タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ピノッキオの冒険」カルロ・コッローディ/大岡玲訳/光文社古典新訳文庫-子どものときに読んだ絵本やディズニーアニメでみた“ピノキオ”とは違う“ピノッキオ”を堪能する

 

 

ピノキオ”といえば、絵本であったりディズニーのアニメ映画だったりでおなじみのキャラクターだ。ゼペットじいさんがつくったあやつり人形のピノキオが命を与えられ、コオロギのジミニー・クリケットピノキオの良心として彼を見守り、ピノキオは「勇気を持ち、正直で優しい子ども」になって本当の人間になろうとする。嘘をつくと鼻がニョキニョキと伸びたり、大きなクジラに飲み込まれたゼペットじいさんを救い出したりと、さまざまなことに巻き込まれたり、活躍したりする物語だ。

絵本やディズニー・アニメでしか「ピノキオ」を知らない私が、この物語にイタリア人作家カルロ・コッローディの小説が原作として存在することを知ったのはいつだったろうか。ちょっと時期は忘れてしまったが、原作の存在を意識するようになったきっかけは、NHK Eテレで放送されている「100分de名著」で「ピノッキオの冒険」が取り上げられたからだった。

カルロ・コッローディ「ピノッキオの冒険」は、1881年から1882年に週刊誌で連載され、1883年に刊行された児童文学小説である。物語は、大工のアントーニオ(みんなからは“サクランボ親方”と呼ばれている)1本の棒っきれをみつけるところから始まる。テーブルの脚をこさえるつもりのサクランボ親方だが、その棒っきれが喋りだしたからびっくり仰天。結局その棒っきれを友人のジェッペットに渡し、ジェッペットはそいつであやつり人形を作る。ピノッキオの誕生である。

絵本やアニメでも“ピノキオ”は、ある意味では少年らしい、やんちゃな子どもとして描かれているが、コッローディの“ピノッキオ”は、もっともっとやんちゃな悪ガキである。ジェッペットによって生み出されたとたんに、ジェッペットのかつらをむしりとったり、鼻面を蹴り飛ばしたり、逃げ出したりする。優しく物事の大切な道理を教えてくれようとしたコオロギには木槌を投げつけて殺してしまう。やんちゃというよりは凶暴といったほうが近いくらいのいたずら小僧なのである。

とんでもない悪ガキのピノッキオだが、お人好しで騙されやすい少年でもある。とても純粋で無垢な子どもなのだ。ピノッキオを学校に通わせるために、ジェッペットは自分の上着を売ってアルファベット練習帳を買ってやる。ピノッキオはそのアルファベット練習帳を売ってしまう。なぜって、人形芝居がみたかったからだ。他にも、キツネとネコにうまいこと騙されてなけなしのお金を盗まれたり、木の枝に首吊りにされたりする。

とにかくもう、行く先々でピノッキオはトラブルを起こす。自らの自業自得で巻き込まれるトラブルもあれば、自ら進んで火の中に足を突っ込むようなトラブルも巻き起こす。もしピノッキオのような少年がリアルに自分の息子だったら、年がら年中頭を抱え肝を冷やしながら、迷惑をかけた相手に親として親まり倒していることだろう。

だが一方で、子どもというのはそういうものだとも思う。物語の中でピノッキオを優しく見守り、教え諭し、厳しく叱る存在である仙女がピノッキオにこう言い聞かせる場面がある。

「よくお聞きなさい、ピノッキオ! 子供はたいがい簡単に約束するものだけど、守る子はなかなかいないのよ」

思わず頷いてしまうお父さんお母さんがいるのではないだろうか。「後で片付けるよ」とか「僕がちゃんと面倒みるよ」とか、子どもは約束するけれど、気づいてみればその約束はいつの間にか雲散霧消している。この場面、案の定ピノッキオは仙女との約束を破り、友だちの甘い誘惑に誘われて遠くまででかけてしまい、そこでとんでもないトラブルに巻き込まれる。

でも、こうやって子どもはいろいろな経験を積み重ねていき、物事の分別を覚え、いろいろな仕組みやルールを理解して成長していく。その過程では、大きな事故に巻き込まれることもあるかもしれないし、病気や怪我をすることもある。大きな回り道をしたことに、大人になってから気づくこともあるだろう。そうした経験、そうした回り道が子どもがひとりの人として成長するために必要なルートなのだと思う。事実、いい大人になった自分が過去を振り返ってそう感じている。

ラストでピノッキオは人間になる。それはつまり、子どものレベルから大人のレベルに足を踏み入れたということだ。もしかするとそれは、無垢で純粋だった子どもの心を少しずつ失い、分別のあるつまらない大人になっていく一歩になるのかもしれない。でもそれが、すべてのかつて子どもだった大人たちが通ってきた道なのだ。大人になってから読む「ピノッキオの冒険」は、自分が歩いてきた道のりを振り返るために必要な物語なのかもしれない。

 

 

 

 

「ミス・マープルの名推理 予告殺人」アガサ・クリスティー/羽田詩津子訳/早川書房(ハヤカワ・ジュニア・ミステリ)-“殺人をお知らせします” 地元紙の広告欄に掲載された殺人予告。そして事件は起きる。

 

 

昨年(2020年)は、アガサ・クリスティーの作家デビュー100周年&生誕130周年記念イヤーとして、早川書房が一大キャンペーンを展開した。過去に『クリスティー文庫』として刊行されていた数ある作品の中から、6作品が新訳刊行された。
参考:2020年はアガサ・クリスティー・イヤー! デビュー100周年&生誕130周年記念の新訳版ラインナップ発表

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本書「ミス・マープルの名推理 予告殺人」は、早川書房が新しく立ち上げた叢書シリーズ『ハヤカワ・ジュニア・ミステリ』のラインナップとして刊行された作品で、翻訳はクリスティー文庫の「予告殺人〔新訳版〕」と同じものになっているようだ。(読み比べていないので推測です)

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舞台はチッピング・クレグホーンという村。毎週金曜日に配達される地元紙《ノース・ベナム・ニューズ・アンド・チッピング・クレグホーン・ガゼット》にその奇妙な広告が掲載されたのは、10月29日のことだった。

殺人をお知らせします。十月二十九日金曜日、午後六時半にリトル・パドックスにて。お知り合いの方々にご出席いただきたく、右ご通知まで。

そして、好奇心にかられてリトル・パドックスに集まった人々の前で事件は起こる。突然、部屋の電気が消え、「手をあげろ!」という男の怒鳴り声、それに続き二発の銃声が鳴り響く。さらに三発目の銃声。直後、耳から血を流して佇むリトル・パドックスの主人レティシアブラックロックの姿と床に倒れて息絶えた男の姿があった。

いったい誰がこの殺人を計画し実行したのか。死んだ男が犯人で、自殺または事故なのか。それとも、この日リトル・パドックスに集まった人たちの中に真犯人がいるのか。寂れて閉鎖的な小さな村で起きた事件の真相解明に、警察は手を焼くことになる。

ここに登場するのが、アガサ・クリスティー作品ではおなじみの素人探偵ミス・マープルだ。クリスティー作品における名探偵として有名なのはエルキュール・ポアロだが、ミス・マープルポアロに匹敵する名探偵である。編み物や刺繍を趣味とする老婦人だが、その推理力は卓越している。

村にあるホテルに滞在していたミス・マープルは、この事件に興味を持ち、謎の解明に乗り出す。彼女は、警察関係者や事件に関わった人たちの話を聞き、それを糸口にして事件の本質を見抜いていく。

これまで、アガサ・クリスティー作品の有名どころは何冊か読んできたが、いずれもエルキュール・ポアロのシリーズで、ミス・マープルのシリーズ作品を読むのは本書が初めてだった。ミステリーのパターンとしては、ポアロシリーズや他の作品と近いものだろうと思う。ただ、優しそうな老婦人が鋭い洞察力と推理力で警察も気づかないような事実を見抜き、事件の謎を解き明かしていくストーリーは、やはり面白いと感じた。ストーリー構成の見事さや事件に関わる動機やトリックの巧みなところも、作品を面白くする要素になっていて、ミステリーの女王と呼ばれる所以を再認識した気がする。

本書は、『はじめての海外文学vol.6』で訳者の羽田詩津子さんが、子ども向け部門として推薦している作品になっている。本書がラインナップに入っている『ハヤカワ・ジュニア・ミステリ』叢書シリーズは、ターゲット読者が小学校高学年・中学生からとなっているので、春休みの読書にオススメしたい。王道の翻訳ミステリーを足がかりに若い読者が海外文学をもっと読んでほしいなと思います。

 

 

「ジョージと秘密のメリッサ」アレックス・ジーノ/島村浩子訳/偕成社-ジョージは10歳の男の子、だけど心は女の子。シャーロットが与えてくれた勇気と希望

 

 

身体の性と心の性が一致しない性的マイノリティーを“トランスジェンダー”といいます。

アレックス・ジーノ「ジョージと秘密のメリッサ」の主人公ジョージは男の子です。女の子が読む雑誌をこっそりと隠れて読んだりしています。雑誌の中でキラキラと輝く水着姿のモデルの女の子たちをみて、自分も同じようにカワイイ水着を着て彼女たちの中に溶け込みたいとうっとり考えています。そのときは「自分はメリッサと名乗ろう」と考えています。

ジョージは、身体は男の子ですが、本当は自分は女の子なんだと思っているトランスジェンダーです。でも、そのことはジョージだけの秘密です。心が女の子だということも、女の子としての自分がメリッサだということも、ママに兄のスコットにも話せません。

ジョージのような性的マイノリティーは、少なからずジョージのように自分の性自認について悩みを抱えています。ほんの少し前まで、性的マイノリティーたちは偏見の目で見られていました。LGBTQといわれる人たちが社会的に認められるなったのは、まだまだ最近のことですし、日本ではまだまだLGBTQの人たちを「生産性がない」などと蔑むような人がいて、世界の中でも性的マイノリティー差別、女性差別については圧倒的に後進国です。

ジョージが通う学校では、毎年春になると一年生から四年生までの全員が「シャーロットのおくりもの」を読むことが伝統になっています。ジョージたちは、四年生として、この本を劇として演じることになります。ジョージは、シャーロットの役をやりたいと思いました。でも、シャーロットは女の子の役柄です。ジョージは、シャーロット役がやりたいことを、たったひとり親友のケリーだけにそっと打ち明けます。するとケリーは、まるで当たり前のように「シャーロット役でオーディションを受ければいい」と言ってくれたのです。

前に書いたように、ジョージのような性的マイノリティーの人たちがカミングアウトできないのは、そのことを周囲の人たちが理解してくれないと思っているからです。でも、ケリーのように自然に受け入れてくれる理解者もけっして少なくはありません。「ジョージと秘密のメリッサ」でも、他のクラスメイトや先生は、ジョージのことを女々しいとバカにしたり、女の子の役柄であるシャーロットを男の子のジョージが演じたいと希望していることを批判したりします。ですが、ケリーや一部の人たちは彼のことをトランスジェンダーとして受け入れ、向き合ってくれます。現実の世界でも、私たちはケリーのように理解し受け入れることが大切だと思います。

残念ながらシャーロット役にはなれなかったジョージですが、ケリーとある企みを講じて劇の本番ではシャーロットを演じることになります。そして、そのことで自分がトランスジェンダーであることに向き合い、ママやスコットにもカミングアウトするのです。

10歳の子が、自分の身体と心の性的な不一致と向き合い、それを周囲の人たちにキチンと伝えて理解してもらうことは、とても勇気のいることです。ジョージもとても悩みます。繰り返しになりますが、ジョージのような人たちを生き辛くしているのは、私たちの無知と誤った認識からくる偏見です。誰もが普通に暮らしやすい社会を作るためにも、この本のような作品を通じて、理解や認識を深めていければと思いました。

「同伴避難 家族だから、ずっと一緒に・・・」児玉小枝/日本出版社-大きな災害にとき、あなたの地域では、大切な家族(ペット)と一緒に避難できますか?

 

 

2021年1月31日(日)から2月14日(日)まで、私が『タカラ~ムの本棚』として棚を借りている千葉県松戸市八柱の『せんぱくBookbase』にある和室スペースをお借りして、「『老犬たちの涙』写真展」を開催している。このレビューをアップした2月7日(日)は、ちょうど中日にあたる。

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「老犬たちの涙」は、年老いて認知症になったり病気になって弱ってしまった老犬たちが、飼い主のさまざまな事情(同情できる事情も一部あるが、ほとんどは身勝手な事情だ)で保護施設に預けられ、殺処分を待つだけになった悲しく切ない様子を写した写真集だ。私は、一昨年当時の愛犬ラムが最期の時を迎えようとしている頃に「老犬たちの涙」と出会い、彼女を看取った後に本を読んでレビューを書いた。

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今回の写真展は、そのレビューをきっかけに著者の児玉小枝さんとネット上でつながり、そのご縁から開催することになったものだ。

前置きが長くなったが、今回レビューする「同伴避難」は、東日本大震災のときにペットと同伴での避難を受け入れた新潟県の避難所を取材した写真集である。この本を読んだのは2011年の年末で、今回写真展の開催を踏まえて昔のレビューを掘り起こし、現在の視点で少し内容を書き替えた。

私の母方の実家は、福島県双葉郡に暮らしていて、東日本大震災で起きた福島原発事故の避難区域にあたっていたため、震災直後は私の家に親戚一同(3家族で10人くらい)が避難していた。当時、すでに我が家にはラムがいたが、福島の親戚も犬を飼っていて(いま思い返すとだいぶ老犬だった)避難生活中は当然その犬も一緒に暮らしていた。

私の親戚のように、大きな災害に直面して避難生活をおくらなければならなくなったときに、ペットも一緒に避難する『同伴避難』ができる人は限られている。当時、福島原発事故避難区域では、ペットや家畜を置き去りにして避難しなければならない状況が数え切れないほど発生し、残されたペットや家畜の野生化が社会問題となった。

本書の中で飼い主たちも証言しているし、後書きで著者の児玉小枝さんも書いているが、飼い主のほとんどは、ペットを連れて避難することを考えていた。それを拒んだのは国や自治体による指示と正確な情報が伝えられなかったことによる誤解だ。避難所へ向かうバスにはペットを乗せることが許されず、ペット運搬用の車を別に用意するような温情は、国も自治体も持ち合わせなかった。人間しか乗れないバスに乗る以外に移動手段を持たない飼い主には、ペットを置き去りにする以外の選択肢がなかった。

自分の車で避難が可能な飼い主は、ペットを車に乗せて避難所に移動できた。しかし、避難所ではペットを連れての滞在を拒否される。なぜなら、避難所は人間が生活することしか想定されていないからだ。

ほとんどの避難所がペット同伴の避難を拒否する中、新潟県の避難所ではペットの同伴避難が認められた。それは、新潟県が過去の地震災害での経験からペットを連れての避難受入体制を構築していたからである。東日本大震災のときも、発生から数日以内に新潟県内の各自治体に対してペットを含めた避難者の受け入れを指示し、各避難所では、動物愛護団体などの協力も受けながら受入体制を整えた。ペット専用の避難スペースの確保、獣医による定期的な巡回、動物愛護団体のボランティアによる支援活動などが当然のように行われ、人間だけでなく、動物たちも安心して避難生活が送れる環境が作られた。

私は、本書を読むまで新潟県がそのような取組みをしていたことを知らなかった。置き去りにされた動物たちの悲惨な状況ばかりに目を奪われ、動物の命に対して無策な行政にただ憤っていた。

本書を読んで、新潟県のようにペットを同伴した避難を想定して環境を整えている自治体があることを知った。これは、ペットと暮らしている我が家にとっても大事な情報だと思った。

幸いなことに、東日本大震災以降、我が家では避難を必要する大規模な災害を経験することなく、今まで暮らしてきている。2019年に起きた台風災害のときも、私の住む地域では被害は少なく、避難勧告や指示が出ることもなかった。しかし、首都直下型地震東南海地震など、かつての東日本大震災のような大規模災害がいつ起きてもおかしくないのが現状だ。もし、大規模な災害が起きたとき、ペットを連れて避難することが可能なのか、自治体の災害対応状況はしっかりと把握しておく必要がある。

「老犬たちの涙」写真展開催中!
期間 2021年1月31日(日)~2月14日(日) ※水曜休み
会場 せんぱくBookbase
営業時間 11時~15時30分 ※緊急事態宣言中のため短縮営業

 

「あのころはフリードリヒがいた」ハンス・ペーター・リヒター/上田真而子訳/岩波少年文庫-同じ年同じアパートで生まれた“ぼく”とフリードリヒ。でも、フリードリヒはユダヤ人だった。

 

 

ナチスドイツによるユダヤ人迫害を描いた作品には、アンネ・フランクアンネの日記」、ピーター・フランクル「夜と霧」など、フィクションからノンフィクションまで数え切れないほどに出版されている。

本書「あのころはフリードリヒがいた」も、ナチスドイツによるユダヤ人迫害を背景として描かれる物語だ。

1925年、同じアパートに暮らすふたつの家族にそれぞれ男の子が生まれた。ひとりは物語の語り手であるぼく、もうひとりはフリードリヒ。ふたりは友だちになった。

しかし、現実は厳しい。なぜなら、フリードリヒはユダヤ人だからだ。まだ幼いころのぼくやフリードリヒには、そのことの意味がわかっていなかった。ふたりは、互いの家を行き来し、同じ学校に通い、一緒に遊んでいた。だけど、彼らの周囲は確実に変わっていた。フリードリヒが通う病院の表札には、赤い文字で大きく『ユダヤ人』と落書きされていたし、ふたりが買いものをする『アブラハム・ローゼンタール文房具店』の前では、鉤十字の腕章をつけた男が「ユダヤ人の店で買わないように!」と記したプラカードを掲げて、商売の邪魔をしていた。

本書を読んでいて何よりつらかったのは、時代が経過し、ふたりが成長していくほどに、ユダヤ人迫害のムードが増していき、ぼくもフリードリヒも、そしてその家族も時代の波に抗いきれないことだった。

フリードリヒとその家族は、ユダヤ人だというだけで、職を失い、学校をおわれ、泥棒の罪をなすりつけられ、当局の監視の目から逃れるようにひっそりと暮らさなくていけない。ぼくやその家族は、こっそりとフリードリヒたちに救いの手を差し伸べるが、それも命がけのことだ。ユダヤ人を匿ったり、助けたりしていることがバレれば、自分たちも何をされるかわからない。周囲の目を常に警戒して暮らさなければいけない。

想像できるだろうか。自分がユダヤ人であるということだけで、周囲の人々から蔑まれ、迫害をうけ、強制的に収容所送りにされてしまうという現実を。何も罪を犯していない、ただユダヤ人として、その時代に生まれ生きていたというだけなのだ。

著者のハンス・ペーター・リヒターは、ぼくやフリードリヒと同じ1925年に生まれた。著者自身、熱心なヒトラー・ユーゲントであり、従軍兵士として志願し左腕を失っている。本書には、著者自身が経験したナチスドイツ時代のことが強く投影されているのだろう。そして、かつて自分たちがユダヤ人を差別的に扱い、ホロコストを引き起こしたことに対する贖罪も込められているのではないかと感じる。

日に日にフリードリヒたちユダヤ人への迫害は厳しさを増し、彼らを敵視する人々も増えていく。昨日まで親切だった人が明日には迫害者となってユダヤ人を罵倒する。ユダヤ人と話をするな、ユダヤ人を雇うな、ユダヤ人の店で買いものをするな、あの家はユダヤ人を匿っているぞ、あいつはユダヤ人に味方している。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人以外の人たちも互いを監視しあい、密告をすることでナチスへの忠誠心を示そうとする。

この物語では、フリードリヒは非業な最期を迎える。そのラストには、寂しさや悲しさが描かれているが、描写としては無機質である。その無機質さにこそ、著者の想いが込められているように思える。感情を目一杯込めて物語の最後を描くこともできたはずだ。しかし、著者はそうしなかった。それは、フリードリヒの最期を無機質に淡々と描くことが、その時代の闇や人間の弱さをより強く印象づけるからではないか。感情を抑えた描写にすることで、読者が不安や怒りの感情を抱くように考えていたのではないか。もちろん、それはすべて私の想像でしかないが、私自身は「あのころはフリードリヒがいた」を読んで、不安と怒りの感情を胸の内に抱いた。

「ブロード街の12日間」デボラ・ホプキンソン/千葉茂樹訳/あすなろ書房-1854年にイギリスのブロード街で起きた実話を元にした作品。『青い恐怖』に襲われたブロード街を救うためイール少年は奔走する。

 

 

巻末の「著者の覚え書き」の冒頭「執筆のきっかけ」にこう記されている。

数年前、わたしはスティーブン・ジョンソン著の『The Ghost Map』と出会いました。スノウ博士と1854年(注:書籍記載は漢数字)に起こったブロード街でのコレラ大発生のことを語ったノンフィクションです。本作はこの本から受けたインスピレーションを元に書き上げたものです。

デボラ・ホプキンソン「ブロード街の12日間」は、ブロード街を中心に起きた謎の『青い恐怖』(=コレラ)から街の人々を救おうとスノウ博士の調査活動を懸命にサポートする少年イールの視点で描かれる12日間の物語だ。

主人公の少年イールは両親を亡くしていて、弟のヘンリーのために泥さらいやライオンビール醸造所、仕立て屋のグリッグスさん、スノウ博士の手伝いをしてお金を稼いでいる。フィッシュアイという男から身を隠すように暮らしていて、自分はもう死んだと思わせるようにしていたが、どうやら感づかれてしまったらしい。

物語はイールの語り(ぼく)で進んでいく。始まりは1854年8月28日月曜日。その日イールは、泥さらい仲間の親指ジェイクからフィッシュアイが自分をさがしていることを聞く。悪いことは重なり、ライオン醸造所では一緒に働いているオーナーの甥っ子ハグジーの策略で盗みの疑いをかけられてしまう。イールが持っていたお金は、仕立て屋のグリッグスさんの手伝いやスノウ博士の実験動物の世話をしてもらった報酬だ。自分の無実を証明してもらうため、イールはブリッグスさんの店へ向かうのだが……

ぼくは目の前の光景に息もできず、なにも考えられず、なにが起こっているのか理解もできないまま、すごく長く感じる一分ほどを、凍りついたように突っ立っていた。

イールが見たもの、それはもがき苦しむグリッグスさんの姿だった。恐ろしいほどの勢いで体を何度も「く」の字に折って苦しみ、吐瀉物にまみれるグリッグスさん。彼の症状はまさに『青い恐怖』すなわちコレラによるものだった。

ブロード街でのコレラ感染はまたたく間に広がっていく。イールは、スノウ博士ならブロード街の人たちを救えると信じて彼の家を訪ねる。スノウ博士は彼の話を聞き、ブロード街で大発生しているコレラの原因を突き止めるための調査を開始する。それは、イールが期待していたものではなかったが。スノウ博士の調査がブロード街でこれ以上の犠牲者を出さないために必要と信じ、博士の助手として奔走する。

現在、コレラコレラ菌に汚染された食べ物や飲み物を口にすることで感染する感染症であることが知られている。だが、1854年にブロード街でコレラが大発生した当時、人々はこの病気が悪い空気『瘴気』によるものだと信じていた。スノウ博士は、コレラが細菌によって汚染された井戸水を飲んだためということを、はじめて疫学調査によって証明した人物とされている。「ブロード街の12日間」は、現実に起きた大規模なコレラの集団感染と、その調査にあたったスノウ博士の実話に、イールやフィッシュアイ、親指ジェイクといった架空の人物をキャスティングして描き出した小説なのだ。

2020年は、新型コロナウィルスのパンデミックにより世界中がパニックとなった。それは、2021年になったいまも続いている。新型コロナの影響は文学の世界にも影響を与えた。ジョゼ・サラマーゴ「白い闇」、カレル・チャペック「白い病」といった未知の感染症パンデミックの恐怖、その中で露呈していく人々の心の闇を描いた小説が刊行され、カミュ「ペスト」、ボッカチオ「デカメロン」が読まれた。

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「ブロード街の12日間」も、感染症の恐怖を描く点では、それらの作品と通じている。ただ、「白の闇」や「白い病」と比べると、まだ希望や救いの要素が強く、危険を顧みずにブロード街の人々のために奔走するイールの姿からは、思わず応援したくなるような懸命さが伝わってくる。スノウ博士が仮定したブロード街の井戸水からの感染を証明する決定的な証言を得るために、イールはひとりハムステッドへ向かう。この証言があれば、ブロード街のみんなを救えるのだ。だが、イールはそこでフィッシュアイに捕まり、絶体絶命のピンチに陥ってしまう。イールは、フィッシュアイから逃れ、スノウ博士のもとへ重要な証言を届けられるのか。そして、ブロード街の人たちを救えるのか。さらにイール自身の生い立ちについても、ラストには驚くような事実が明かされる。

『はじめての海外文学vol.6』で翻訳家の向井和美さんが推薦している作品。新型コロナのパンデミックの中、感染症の恐怖を描いた作品に興味はあるが、つらい気持ちになりそうで読めないという方には、この本をオススメしたい。

「キャラメル色のわたし」シャロン・M・ドレイパー/横山和江訳/鈴木出版-繰り返し読むことでいろいろなことを気づかせてくれる作品

 

 

2020年が“激動の年”であったと、後年に歴史的に語られるとすれば、その激動のひとつは“Black Lives Matter”(BLM)となるだろう。これまでも、黒人差別に対する抗議活動は活発に行われてきたが、2020年は、5月に起きた『ジョージ・フロイド事件』をきっかけに大きなうねりとなった。

「キャラメル色のわたし」は、一見BLMとは関わりがないようにも思える。しかし、帯にも引用されている訳者あとがきにあるように、本書の根底には黒人差別の問題が紛れもなく存在している。

本書の主人公はイザベラという少女。物語は彼女が語り手(わたし)となる。イザベラは、ピアノを弾くことが大好きな女の子だ。黒人のパパと白人のママの間に生まれた。だから『キャラメル色のわたし』なのだ。

イザベラの境遇を複雑にしているのは、彼女の肌の色ばかりではない。彼女の両親が離婚して、彼女に対する共同親権を有していることが、彼女の生活環境をより複雑でつらいものにしている。

イザベラは、離婚した両親の間で、一週間ごとに双方の家庭で過ごすことになっている。パパの家で一週間暮らしたら、次の週はママの家で一週間を過ごす。その繰り返し。だから、イザベラは日曜日がきらいだ。なぜなら、日曜日はモールを待ち合わせ場所として、パパからママ、ママからパパにイザベラが引き渡される日だから。

この共同親権で週ごとに子どもが離婚した両親の家を行ったり来たりして生活するという制度は、日本には存在しない制度だと思う。もしかすると別れた両親の間での個人的な取り決めとして、そういう生活スタイルをとっているケースもあるかもしれないが、別れたふたりの間で振り回される子どもの負担を考えれば、安易に選べるスタイルではないだろう。なぜなら、この生活環境では、大人の都合ばかりが優先されて、子どもにはなんの権利も与えられないから。パパもママも大好きで、家族で仲良くしたいという気持ちを誰も考えてくれないから。

物語の大半は、イザベラが精神的負担を感じながらも、両親それぞれの家で明るく振る舞おうとする姿が描かれる。彼女の心の内にどのような苦悩や葛藤があるかは察するに余りあるが、ピアノを弾くことが彼女を気持ちを落ち着かせ、救ってくれている。

冒頭で、本書がBLMのうねりについて言及し、その一方で本書が一見するとBLMとは結びつかない印象を受けるかもしれないことに言及した。確かに、要所要所のエピソードでイザベラや家族、友だちが差別的な扱いを受ける場面はあるが、その部分がことさらに強調されているような印象を私は感じなかった。それは、イザベラが置かれた特殊な境遇であったり、その環境の中で明るく振る舞うイザベラの姿が自然に描かれているからだと思う。そもそも、私自身がそういう視点から本書を読んでいなかったということもあるかもしれない。

だが、イザベラがダレンの車で会場に向かう途中に起きる“ある事件”が、それまでほとんど感じさせなかった黒人差別の問題を一気に浮き彫りにする。それは、BLM運動のうねりを生み出すきっかけとなった5月の『ジョージ・フロイド事件』や過去に起きた同種の事件を私たちに思い起こさせ、アメリカに脈々と続いている黒人差別問題の根深さを印象づける。

読み終わってからしばらく(というかかなり)時間を経て、私はいまこのレビューを書いている。あらためて、読んでいたときに印をしておいた箇所を確認しながら全体を流して再読してみて、本書が複雑で深刻な問題を扱っていることに気づかされた。最初に読んだときにはそこまでとは感じられなかったことも、繰り返して読むことで少しずつわかってくることがある。「キャラメル色のわたし」は、繰り返して読むことで少しずついろいろなことを気づかせてくれる作品だと思う。