、古いぼろ船に放り込んで海へ流したと知る。彼は別の漁師から船を買い、ピノッキオを探して海へ漕ぎ出す。そして、巨大な魚に呑み込まれる。

本書の第1章、第2章は、ジュゼッペがピノッキオを創造し、逃げられ、探し求めて魚の腹に呑み込まれるまでの話が描かれ、第3章からはジュゼッペが魚の腹の中でみつけた“マリア”という船に残されていた品で生き延びることになる。彼は船長が残した航海日誌に、自分も記録を書き残していく。それは愛する息子のために残す記録だ。

こうして、ジュゼッペの回顧録のような形で物語は進んでいく。彼の生い立ち、父親との関係、過去に愛した女たちのことを彼は航海日誌に記していく。巨大な魚の腹の中という闇の恐怖や自分以外に誰もいない場所という孤独に抗うがごとく、ジュゼッペは日誌を記し、物語を創造する。かつて木彫りのピノッキオを創造したように、堅パンをこねた粘土で塑像を作り、木板に絵を描く。

読んでいくうちに感じたのは、本書が“父と息子”を描いた物語だということだった。ジュゼッペとピノッキオの物語であり、ジュゼッペとその父親の物語であり、マリア号の船長トゥグトゥスとその息子の物語。この“父と息子”という関係性が、本書のコンセプトというかキーワードのように、物語の中盤から終盤へと読み進める中で感じられるようになっていた。

本書の冒頭の献辞をケアリーは、「愛する父(1938~2010)と第一子だった息子(2006)を偲んで」(西暦年は横書きに合わせて数字表記にしました)と記している。本書が“父と息子”の物語だと感じたとき、あらためて献辞を読み返し、この物語はジュゼッペとピノッキオ、ジュゼッペの父の物語であると同時にケアリー自身の愛する父と息子との関係を反映した物語なのではないかということを思った。ジュゼッペは、ケアリー自身でもあるのではないかと感じた。

そんなことを思いながらこの物語を読み終えて、古屋美登里さんの訳者あとがきを読んでいくと「父と息子の物語」というワードが記されていた。そこには私が感じたこととは少しニュアンスは違っていたけど、本書やケアリーの過去作における登場人物たちの造形の共通性について記されていて、なるほどと思った。

最後に、本書のラストについて感じたことを書いておきたい。本書には「エピローグ その後」という章がラストにある。何が書かれているかについては、まだ未読の方の興を削ぐことはできないので書かないが、個人的にこのエピローグの必要性について考えている。エピローグの直前の章のラストシーンで物語が終わったとしても、読者は十分に納得する終わり方だと思うが、ケアリーはさらにエピローグとして後日談的な物語を記している。エピローグ自体ももちろん面白いし、これはこれでアリだと思うのだが、なくても物語がつまらなくなるわけではない。うーん、どっちがよかったんだろう。他の読者はどう感じるんだろう。

 

「将棋指しの腹のうち」先崎学/文藝春秋-いまや“将棋メシ”という言葉もすっかりメジャーになりましたよね

 

 

 

藤井聡太さんが最年少プロ棋士になり、破竹の29連勝を記録したことでにわかも含めた将棋ファンが増えた。そして、その当時から藤井さんが数々のタイトルを獲得して五冠(竜王、王位、叡王、王将、棋聖)となった現在に至るまで世間から注目されるのが、いわゆる“勝負メシ”と呼ばれる棋士たちの食事やおやつである。ニュースやワイドショーでは対局の状況よりも何を食べたかの方が重要で、藤井五冠が注文した料理やお菓子をこぞって紹介していたりする。

「将棋指しの腹のうち」は、そんな棋士たちとメシにかかわるさまざまなエピソードが書かれたエッセイ集だ。著者はプロ棋士先崎学九段。羽生善治九段などと同世代の実力派の棋士であり、将棋マンガ「3月のライオン」(羽海野チカ白泉社)の将棋監修者としても知られている。

本書では東京千駄ヶ谷にある将棋会館近くの、棋士たちがよく利用するお店をテーマにして7つのエピソードが収録されている。お店のラインナップはこんな感じ。

第一局【みろく庵】
第二局【ほそ島や】
第三局【代々木の店】
第四局【チャコあやみや】
第五局【焼肉青山外苑】
第六局【きばいやんせ】
第七局【ふじもと】

第三局だけ具体的な店名ではなく【代々木の店】となっているのは、そのお店の名前が思い出せなかったのと書かれているエピソードがお店にとって良いエピソードではないからということらしい。

藤井五冠がデビューして将棋メシ、勝負メシが注目されるようになった頃、著者の先崎九段はうつ病を発症して将棋の世界から距離をおいていた。なので、第一局に取り上げられている【みろく庵】が、将棋ファンの聖地のような存在になりお客さんが殺到していたことを知らなかったという。先崎九段にとって【みろく庵】は、将棋会館での対局や勉強会が終わってから軽く一杯やるのにちょうどいい蕎麦居酒屋という店だったのだ。それが聖地となっているのだから驚いただろう。【みろく庵】は2019年に閉店してしまったので残念に思っている将棋ファンは多いと思う。

その他、【ほそ島や】は「将棋指しにとっての社員食堂」ともいえる棋士女流棋士奨励会員たちがよく利用しているそば屋、【チャコあやみや】はステーキハウス、【きばいやんせ】は居酒屋、【ふじもと】は鰻屋である。

目次にズラッと並んだお店の名前をみると、さぞかし将棋指しはいいものを食べているのだろうと思ってしまうが、たしかにいいものを食べている場合もあるが、けっしてグルメぶっているというわけではない。【ほそ島や】の魅力はそばの美味しさももちろんだが、若手の奨励会員にとってはなんといっても量。そして、いまでこそあまり見られなくなったようだが、先輩棋士がさりげなく後輩たちの食事代を払うという習慣だ。芸人の世界とかでもそうだが、先輩が後輩の面倒をみるというのは将棋界でもあるそうで、だがそれも最近では失われている。それは、ある事件がきっかけで対局中の外出が禁止になってしまったからとのこと。将棋界に限ったことではないが、不正防止という観点である程度の制限がかかってしまうのは致し方ないとはいえ、それがその世界で働いている人や関わっている人の楽しみや権利を奪ってしまうのは残念だ。

第四局【チャコあやみや】の羽生善治九段とのエピソードがよかった。NHKの仕事で長時間の解説(しかも同時に複数の対局分!)をふたりでこなさなければならなかったとき、夕方の休憩時間にふたりは【チャコあやみや】でステーキを食べる。その後、夜の部の解説を疲労困憊で乗り切ったふたりは、将棋会館の床に座り込む。どちらも口をきくのも大変なくらい疲れている。そこで先崎九段が自分でも意外な言葉を口にする。

「チャコのステーキ、おいしかったなあ」
瞬間、彼の声があの元気な甲高いものとなった。
「うん、おいしかった」
「あのステーキのおかげで、いい仕事ができたなあ」
「うん、ちょっと疲れたけどね」
本当に冗談抜きで、彼の口から疲れたという言葉を聞いたのはこの時だけだと思う。

疲労困憊の中で奮闘するふたりで食べたステーキ。きっと羽生九段の中に深く染みた食事だったのだろう。

他にも、棋士女流棋士奨励会員たちとのさまざまなエピソードが、それぞれのお店と結びついて記されている。笑えるエピソードもあれば、心にグッとくるエピソードもある。食と人生は切っても切り離せない関係だと思うが、将棋というやや独特な勝負の世界に身をおいている人たちだからこそ、その中で味わったさまざまな食事やお店との出会いが印象深いエピソードになっていくのではないだろうか。

私は将棋のことはさっぱりわからないけれど、たまにネットで対局をみたりするのは好きだ。最近はAIが対局中の優勢の度合いなんかを判定してくれたり、次の一手を予想したりしていて、それが覆されたりするとコンピュータではまだまだ太刀打ちできない人間の凄さを感じられる。そうした棋士の凄さを思い返しながら、本書にあるようなエピソードを読むと、棋士人間性のようなものも垣間見えて楽しいと思う。

紹介されているお店に行ってみてもいいかもと思う。

「ウクライナから愛をこめて」オリガ・ホメンコ/群像社-ウクライナ出身で日本の大学で学んだ著者が綴るウクライナの人々や風景。その美しさがいま危機にさらされていることに強い憤りを感じる

 

 

2022年2月、ロシアは隣国のウクライナに対して軍事侵攻した。およそ4ヶ月が過ぎたいまも戦争は続いている。

ウクライナから愛をこめて」は、ウクライナキエフ(現在日本ではよりウクライナ語の発音に近いキーウと表記、呼称されている。本レビューでは本書の記載に添ってキエフとします)出身で東京大学大学院に留学し博士号を取得後、キエフの大学で日本史を教える傍ら、作家、ジャーナリストとしても活動している著者が日本語で書いたエッセイ集である。

本書に描かれるウクライナは美しい魅力的なところだと感じる。そこに暮らす人々の姿、ウクライナの歴史、キエフの街並みなど、一度は訪れてみたいと思ってしまう。一方で、チェルノブイリ原子力発電所があり、1986年に起きた未曾有の大事故がウクライナの人々にどのような影響を与えたか、そして2011年の東日本大震災後に起きた福島原発事故についても記されている。

ウクライナは世界有数の農業国だ。「ひいおじいさんの土地」というエッセイにこんな描写がある。

私は農業の仕事をさせられたことのない世代なので、土地にあまり特別な「思い入れ」はないと思っていた。それでも、外国にいる時に「自分の国」を問われたら、まず頭の中に思い浮かぶのは、子どもの頃、母親とおばあちゃんのところに行く途中にある麦畑の野原。そこには花がたくさん咲いていた覚えがある。それが私の中の故郷ウクライナのイメージ。

また、「散歩で感じるキエフの歴史(1)」、「散歩で感じるキエフの歴史(2)」には、キエフの街にある歴史的な名所旧跡について書かれている。キエフの中心部にあるシェフチェンコ公園という大きな公園は、ウクライナ人が大好きなサッカーの選手の名前からつけられたものではなく、19世紀帝政ロシア時代にウクライナの独立を語った国民的英雄タラス・シェフチェンコに由来するものであること。キエフ大学から聖ウラジミール教会につづくシェフチェンコ大通りのポプラ並木。少し横道に入るとマロニエの並木があり、5月のマロニエの花が咲く頃がキエフの観光シーズンであること。旧ソ連邦では一番深い地下を走っている地下鉄は、万が一のときには核シェルターとなるように考えて作られたこと。

エッセイに記されたキエフを頭の中で想像しながら、この美しい街並みが、歴史的な建物が、そして何よりこの街で暮らしていた人たちが、理不尽な戦争によって破壊され、住む場所を奪われているのだということに愕然とする。そして怒りを覚える。

ロシアがウクライナに侵攻したことについて、ロシアにもロシアなりの言い分はあるだろう。だが、いかなる理由であれ武力をもって軍事的に侵攻し、そこに暮らす人々の平和を奪う行為はけっして許されることではない。現在、世界中の多くがロシアを非難し様々な制裁を加えている。ただ、ウクライナに軍事的に侵攻したことは非難されてしかるべきではあるが、ロシアに暮らす一般市民や日本をはじめ世界に暮らすロシア人に対して悪意を投げつけるのは間違っている。そこはしっかりと考える必要があると思う。

なぜこのようなことが起きてしまうのかと考えずにはいられない。そして、今こうして平和な生活を送れているが、いつなんどき戦争に巻き込まれるかわからないのだということを考えずにはいられない。

本書はもう何年も前に買っていて、ずっと積んだままになっていた本だ。まさかこのような状況になって読むことになるとは想像していなかった。だが、このような状況にあるからこそ読んでおかなければならない本だとも言えるかもしれない。

6月末に発行されたフリーブックレット「BOOKMARK」の緊急特集号「戦争を考える」で、作家の恒川光太郎さんが本書を紹介している。その末尾は「キーフの街を平穏に歩ける日々が訪れることを願ってやまない」と記されている。本書を読んだ人も読んでいない人も、ほとんどの人が共通して願っていることだと思う。私もウクライナに1日も早く平和な日々が戻ってくることを願っている。(願うことしかできないもどかしさ)

 

「せんそうがやってきた日」ニコラ・デイビス作、レベッカ・コップ絵/長友恵子訳/すずき出版-ある日突然戦争はやってくる。そして、すべてを奪い去る。家族も居場所も。

 

 

家族が食卓を囲む平和な日常。いつまでも続くと思っていた平和な日々。だが、戦争はある日突然にやってくる。

「せんそうがやってきた日」は、家族4人が朝の食卓を囲む平和な場面から始まる。お父さんは弟に子守唄を歌い、お母さんは朝ごはんを作って私にキスをして学校へと送り出してくれる。ランチタイムのすぐあとに戦争がやってくるまでは、平和な時間があった。

いまも世界のどこかで戦争が起きている。そして、罪もない命が無差別に奪われ、何もかもが破壊されていく。生き延びた人たちは戦争から逃れ難民となる。祖国を離れ、他の国で暮らさなければならなくなる。だが、難民を温かく受け入れてくれる国ばかりではないし、優しい人ばかりではない。一時的な滞在は認めても定住することは認めない国もある。

作者のニコラ・デイビスはあとがきの中で、世界には2250万人の難民がいること、その半分以上が子どもであること、2016年の春にイギリス政府が3000人の孤児の難民の受け入れを拒否したことを書いている。また、座る椅子がないという理由で難民の女の子が学校への入学を拒否されたことも記している。本書は、そうした出来事をきっかけにして生まれた。

ランチタイムのすぐあとにやってきた戦争によって家族と祖国を奪われた少女は、難民となって逃げていく。少女にはもう居場所がない。学ぶための椅子すらない。だけど、そんな少女に優しく手を差し伸べてくれる人もいる。将来への希望を与えてくれる人がたくさんいる。戦争はすべてを奪うし、すべての人が優しいわけではないけれど、きっと誰かが少女を支えてくれる。だから、希望を失ってはいけないのだと語りかけてくる。いつの日か少女が新しい人生を歩み、祖国に戻って幸せをつかむ未来がくると信じたい。

本書の元となった詩と誰も座っていない椅子の絵がガーディアン紙のウェブサイトに掲載されると、その内容は多くの反響を呼び、ハッシュタグ「#3000chairs」をつけたツイートが数多く投稿されたという。今でもツイートされ続けている。

戦争反対を叫んでも簡単に戦争は止まらない。その叫びを、無意味な叫びだと言う人がいるかもしれない。だけど、無意味だからと諦めてしまってはいけないのだと言いたい。私たちは、世界中で起きている戦争に反対を叫び続け、平和であることの尊さを叫び続けていかないといけない。平和であることを長く続けることの難しさをあらためて考え、これからも平和を続けていけるように考えていかなければいけない。それが世界中に広がってほしい。

希望に満ちあふれた未来のために、子どもたちの将来のために、戦争を押し返していかなければならない。

 

「異常(アノマリー)」エルヴェ・ル・テリエ/加藤かおり訳/早川書房-2022年の海外文学で間違いなくトップクラスの衝撃作。さまざまな人々の群像劇であり、SFエンターテインメントであり、極上のサスペンスでもある作品。

 

 

エルヴェ・ル・テリエの「異常(アノマリー)」は、2022年の翻訳文学の中で間違いなくトップクラスの衝撃作だ。

物語は3部構成になっている。第1部ではさまざまな人物と彼らに関わる人たちが描かれる。冷酷で非道な殺し屋、作品の評価は高いが売れ行きはパッとしない小説家、初老の建築家との関係に迷うシングルマザーの映像編集者、余命わずかの癌患者、ペットのカエルを愛する7歳の少女、良心の呵責を感じながらきな臭い大手製薬メーカーの顧問弁護士として働く女性弁護士、ナイジェリアから世界に羽ばたいていくアフリカンポップの帝王。彼らには、直接な接点はない。唯一、映像編集者のリュシーと建築家のアンドレの間に、恋人未満の相互にすれ違った微妙な関係が存在しているだけだ。

接点のない人々をつなぐたったひとつの共通点は、パリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便に乗り合わせていたということ。そして、強烈な乱気流に巻き込まれて九死に一生を得たということ。そして、“プロトコル42”というコードナンバーを付与された『究極に〈検討された状況にあてはまらないケース〉』に巻き込まれたということ。そのことが彼らの運命を大きく揺り動かすことになる。

プロトコル42”とナンバリングされる異常な状況とはなにか。本書はそこが最大のポイントとなる。プロトコル42の発案者であり、確率論研究者であるエイドリアンと数学者のティナもおそらくは絶対に起こり得ないであろうと考えていた異常事態。プロトコル42の発動により、軍、NSA、FBI、その他哲学者や宗教関係者、ありとあらゆる知恵を結集させた対策チームが組織され、この状況に対処することになる。

第1部の半ばを少し過ぎるくらいまでは、さまざまな人物たちのそれぞれのストーリーが描かれていくのみで、読みづらくはないが正直あまり面白くも感じないが、「エイドリアンとメレディス」の章に入り、プロトコル42が発動され、エイドリアンに緊急連絡が入るところで展開は一気に加速する。そして、次章「ジョーク」で荒れ狂う乱気流に巻き込まれた渦中のエールフランス006便にある異変が発生することで、物語は完全に“異常”へと突き進んでいく。

「エイドリアンとメレディス」そして次章の「ジョーク」と続く本書のターニングポイントをすぎると、そこからはどんどんと先が読みたくなる展開が続く。エールフランス006便に乗り合わせた乗客“同士”の複雑な関係。彼ら/彼女らがどのように関係を構築していくのか、あるいは受け入れられずに苦しむのか。また、彼ら/彼女ら自身のみならず家族や恋人も異常な状態の中で驚き、呆然とし、苦悩する。受け入れた者が幸せになれるわけでもなく、ただ不幸に陥るだけでもない。十人十色の人生模様がそこには存在する。異常な状況だからこそ生まれる複雑な感情は、もし自分が同じ状況に置かれたらどう考えるだろうかという問題提起も含んでいる。

エールフランス006便が巻き込まれる異常事態とはなにか。それを書いてしまうのは完全なるネタバレなので書けないが、かなりSF的な状況である。しかし、本書ではその異常事態がなぜ起きたのかといった謎解きのような話にはならない。ただ起きたこと、として描かれ、その状況の中での人間物語が描かれるのである。

そして、ラストシーン。そこで起きたある異変。そして、大統領によるひとつの決断。物語の中で終始物分かりの悪い滑稽な人物として描かれる大統領(本書は2021年に起きた事件として描かれるが、この大統領はバイデンではなく前大統領を想起させる)だけに、その決断がもたらす結果は幸福とは言えそうにない。最後のページに描かれる衝撃には、思わず目を見張ってしまい、読み終わってもしばし呆然とため息しかでなかった。

内容を紹介するのが本当に難しい作品なので、このレベルのことしか書けないが、とにかく2022年を代表する海外文学作品であることは間違いないと思う。

 

「Mリーグほぼ毎日4コマ①」藤島じゅん/竹書房-Mリーグにハマった著者がその魅力をたっぷりと伝えてくれる4コママンガの第1巻

 

 

問題。Jリーグはサッカー、Vリーグはバレーボール、Bリーグはバスケットボール、ではMリーグは?

答えは“麻雀”である。麻雀のプロリーグがMリーグだ。

本書はMリーグの魅力にすっかりハマってしまった著者が、週刊マンガ「近代麻雀」のWebサイト「キンマWeb」に連載する4コマ漫画をまとめたものである。

まず最初にMリーグについて説明しておきたい。2018年に発足したMリーグは、先述のとおり麻雀のプロリーグであり、2021-22シーズン時点では8チームで構成されている。(並びは2021-22シーズンの順位。カッコ内はチームオーナー企業名)

KADOKAWAサクラナイツ(KADOKAWA
セガサミーフェニックス(セガサミー
渋谷ABEMAS(サイバーエージェント
KONAMI麻雀格闘倶楽部KONAMI) ※格闘倶楽部=ファイトクラブ
U-NEXTパイレーツ(U-NEXT)
EX風林火山テレビ朝日
赤坂ドリブンズ(博報堂
TEAM雷電電通

各チームには4人の選手(規定により1名以上の女性選手が所属していなければいけない)で構成されていて、試合の着順と点数で決まるポイントの合計により順位を争う。10月からレギュラーシーズンが始まり各チーム90試合(麻雀用語でいうと90半荘)を戦って順位を決める。上位6チームがセミファイナルシリーズに進み各チーム16試合を行う。そこでポイントの上位4チームがファイナルシリーズ進出となり、12試合を戦って優勝チームを決定する。優勝チームには5000万円、2位には2000万円、3位には1000万円の賞金がでる。ちなみに2021-22シーズンの優勝は『KADOKAWAサクラナイツ』だった。

細かいルールを説明してもあまり意味がないので興味のある方はMリーグ公式ページでルールを確認してほしい。このレビューでは、私もハマっているMリーグの魅力と本書の面白さを語っていきたい。

まずMリーグの魅力について。一番の魅力は、麻雀というゲームの面白さとチーム戦の面白さを融合させたところだと思う。基本、麻雀は個人戦で争うゲームだ。4人のプレイヤーが卓を囲み、相手の捨て牌からどのような手牌で役を作っているのかを推理し、自分の手牌を大きく育てて高い役を狙う。1回のゲームだけで考えれば、とにかく点数の高い役をたくさんあがって、他の3人よりも多くの点数を稼げば勝ちだ。Mリーグでは、これまで個人戦の要素が強かった麻雀にチーム戦の要素を加えた。ひとつひとつの対戦は個人戦だが、その対戦で得たポイントはチームのポイントとしても加算される。1ゲーム内の着順によってはポイントがマイナスになることもあり、1着と4着では100ポイント以上の点差がつく場合もあって、ゲームごとにチームの順位が上下することもある。レギュラーシーズン終盤のセミファイナル進出ボーダーラインを巡る争いやファイナル進出時の争いなど、ここぞというときにはただ勝つだけではなくポイント差も加味した打ち回しが必要になったりするなど、実に知的なゲームメイキングが必要なのだ。

各チームに所属する選手たちも魅力である。現在8チームに4人ずつの選手が所属しているが、麻雀界最高峰のMリーグチームに所属しているだけあって、その実力は折り紙付き。それだけでなく、ビジュアル面も個性的で美男美女が揃っている。俳優としても活躍している萩原聖人やモデルとしても活躍している岡田紗佳、声優でもある伊達朱里紗といった別の顔でも大活躍している選手もいる。そういったプロの雀士たちが真剣に麻雀に向かう姿はとても美しい。

こうした魅力をさらに掻き立てるのが実況と解説。まるでプロレス実況のような、視聴者をときにあおり、緊張感を増大させるような迫力と、選手の思考や打ち方について巧みに説明してくれる解説は、麻雀を知らない視聴者にも面白さを伝える役割を果たしている。

このようなMリーグの魅力、選手の魅力、実況や解説の魅力にハマったひとりが著者であり、その面白さをもっとたくさんの人に見てほしいという気持ちから生まれたのが本書のもととなったWeb連載なのである。もともとは著者が自身のTwitterに流していたものを、竹書房のWebサイト「キンマWeb」が目をつけてサイトでの連載となった。

本書は、Web連載されたなかの2018年シーズンと2019年シーズンを描いたマンガが掲載されている。Mリーグの試合は、月曜、火曜、木曜、金曜に1日2試合ずつ行われるが、マンガは試合を受けて翌日のお昼くらいにWebサイトにアップされる。その日のゲームで印象的な場面とか目立っていた選手などを題材にして、実質半日ほどで4コママンガを仕上げるのはかなり大変だろう。実際にゲームを見た上で4コマを読むと、「なるほどこの場面をネタにしたか」と納得したり、「ここに目をつけたのか」と驚いたりで実に楽しい。4コママンガを読むと、選手ひとりひとりの個性も伝わってくるので、より選手を身近に感じられるのもよい。Web連載されている4コマや本書からMリーグに興味を持ち、さらに麻雀というゲームの面白さにも気づいてくれる読者が増えるのではないだろうか。

麻雀というとどうしてもギャンブルのイメージが強くて、怖い世界のゲームのように思っている人も多いだろう。実際、芸能人が賭け麻雀で捕まったりしたこともあるし、中には身近な人がギャンブルで身を持ち崩した経験を持っている人もいるだろう。小説やマンガ、映画やドラマの世界でも麻雀は裏社会を描く小道具のように扱われているイメージがある。街の雀荘に入ったら強面のイカサマ師に身ぐるみ剥がされて半殺しにされるイメージすらある(それはおおげさ)。

だが、実際には麻雀というゲームは健全な娯楽であり、コミュニケーションの形成に役立ったり、脳を活発に利用することから健康麻雀として老化防止効果も認められている。そうした健全なイメージを、MリーグやMリーグを題材とした本書がさらに助長してくれるのではないかと思う。麻雀に興味がない人こそ、まずは本書をマンガとして面白く読んで、それで少しでも興味が出てきたらMリーグをみてみるといい。きっと最後は麻雀の魅力にハマるに違いない。