タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

ウジョとソナ 独立運動家夫婦の子育て日記(パク・ゴヌン著/ヤン・ウジョ、チェ・ソナ原案/神谷丹路訳)-祖国独立のため活動するウジョとソナ。彼らの子育て日記を通じて見えてくる戦争の過酷さと子どもたちの存在の大きさ

 

 

本書は、大韓民国臨時政府に関わった独立運動家であるヤン・ウジョとチェ・ソナの夫婦が記した日記を原案として描かれたグラフィックノベルである。原案となった日記は、ふたりの間に生まれた娘ジェシーの育児日記となっている。日記には、韓国が日本の植民地支配下にあり、多くの独立運動家が、植民地支配からの解放と祖国独立を目指して活動をしていた当時の時代背景が描かれており、中国国内を転々と移動しながら、日本軍の空襲攻撃の恐怖と闘い、十分とは言えない生活環境の中で懸命に子育てする姿がある。

ウジョとソナが参加した『大韓民国臨時政府』は、1919年の「三・一独立運動」後に上海に渡った独立運動家たちによって結成された組織である。日中戦争が勃発し、日本軍による中国への軍事行動が激化していく中で、大韓民国臨時政府は、上海、鎮江、長沙、広州、柳州、重慶と活動拠点を転々と移動する。ウジョとソナは、臨時政府のメンバーやその家族たちとともに行動しながら、ジェシーを生み育て、ふたりめの娘ジェニーも授かる。いつ日本軍の攻撃があるかわからない緊張と恐怖の日々の中、祖国の独立という大きな目標のために活動し、さらにふたりの娘の子育てにも奮闘する姿は心に迫る。

物語は、1990年代のソウルから始まる。孫娘が部屋に入っていくと、祖母のソナが床に新聞を広げ、テレビとラジオのニュースをチェックしている。それが、ソナおばあちゃんの日課なのだ。なかでも、天気予報のチェックは絶対に欠かさない習慣だった。なぜ、ソナおばあちゃんにとって『天気』が大事なのか。物語は、1938年のジェシー誕生、そしてウジョとソナと祖国独立に向けた活動と子育ての記録へと続いていく。

『天気』がとても重要なワードであることは、本書を読み進めていくとよくわかる。と同時に、戦時中にウジョとソナ、その娘たち、臨時政府の活動メンバーや家族たち、中国の人たちが、いかに緊張と恐怖の日々を過ごしていたかがわかる。その日の『天気』が、彼らにとっては、生きていくために極めて重要なことだったのだ。

私たちは、戦争末期のアメリカ軍による日本への空襲について、戦争体験者の話やさまざまな記録映像などを通して知ることができる。だが、戦争初期に日本軍が中国へ空襲攻撃を行っていたことは知られていない。本書を読んで、当然日本も攻撃する側として無辜な市民に緊張と恐怖の日々を与えていたのだということを考えさせられた。

熾烈を極める日本軍の攻撃の中で、ウジョとソナをはじめ臨時政府のメンバーたちに癒やしを与えていたのが、ジェシーやジェニーのような子どもたちの存在だった。本書には、戦争という非常事態の中でもジェシーが健やかに成長していく様子が描かれている。いつ実現するかもわからない祖国の独立という目標に向かって、先の見えない活動を続けているメンバーたちにとっては、子どもたちの存在が、未来への希望であり、活動のモチベーションとなっていたのだろう。

先日読み終わりレビューを公開した「草 日本軍「慰安婦」のリビングヒストリー」を読んだときにも思ったことだが、私たちはあの戦争のときに、日本が『加害者』として何をしたのかを知らなすぎると思う。日本が、大空襲をされたり原爆を投下されたりして大勢の市民が犠牲になったことは事実だし、南方の過酷な戦場で多くの兵士が犠牲になったことも事実だ。そのことと同じくらいに、日本がアジアの国々に対して行ってきたことも事実として知っておかなければいけない。「草」と「ウジョとソナ」は、私たちが知っておくべき事実を伝えてくれる作品だと思う。

もっと多くの人に読まれてほしい作品である。

s-taka130922.hatenablog.com

 

 

 

【新装版】ゴーストドラム(スーザン・プライス/金原瑞人訳/サウザンブックス)-【再読】ゴーストドラムのリズムに導かれ、魔法使いチンギスは囚われの皇子サファを救いに向かう。「ゴースト三部作」の幕開けとなる物語

 

 

ある冬至の夜、ひとりの奴隷女が赤ん坊を産んだ。女の子だった。だが、奴隷の娘は奴隷になるしかない。女はわが子の逃れられない運命を嘆く。そこへ、ひとりの老婆が訪ねてくる。老婆は魔女だ。魔女は女に言う。「お前が腕に抱いている赤ん坊が生まれてくるのを、あたしは百年も待っていたんだよ」と。

「ゴーストドラム」は、1987年にカーネギー賞を受賞したファンタジー小説であり、金原瑞人訳で日本版が福武書店(現在のベネッセ)から刊行されたのが1991年である。その後、福武書店版の「ゴーストドラム」は絶版となり、長らく入手困難となっていたが、2017年にサウザンブックスのクラウドファンディングによって改訳版が刊行された。そして今回、「ゴーストドラム」に続く「ゴーストソング」「ゴーストダンス」の「ゴーストシリーズ」全巻の翻訳出版プロジェクトのクラウドファンディングが成立してシリーズ全巻の翻訳が決定し、本書も新装版となった。(2017年版のレビューは以下をご参照ください)

s-taka130922.hatenablog.com

物語は、奴隷女が産んだ赤ん坊を魔女が貰い受ける場面から始まる。老魔女は、その娘チンギスを一人前の魔女にするために、あらゆることを教える。チンギスは大いに学び、魔法使いとして成長する。

魔法使いチンギスの成長と並行して描かれるのが、囚われの皇子サファの物語だ。サファは、残虐非道な皇帝である父ガイドンによって、生まれながらにして宮殿の中のいちばん高い塔のてっぺんにある小さな部屋に閉じ込められた。窓もない狭い部屋で、外の世界を知らぬままサファは成長する。ただ小さな部屋の丸天井をみつめ、心の中で叫びをあげることしかできない。

チンギスがサファの叫びを聞いたとき、物語は動き出す。チンギスは、魔法の力でサファを救い出し、やがて皇帝が病で亡くなると後継者を巡る争いが起こる。皇帝の妹にして兄に勝るとも劣らぬ非道なマーガレッタは、姿を消したサファの存在に怒り、そして恐れる。サファの行方を必死に追い、多くの血が流れた。そこに、チンギスの存在を妬む魔法使いクズマが現れる。そして、クズマとチンギスの闘いが始まる。

チンギスは優秀な魔法使いだ。そして、クズマもそれに負けない能力を有する魔法使いだ。互いに高い能力を持つ魔法使い同士の闘いは、どのような行方をたどるのか。サファの運命、チンギスの運命をめぐる物語はどのような展開で描かれていくのか。全15章で構成される物語は、テンポよく描かれていて、ついつい先が気になる展開で読ませる。終盤、第10章からの展開は驚きと興奮の連続で、一気読みは必至だと思う。

なお、トップに貼ったAmazon楽天、Yahooの各ショッピングサイトでは、軒並み「新刊の在庫なし(中古本あり)」だったりするので、新刊で購入する場合はサウザンブックスのオンラインショップで購入するのをオススメします。サウザンブックスのオンラインショップだと電子書籍版がなんと550円です!

shop.thousandsofbooks.jp

shop.thousandsofbooks.jp

shop.thousandsofbooks.jp

 

リッジウェイ家の女(リチャード・ニーリィ/仁賀克雄訳/扶桑社)-出てくる人物全員が怪しくみえてくる。どんでん返しの巨匠が描くミステリ小説。

 

 

帯の惹句よれば、著者のリチャード・ニーリィは『どんでん返しの巨匠』なのだという。本書「リッジウェイ家の女」は、そんな『どんでん返しの巨匠』が描くミステリー小説である。

画家のダイアン・リッジウェイは、アートギャラリーで自分の作品を購入した男性と知り合う。彼の名はクリストファー・ウォーレン。アメリカ空軍の元大佐であった。ふたりは恋に落ち、やがて結婚する。ダイアンには、若い頃に一度結婚をしていて、その夫フレッド・リッジウェイとの間にはジェニファーというひとり娘があった。だが、ダイアンとフレッドの結婚は幸福なものではなく、フレッドは猟奇的で抑圧的なDV男だった。ダイアンはフレッドとの異常な生活に耐えてきたが、ついに悲劇が訪れる。ダイアンは夫殺しの罪を負うこととなり、この出来事をきっかけに娘ジェニファーとの関係は疎遠になった。

母親と距離をおいたジェニファーは、家を出ると、モデルの仕事や麻薬患者の更生施設の手伝いなどをして生活し、ハワイでポール・スタフォードという元株式仲買人の男と知り合う。ふたりは恋に落ち、生活の基盤を求めてサンフランシスコで暮らし始める。やがて、新聞記事でダイアンが結婚したことを知り、ふたりは久しぶりの再会を果たす。

不幸せな結婚生活の果てに夫殺しの罪を背負い、ひとり娘とも疎遠になっていたダイアンにとって、クリスは、また恋をしようと思わせてくれる存在だ。クリスの存在によって、ダイアンとジェニファーは一緒に暮らすようになり、親子関係も少しずつ修復されていく。

だが、ダイアン、クリス、ジェニファー、ポールが一緒に暮らし始め、クリスの勧めでダイアンがフレッドから相続した財産の運用をポールに任せるようになってから、話の雲行きはだんだんと怪しくなっていく。

4人の主要な登場人物の誰もが、何かしら暗い過去を持っていて、それぞれが何かしらの確執を抱えている。夫殺しの罪という過去、最愛の父を失ったトラウマ、母親の支配欲に縛られ続けた記憶、といった彼女たちの抱える因縁や確執が、物語の中で登場人物のキャラクターイメージを作り上げている。そのイメージがあるから、読んでいて、登場人物の誰もが怪しい思惑を腹の中に抱いていて、何か事件を起こすのではないかと疑わしく思えてくる。

中盤から後半の展開は、『どんでん返しの巨匠』である著者の真骨頂だ。リッジウェイ家の過去と登場人物たちのつながりが少しずつ読者に示され、もっとも疑わしいと思われる人物に読者の注意をグッと惹きつける。そして、読者の期待したとおりに事件が起きる。だが、そこからの展開がどんでん返しの連続なのだ。ダイアンにせまる危険、ジェニファーにせまる危険、犯人の過去とその狙いが明らかとなり、意外な人物が共犯者であったことも判明する。すべてが解決したと思わせたあとには、最後の大どんでん返しが待ち受けている。

『はじめての海外文学vol.5』で駒月雅子さんが推薦している作品。海外ミステリーの翻訳を数多く手掛けている駒月さんの推薦作だけあって、読み応えのあるミステリー小説だった。

 

「カレンの台所」滝沢カレン/サンクチュアリ出版-「言葉」や「文章」を生業としている人たち全員が羨む才能の持ち主だと思います。

 

 

まず最初にお断りしておくと、この本は『料理レシピ本』です。ですが、書店の店頭に山と積まれた「誰でも簡単!お手軽激ウマレシピ!」とか「料理研究家○○の健康レシピ100選」みたいな普通の料理レシピ本とはまったく違う、滝沢カレンらしい独特なスタイルのレシピ本になっています。

ヘルシーに見えてそうじゃない。
高カロリーに見えてそうでもない。

どちらも決めるのは胃袋ですってことにします。

今回はただただ食べたい、知らない人を知らない唐揚げを久しぶりに作ってみました。

 

これは、最初に登場する料理『鶏の唐揚げ』レシピの書き出しのところの引用です。この書き出し、料理レシピというよりはエッセイのようです。

「カレンの台所」には、鶏の唐揚げをはじめ、ハンバーグ、エビチリ、ピーマンの肉詰め、豚の生姜焼きなど、ごく一般的な家庭料理のレシピが書かれていますが、そのすべてが引用したようなテイストの文章で書かれています。

さらに特徴的なところを紹介していきましょう。同じく『鶏の唐揚げ』レシピから引用していきます。

唐揚げには鶏のもも肉がおすすめですので、ご自分の食べたい分だけお買い上げください。それを子どもの頃に集めたガチャガチャサイズくらいの形に切ります。

普通のレシピ本であれば、鶏もも肉1枚(約300グラム)を一口大の大きさに切りそろえます」といった具合に書くところを、「自分の食べたい分だけ」とか「ガチャガチャサイズ」と表現するのが滝沢カレンテイストだな、と思うのです。で、この書き方で意外とサイズ感がわかりやすかったりするのが面白いところです。「一口大」と書かれるよりも「ガチャガチャサイズ」の方がなんだかイメージしやすい気がする、と考えている時点で私は滝沢カレンの言葉の魔力に取り憑かれているのだと思います。

味付けのところも引用してみます。

まずリーダーとして先に流れるのは、お醤油を全員に気づかれるくらいの量、お酒も同じく全員気づく量、乾燥しきった粒に見える鶏ガラスープの素を、こんな量で味するか? との程度にふります。

「全員に気づかれるくらい」「こんな量で味するか?」など、調味料の量が全然具体的に書かれていません。究極に目分量です。ですが、本当に不思議なことに、こんなアバウトなのに「なるほど、このくらいの感じなのか」と納得できてしまうところがすごいです。

滝沢カレンが料理を適当に作っているわけではありませんし、料理が苦手というわけでももちろんありません。むしろ、彼女は料理好きで料理上手なんだろうと思います。普段の料理も、「醬油は大さじで…」とか「お肉は強火で10分焼いて」とか意識しないで作っているんでしょうね。

料理上手なところはもちろんなのですが、この本の魅力はなんといっても滝沢カレンの言葉のセンス、文章のユニークさにあると思います。いろいろな料理レシピ本がありますが、読むのが楽しいレシピ本は珍しいのではないでしょうか。

鶏の唐揚げを揚げる場面を引用してみます。

170度にいきましたら、パサパサ鶏肉をおにぎりを一握りの気持ちで「いってこい」の後押しで油へ。
すぐさま何かしらの反応を見せたら、あ、楽しくやってるな、と見過ごしてあげてください。

何の反応もしてくれなかったら一旦取り出してください。油がまだ170度ではありませんそれは。

 

鶏肉を油に入れたときの反応を「あ、楽しくやってるな」と表現するところ、わかるようでわからない、でもなんかわかりやすい感じがしてしまうわけです。

テレビではじめて滝沢カレンをみたときは、その独特なワードセンスを笑いの対象としてみていました。ですが、その後朝日新聞の読書サイト「好書好日」での連載「滝沢カレンの物語の一歩先へ」や、彼女のインスタでの長いコメント文などを読むうちに、このセンスはなかなか真似できるものではないし、滝沢カレンのオリジナルな世界観があると思うようになってきました。

book.asahi.com

本書の帯でコピーライターの糸井重里氏が「あたらしい日本語をデザインしている」とコメントしています。言葉や文章を生業としているプロからみても、滝沢カレンのワードセンスは羨望の的なのかもしれないなと思います。

とにかく読んで楽しい本でした。あと、もちろんレシピ本としても間違いなく役に立つと思います。

 

「見えない凶器」ジョン・ロード/駒月雅子訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第7巻。密室で起きた殺人事件。凶器が見つからないまま迷宮入りするかと思われた事件をプリーストーリー博士が解き明かす

 

 

国書刊行会の『世界探偵小説全集』の第7巻。本作は、密室殺人のトリックに趣向を凝らした謎解きミステリーである。

アダミンスター警察署のクロード巡査部長は、シリル・ソーンバラ医師の自宅で殺人事件に遭遇する。ソーンバラ医師の妻ベティの伯父ロバート・フランシャム氏が頭部を殴られたような状態で殺されたのだ。現場となった洗面所は、内側からドアに鍵がかかっており、窓には鉄柵があって誰も入り込むことができない密室だった。しかも、フランシャム氏を殺害した凶器がどこからも見つからないのだ。いったい、氏はどのような方法で殺害されたのか。警察は、ソーンバラ医師を重要容疑者と考えるが、密室殺人の謎が解けなければ逮捕することができない。スコットランド・ヤードのジミー・ワグホーン警部は、見えない凶器を求めて捜査を続けるが、解決の糸口も見えず、事件は迷宮入りの様相を呈してくる。

ジョン・ロード「見えない凶器」は、殺人に使用された凶器は何か、どのような方法で犯行が行われたのかを解き明かす『ハウダニット』と、誰がフランシャム氏を殺した犯人なのかを解き明かす『フーダニット』の要素をあわせ持つミステリー小説である。探偵役となる元ロンドン大学数学教授のランスロット・プリーストーリー博士は、犯罪の解明を趣味としていて、秘書のハロルド・メリーフィールドやスコットランド・ヤードの警察官たちを使って事件を捜査し謎解きをする。

フランシャム氏殺しの謎の解明にプリーストーリー博士が乗り出す中、チェヴァリー街三番地でゴドフリー・ブランストック卿が、地下のワインセラーに死んでいるのが発見される。死因は窒息死で、隣接するチェヴァリー四番地の地下室から流れ込んだ二酸化炭素が充満したことがその原因と思われた。そして、そのチェヴァリー街四番地は、フランシャム氏が暮らしていた場所だった。

無関係と思われたふたつの死亡事件が、ある共通項によって一連の関連する事件と判明し、事件の全貌が明らかになっていく展開は、謎解きミステリー小説の王道といえる展開ではないだろうか。意外性のある凶器も、アリバイトリックも、物語の中に散りばめられた伏線を巧みに回収して結論を導き出していくプリーストーリー博士の推理は、元数学教授の研究者というキャラクター設定もあって、論理的である。また、いかにも理系学者らしい堅苦しさ気難しさもあって、そこも個性的だ。

フランシャム氏殺しに使われた凶器の真相に納得できるかどうかは、読者次第かもしれない。私自身は、物理的な凶器という意味では納得できるところはあったが、その凶器を使用した殺害方法(使用した道具)については、「そこまでうまくいくのかな?」という疑念を覚えた。また、意外性のある凶器以外の部分で犯人の詰めが若干甘いようにも思えた。

国書刊行会の『世界探偵小説全集』シリーズも、第一期10巻も第7巻まで読んできて、古典的な探偵小説にもだいぶ慣れてきた気がする。まだまだ先は長いのでゆっくり少しずつ読み進めていきたい。

 

「草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー」キム・ジェンドリ・グムスク/都築寿美枝、李昤京訳/ころから-現在にもつながる女性としての尊厳の問題としてみた「従軍慰安婦」の人生を描いて世界的に高い評価を得たグラフィックノベル

 

 

1996年、中国龍井(ロンジン)。ひとりの老婆が家族や村人に見送られて旅立つ場面から物語は始まる。彼女は、55年振りに祖国韓国に帰るのだ。彼女の名は李玉善(イ・オクソン)。彼女は、日本軍の『従軍慰安婦』だった。

キム・ジェンドリ・グムスク「草」は、「日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー」と題されているとおり、ひとりの日本軍従軍慰安婦の女性の生涯を描くグラフィックノベルだ。ニューヨークタイムズベストコミック2019、ガーディアンベスト・グラフィックノベル2019、ユマニテ2019マンガ大賞審査員特別賞など世界で絶賛された作品である。

従軍慰安婦』の問題は、すぐに政治的な話になり、補償問題や少女像に代表される韓国の反日問題として取り上げられることが多い。本書は、そうした政治的な部分ではなく、ひとりの女性、ひとりの人間として日本軍の『従軍慰安婦』として生きなければならなかったイ・オクソンの人生を描いている。

釜山の貧しい家庭で生まれたイ・オクソンは、学校にも通わせてもらえず(貧しいことも理由だが、同時に女だからという理由もあった)、弟妹の世話をしながら毎日を過ごしていた。その日の食事にも困るほどに貧しかったから、オクソンは養女に出されることになるが、養女とは名ばかりで、実際は下働きとして酷使された。学校にも行かせてもらえなかった。

ある日、オクソンは主人のお使いから帰る途中にふたりの男に捕まり、他の女の子たちとともに延吉東飛行場の慰安所に送られてしまう。1942年、14歳のときだった。『トミ子』という日本語名をつけられ、日本軍兵士の相手をさせられた。逃げることはできなかった。

慰安婦として過酷な時代を生きたイ・オクソンのような女性は、当時の朝鮮には数え切れないほどいた。本書は、『ナヌムの家』という慰安婦だった女性たちが暮らす施設で著者がイ・オクソンから聞き取った彼女の生い立ちや慰安婦にさせられた経緯、戦後どのようにして暮らしてきたかについて描いている。

貧しさから身売りされ、学校に通うこともできず子どものときから働かされ続けた少女が、ある日突然見知らぬ男たちに連れ去られ、同じような年ごろの少女たちと一緒に窓のない貨物列車で遠く中国まで送られてしまう。その道中の不安、恐怖はいかほどであったか。ようやくたどり着いた場所も慰安所という彼女たちにとっては地獄のようなところで、女性たちは慰安婦として日本兵の相手をしなければならない。休むこともできず、逃げ出すこともできない。毎日毎日彼女たちは文字通り身体を犠牲にして生きてきたのだ。

本書には、著者との会話の中でイ・オクソンが「日本が悪い」「安倍は謝罪しろ」と繰り返す場面がある。著者は、最初のうちは彼女の怒りに話を合わせているが、次第に困惑するようになっていく。だが、本書を読むとイ・オクソンの怒りは当然だと感じる。彼女が、強制的に日本軍の慰安婦として働かされたのは事実だし、そのことで長く苦しめられてきたことも事実だ。また、女性であるという理由で学校にも通わせてもらえず、学ぶ機会も奪われ、ただ家族(父や兄、弟、夫や息子)のために働くことだけを求められ続けたことも事実である。

従軍慰安婦として、本人の意に反して身体を犠牲にすることを強いられたこと。女性であることを理由に学ぶ機会を奪われたこと。それは、女性としての尊厳を踏みにじられたということだ。

今年(2020年)2月に、本書の日本語版刊行を記念して著者のキム・ジェンドリ・グムスクさんが来日した。来日講演で著者は、本書について「過去の話や民族の問題ではない。現代の性暴力につながる女性問題として描きました」とコメントしている。

■漫画「草」が語る従軍慰安婦  独自の作風で訴え「現代につながる性暴力問題」

news.yahoo.co.jp

従軍慰安婦』は、どうしても政治的な問題としてクローズアップされてしまうが、この記事にあるように、過去の歴史や当時の社会情勢を知る上で重要な問題として考えることも必要なことだ。そして、その問題が形を変えて今に至るまで続いていることも考えなくてはいけない。

この本を読んで、改めて『従軍慰安婦』について考える機会をもらったように思う。

 

「田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ」升本喜年/清流出版-俳優・田宮二郎の壮絶にして濃密な俳優人生を描く骨太なノンフィクション

 

 

田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ」は、映画、テレビのプロデューサーとして俳優・田宮二郎と仕事をしてきた著者が、その生い立ちから、俳優としてデビューして銀幕の大スターとなり、不遇の時代を経てテレビドラマの世界で成功を収めるも、その性格から次第に追い詰められ43歳で自ら命を絶つまでの足跡を骨太のドキュメンタリーとして描き出したノンフィクションである。

著者は、松竹映画のプロデューサーとして田宮二郎を見続けてきた人物だ。当時、田宮は大映映画の専属俳優として活躍していたが、出演映画の宣伝ポスターでの名前の順番をめぐるトラブルで契約を破棄されていて、かつ、『五社協定』(東映東宝、新東宝大映、松竹の各映画会社間で所属俳優の引き抜きを禁止する協定)によって他社映画に出演する道さえ閉ざされてしまっていた。

俳優として不遇の時を過ごす田宮二郎だが、彼のスター性は斜陽産業となっていた映画界では必要なものであり、著者も松竹のプロデューサーとして田宮二郎を起用した映画製作を画策していた。こうして、ふたりは出会い、映画、テレビドラマへと進出していくことになる。

映画やドラマの世界から干されていた時期はあるにせよ、田宮二郎の俳優としての人生は華やかなものであったと思いがちだ。映画やドラマで成功し、何もかも手に入れて順風満帆であったと考えるのが、私たちからみたスターである。だが、実態はかなり厳しいものであったことが、本書には書かれている。特に大映を解雇され、テレビドラマに活躍の場を移してからの田宮二郎は、視聴率という数字に翻弄され、事業に手を出して失敗するという悪循環の中で精神的に疲弊していく。

精神的な疲弊(躁鬱病であった)から、田宮二郎の言動に奇行ともいえるものが増えていく。打ち合わせの場でなごやかに話を進めている最中に突然激高して怒鳴り散らしたり、撮影現場で監督を差し置いて勝手に撮影を仕切ったり、撮影中に突然トンガへ行ってしまったりと、それまでの田宮からはまったく考えられないような行動をするようになる。

田宮二郎の生前最後の出演ドラマは、山崎豊子原作の「白い巨塔」である。映画版でも主役の財前五郎役を演じた田宮は、この作品のドラマ化に強い思い入れがあったが、その撮影中も奇行は繰り返された。それでも、すべての撮影は無事終了させた。そして、ドラマの放送が残り2回となった1978年12月28日に田宮二郎は猟銃で自らの胸を撃ち抜き自殺する。

まさに『壮絶!』 本書のタイトルに田宮二郎の人生のすべてが込められている。なんと濃い人生を歩んでいるのかと驚かされる。と同時に、表向きは順風満帆で華やかで恵まれた俳優人生を送っていると思われたスターも、ひとりの人間としては悩み苦しんで、もがき続けていたのだということに切なくなる。観客動員数や興行収入、視聴率といった明確な数字によって人気の有無を突きつけられる厳しさ。スターであるが故のプライドもあったのだろう、チヤホヤされて「助けてくれ」と乞われれば怪しげなビジネスにも多額の金を投資してしまう男気の良さも田宮二郎を追いつめた要因のひとつだ。

こうして人は壊れていくのだと、本書を読んで思った。そして、俳優として頂点にのぼりつめたからこそ、誰にも助けを求めることができず、俳優仲間やスタッフ、家族にも苦しい胸の内を明かすことのできない田宮二郎の孤独を感じた。

私は、俳優としての田宮二郎をリアルタイムでは知らない。田宮二郎が出演した映画はみたことがないし、テレビドラマも再放送ではみたかもしれないがリアルタイムではみていない。ほとんどみたことのなかった田宮二郎の出演作品をみてみようと思った。