ここに収めた12本の物語は、2020年4月5日から5月11日にかけて、都市封鎖状態の続くニューヨークのクイーンズから届いた。1本目の「ボッティチェリ」が添付されていたメールには、「正気を保つため」に書いた、とあった。(筆者注:横書きに合わせて漢数字を算用数字に変更しています)
訳者あとがきにあたる「★この本について」の冒頭にそう書いてある。
「ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」は、「一人の男が飛行機から飛び降りる」や「セックスの哀しみ」などの著作がある作家バリー・ユアグローが、新型コロナのパンデミックによって都市封鎖(ロックダウン)が行われたニューヨークで、ロックダウン中に書いた12の掌編小説が収録された作品集だ。
ニューヨークのロックダウンは、2020年3月23日午後8時(現地時間)から始まった。それまで、多くの人々で賑わっていた街から、まるでゴーストタウンのように人の気配が消えた。外出を制限された人々は、じっと家にこもって、この未知のウィルスがもたらすパンデミックの収束を待つ日々を過ごすことになった。
ユアグローが描く短い物語には、閉ざされた日々の中で誰もが感じるであろう閉塞感や孤独、不安、見えないウィルスへの恐怖などからくる一種の『狂気』を感じざるを得ない。感染症のパンデミックで都市が封鎖され、行動の自由が制限されるなど、世界中の多くの人々が経験したことのないことだ。この未経験の異常な状況の中で、私たちはいかに理性を失わず正気でいられるかを求められていた。「正気を保つため」に何ができるのかを考え続けた。
ユアグローにとって、それは『書く』ということだった。だから彼は書き始めた。そして、それを日本で彼の作品を翻訳している柴田元幸氏に届けた。『書いて』そして『届ける』ことが、ユアグローが「正気を保つため」に必要なことだったのだ。
本書に収録されている12篇は、それぞれ2ページから5ページほどのショートストーリーだ。
ボッティチェリ
ピクニック
鯨
影
スプーン
猿たち
戸口
サマーハウス
風に吹かれて
岩間の水たまり
夢
書く
「★この本について」で柴田元幸氏が、「出版したいからというより、ただただ書かずにいられないから書いていることがよくわかった」と書いているように、作家は、これらの作品を広く世に送り出そうとしたわけではないのだろうと思う。だが、こうして柴田さんが翻訳し出版してくれたことで、あのとき、ロックダウンで封鎖された街で作家が紡いだ物語を読むことができる。作家が何を思い、何を感じ、何を経験したのか。そこから何が生まれたのか。本書は、非常事態の世界で書かれるべくして書かれた物語の集合体なのだ。暮らしている国は違えど同じパンデミックの世界を生きた私たちは、この本から、ここに書かれた物語から、きっと何かを得られると感じた。