タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」バリー・ユアグロー/柴田元幸訳/ignition gallery-コロナ禍のニューヨーク。ロックダウンで閉ざされた日々の中でユアグローが紡ぎ出した12篇の寓話世界

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ここに収めた12本の物語は、2020年4月5日から5月11日にかけて、都市封鎖状態の続くニューヨークのクイーンズから届いた。1本目の「ボッティチェリ」が添付されていたメールには、「正気を保つため」に書いた、とあった。(筆者注:横書きに合わせて漢数字を算用数字に変更しています)

訳者あとがきにあたる「★この本について」の冒頭にそう書いてある。

ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」は、「一人の男が飛行機から飛び降りる」や「セックスの哀しみ」などの著作がある作家バリー・ユアグローが、新型コロナのパンデミックによって都市封鎖(ロックダウン)が行われたニューヨークで、ロックダウン中に書いた12の掌編小説が収録された作品集だ。

ニューヨークのロックダウンは、2020年3月23日午後8時(現地時間)から始まった。それまで、多くの人々で賑わっていた街から、まるでゴーストタウンのように人の気配が消えた。外出を制限された人々は、じっと家にこもって、この未知のウィルスがもたらすパンデミックの収束を待つ日々を過ごすことになった。

ユアグローが描く短い物語には、閉ざされた日々の中で誰もが感じるであろう閉塞感や孤独、不安、見えないウィルスへの恐怖などからくる一種の『狂気』を感じざるを得ない。感染症パンデミックで都市が封鎖され、行動の自由が制限されるなど、世界中の多くの人々が経験したことのないことだ。この未経験の異常な状況の中で、私たちはいかに理性を失わず正気でいられるかを求められていた。「正気を保つため」に何ができるのかを考え続けた。

ユアグローにとって、それは『書く』ということだった。だから彼は書き始めた。そして、それを日本で彼の作品を翻訳している柴田元幸氏に届けた。『書いて』そして『届ける』ことが、ユアグローが「正気を保つため」に必要なことだったのだ。

本書に収録されている12篇は、それぞれ2ページから5ページほどのショートストーリーだ。

ボッティチェリ
ピクニック


スプーン
猿たち
戸口
サマーハウス
風に吹かれて
岩間の水たまり

書く

「★この本について」で柴田元幸氏が、「出版したいからというより、ただただ書かずにいられないから書いていることがよくわかった」と書いているように、作家は、これらの作品を広く世に送り出そうとしたわけではないのだろうと思う。だが、こうして柴田さんが翻訳し出版してくれたことで、あのとき、ロックダウンで封鎖された街で作家が紡いだ物語を読むことができる。作家が何を思い、何を感じ、何を経験したのか。そこから何が生まれたのか。本書は、非常事態の世界で書かれるべくして書かれた物語の集合体なのだ。暮らしている国は違えど同じパンデミックの世界を生きた私たちは、この本から、ここに書かれた物語から、きっと何かを得られると感じた。

 

「やんごとなき読者」アラン・ベネット/市川恵里訳/白水社-女王陛下、読書にハマる

 

 

「陛下にも暇つぶしが必要なのはわかります」
「暇つぶし?」女王は聞き返した。「本は暇つぶしなんかじゃないわ。別の人生、別の世界を知るためのものよ。サー・ケヴィン、暇つぶしがしたいどころか、もっと暇がほしいくらいよ。(後略)」

アラン・ベネット「やんごとなき読者」は、ひょんなことから読書の楽しさにハマってしまった女王陛下の物語である。女王陛下とは、エリザベス二世のことだ。

ある日、宮殿の裏庭に停まっていた移動図書館に足を踏み入れた女王陛下は、なりゆきで本を一冊借りることになり、次の本また次の本と読んでいくうちに読書の楽しみにハマっていく。次第に女王は公務を疎かにするようになり、なにかと口実をつけて読書の時間を作ろうとする。

困ったのは周囲の人たち。なんとか女王に読書の習慣をやめさせようとするが、女王の読書熱は冷めるどころかますますヒートアップ。晩餐会の席でフランス大統領に『ジャン・ルネ』について話かけたり、家族(ロイヤルファミリー!)に「本を読め」とすすめてきたり(しかも後日読んだかチェックする)と公務にも生活にも影響が出てくる。

冒頭に引用したのは、個人秘書のサー・ケヴィンが女王の読書熱にやんわりと苦言を呈する場面。サー・ケヴィンにとって女王が本を読むのは暇つぶしに過ぎない。だが、女王にとって読書は暇つぶしではないのだ。

この場面のように、読書好き本好きにとって「うんうん」「あるある」と共感できるポイントがたくさんある。

本の続きが読みたくて仮病をつかう女王陛下
読みたい本のリストを作る女王陛下
読書の喜びを人に伝えたくなる女王陛下
会った人がどんな本を読んでいるか気になってしまう女王陛下
読んだ本について自分の考えを書きとめるようになる女王陛下

ぜんぶ我が身に当てはまる。面白い本に出会えば仕事を休んででも続きが読みたくなるし、読んだ本について誰かと話がしたくなる。読みたい本のリストを作り、読んだ本の感想(まさにコレだ)を書きたくなる。

読書にハマった女王には時間が圧倒的に足りない。「読みたいだけ本を読むには時間が足りない」のだ。

それまではさして興味もなかった作家と会うことにも、女王陛下は喜びを見出すようになる。カナダに公式訪問した女王がアリス・マンローと会って彼女が作家だと知り、その著作をもらえないか頼む場面が微笑ましい。

たくさんの本を読み続けるうちに、女王は読書にも一種の筋力が必要であり、自分にその筋力がついてきたと感じるようになる。最初の頃は読み進めるのがつらかった本を楽しんで読めるようになった。その一方で本の中には女王自身の「自分の声」がないと思うようになっていく。女王の読書の行き着く先は、「書く」ことだった。そして、彼女は最後に決断するのである。本を書くために。

とにかく面白い。女王が読書にハマる姿も、彼女に振り回される家族や臣下の人たちのオタオタする姿もユーモラスだ。王室に対する皮肉もこめられている。その一方で、本書からは女王がおかれている立場の息苦しさも感じられる。本書の最初の方には、「趣味を持つのは女王の仕事の性質にふさわしくない」とある。公的な存在である女王が特定の趣味を持つことがえこひいきにつながるからだ。女王には公務としての仕事をこなす以外の自由がないということなのだ。

現在の上皇后様がまだ皇后様だったとき、翌年に退位を控えた2018年の誕生日会見で公務を離れたら本を読みたいと発言されて話題になった(ウッドハウスの「ジーヴスシリーズ」が注目されたのを記憶している人もいると思う)。公的な立場にいるとさまざまな行事や公務が忙しく自分の時間はほとんどないのだろう。公務から解放されなければゆっくりと本を読む時間もない。大変な立場だなと思う。

ゆっくり本を読む時間があるということは、幸せなことなのだということも、本書を読んで実感した。

「ハンナのいない10月は」相川英輔/河出書房新社-学生自治会選挙の不正疑惑、女子学生の洋服盗難事件にスパイ疑惑。大学内で起きるさまざまな事件に『穏やかな狂人』はどう動くのか?

 

 

相川英輔作品は、これまで「雲を離れた月」「ハイキング」を読んできた。過去作はどれも日常にある恐怖や不安を描き、読んでいてスーッと背中に冷たいものが伝うような感覚を与えてくれる作品だったが、本作はこれまでとはまったく違ったテイストできた。

「ハンナのいない10月は」は、大学を舞台にしたミステリー小説だ。ミステリーといっても人が死んだりはしない。大学構内で起きる女子学生の洋服盗難事件や、学内に潜り込んだスパイの捜索、学生自治会選挙の不正疑惑などの日常の謎系のミステリーである。

ようやく就職の内々定を得た佐藤大地は、就職活動中に出席できなかった授業の修得について配慮してもらうために久しぶりに大学にやってきた。大地に不足している単位科目は3つ。うち2つまでは認めてもらえた。残すは「文学」である。担当教員は森川譲。彼は学内に住み込み、研究室でペットを飼っている変わり者と噂されており、『穏やかな狂人』と呼ばれる人物だった。

タイトルある『ハンナ』が、『穏やかな狂人』こと森川の研究室で飼われている猫の名前だ。本来、研究室で動物を飼うことは禁じられているのだが、ハンナのことは黙認されていて、学長の富井も学長補佐の椛島もハンナにはメロメロである。唯一、庶務課長の小山だけは、事はあるごとに森川にハンナをどうにかするように要請しているが……。

森川の研究室を訪ねた大地は、そこで学生自治会長の三田村栞と出会う。彼女は森川の研究室に入り浸っているらしい。大地は、森川に修得配慮をお願いするが、「ルールはルール」と簡単には許してくれない。森川が出してきた条件は、研究室に数千冊とある蔵書の中から、彼が最も好きな一冊をあてるというものだった。

「ハンナのいない10月は」には、表題作を含めて6つのエピソードが入っている。

1 ひとつがふたつに
2 ポルトガルの言い伝え
3 自治会選挙と夜の星
4 化石
5 激しい雨が降る
6 ハンナのいない10月は

それぞれが独立したエピソードにもなっているので、連作短編集としても読むことができる。本書全体を通じたテーマとしては、大学の経営存続問題があり、少子化の中で学生を集めなければならない私立大学の厳しさとライバル大学との競争からくるスパイ行為や評判を落とすためのデマといった問題に森川たちも巻き込まれていく。

スパイやデマといった問題への対応に、富井や椛島、小山たちは頭を悩ませるが、『穏やかな狂人』である森島はそういう話とは無縁でいたい立場だ。出世にも学内の派閥争いにも興味はない。ただ、研究室でハンナと過ごし、毎日同じ定食屋で曜日ごとに決まったメニューの定食を食べ、好きな本を読む。それでいいのだ。それだけがいいのだ。

だが、学内の状況は森川にそんな安寧は与えてくれない。なぜか彼は学内で起きる事件や疑惑の解決に乗り出さねばならないハメになり、最後には彼自身がトラブルの元となってしまう。

大学を舞台にして、ちょっと風変わりな教師が学内で起きる不可思議なトラブルに巻き込まれるミステリーということでは、奥泉光の「クワコーシリーズ」(「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」「黄色い部屋の謎 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2」「ゆるきゃらの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3」とこれまで3冊刊行されている。日本文学を教えるダメ教師の『クワコー』こと桑潟幸一がさまざまで些細な事件に巻き込まれるミステリー小説のシリーズ)がある。クワコーは、正真正銘のダメ教師なので、本書の『穏やかな狂人』森川とはキャラクターとして比較にならないが、どちらも大学で文学(クワコーは日本文学、森川は西欧文学)を教えていることなど共通しているところもあって、芋づる式に紐付けして読んでみるのも面白そうだ。

「ハンナのいない10月は」で森川は、学生への不公平な単位付与疑惑で批判の標的のなる。この問題で後援会総会は紛糾し、マスコミは大学の姿勢を糾弾する。ネットも誹謗中傷の嵐が飛び交う。椛島や小山は、疑惑の調査、悪評の払拭、メディア対応に奮闘し、大地や栞は森川のためにネットの誹謗中傷に立ち向かう。そんな中、ハンナが姿を消してしまい、森川は自分が大学に迷惑をかけていることとハンナがいなくなったことで二重に落ち込む。

ラストに森川はひとつの決断をする。彼にとっては未来への一歩となる決断だ。森川とハンナの物語は、まだまだ続くのだと思う。それが続編として形になるのか、それとも読者がそれぞれの未来像を思い描くのか。個人的には、「森川&ハンナシリーズ」として続編を期待したいと思っている。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

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「フライデー・ブラック」ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー/押野素子訳/駒草出版-ガーナ移民の両親を持つ著者のデビュー短編集。#BlackLivesMatter 運動に世界が揺れる今の時代に読む一冊。

 

 

2020年5月、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで白人警察官が黒人のジョージ・フロイド氏を逮捕する際に、8分46秒もの間フロイド氏の頸部を膝で圧迫し続けて死に至らしめる事件が起きた。この事件をきっかけにして、全米各地で大規模な抗議デモが起こる。デモ参加者たちは『Black Lives Matter』と書かれたプラカードを掲げ、黒人差別に対する抗議の声をあげた。

本書「フライデー・ブラック」は、直接に『Black Lives Matter』と関係するものではない。だが、本書に収録された12篇の短編は、いずれも黒人の虐げられる姿、人種の違いによる社会的な格差などを題材としているという意味で、両者を切り離すことはできないと感じる。

本書には、表題作を含めて12の短編が収録されている。

フィンケルスティーン5〈ファイヴ〉
母の言葉
旧時代〈ジ・エラ〉
ラーク・ストリート
病院にて
ジマー・ランド
フライデー・ブラック
ライオンと蜘蛛
ライト・スピッター-光を吐く者
アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」
小売業界で生きる秘訣
閃光を越えて

表題作「フライデー・ブラック」は、毎年11月の感謝祭(第4木曜日)翌日金曜に大々的に行われるブラックフライデーセールを題材にした作品。語り手であるショップ店員の“俺”からみた買い物客の狂乱ぶりが描かれる。開店と同時に売り場を目指して殺到する買い物客。店員に向かって「ブルー! 息子! スリークパック!」叫ぶ男性客。“俺”はその絶叫の意味を素早く理解する。

「俺の息子。俺のことをクリスマスに一番愛してくれる。ホリデー・シーズンは一緒にいられるんだ。俺と息子。欲しいものは一つ。たった一つ。息子の母親は買わない。俺が買わなければ。父親らしいことがしたいんだ!」

『ブラック・フライデー語』と呼ぶ狂乱の叫び声を瞬時に理解し、“俺”は次々と客をさばき売上をあげていく。売り場やフードコートには戦いに破れた客たちの屍が累々と折り重なり、その横で生き残った客たちが食事をしている。まるでゾンビ映画の一場面のような光景だ。

アメリカのブラックフライデーセールでの狂乱ぶりは、テレビのニュースで見たことがある。「フライデー・ブラック」に書かれるような異常さはないが、これに近いくらいの熱狂した客の様子が映し出されたのをみて「すごい」と思ったことがあった。ブレニヤーが「フライデー・ブラック」で描いたのは、その狂乱ぶりを皮肉った物語だ。

読んで怖さを感じたのは「ジマー・ランド」だ。ここに描かれる架空のテーマパーク『ジマー・ランド』は、ゲスト・プレイヤーが、自分の置かれた状況を判断し、自らの意思決定によって問題を解決し正義を行使する場を提供する。目の前に、いかにも素行不良で危険と思われる黒人がいる。ゲスト・プレイヤーは、黒人にどう接し、どう対処するかを判断し、自らの意思決定によって正義を行使する。その正義は暴力的かもしれないし、平和的かもしれない。

すべての短編が黒人差別問題を描いているわけではない。生まれてくる子どもの能力を出生前にコントロールできるようになった近未来で、最適化を受けて成功した子どもと失敗した子ども、最適化を受けていない天然の子どもの格差や差別を描いた「旧時代〈ジ・エラ〉」のようなSF設定の短編もある。

だが、すべての短編に共通しているのは、何らかの差別、格差、そして暴力性が描かれていることだ。人種差別、民族差別、貧富の格差、差別や貧困から生まれる偏見や対抗するための暴力。それらは、いま『Black Lives Matter』として世界中に広がる抗議のうねりの中核となることだ。

いま、このタイミングで本書を読むと、物語の世界と現実の世界がリンクしているように感じる。それは、本書に描かれている世界が現実に則しているからだと思う。

 

「英国風の殺人」シリル・ヘアー/佐藤弓生訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第6巻。互いに不穏な空気を醸す一族が集った聖夜の宴で起きた毒殺事件。ボトウィンク博士が解き明かす『英国でのみ起こりうる事件』とは?

 

 

国書刊行会の『世界探偵小説全集』第6巻。それぞれが互いに何らかの因縁を持つウォーベック一族が集まったクリスマスの夜、大雪に閉ざされた屋敷で行われた夜会の席でファシスト団体のリーダーとなったウォーベック卿の跡取り息子が毒殺された。古文書の調査のためにウォーベック邸に滞在していた歴史学者のウェンセスラス・ボトウィンク博士を探偵役とする本格ミステリー小説である。

「英国風の殺人」には、本格ミステリーの要素がつまっている。大雪で外部との連絡が閉ざされ孤立した屋敷で起きる殺人。そこに集まっていたのは、代々続く古い貴族であるウォーベック卿とその血族、ウォーベック卿に仕える執事、そして探偵役となる歴史学者である。事件の背景にあるのは、イギリスの貴族階級と労働者階級という区分と、その区分にもとづく政治的な体制の問題だ。

屋敷の主であるウォーベック卿は病の床にあり、彼の爵位の継承が一族の問題でもある。跡取り息子であるロバートは、『自由と正義連盟』の指導者であり、その団体はファシスト団体として知られている。ウォーベック卿の従弟サー・ジューリアスは、現政権で大蔵大臣を務める人物であり、ロバートとは対立する立場にある。さらに、ロバートとの関係に決着をつけたいと考えるレイディ・カミラ・ブレンダガスト、サー・ジューリアスが才能を見込んだ政治家カーステアズの妻であるカーステアズ夫人が加わる。彼らは、クリスマスの夜にウォーベック邸に集まった。ウォーベック邸には、卿に仕える執事のブリッグズがおり、途中から彼の娘スーザンも事件の鍵となる人物として加わる。

大雪によって外部からの応援が得られない中で事件の捜査にあたるのは、サー・ジューリアスの身辺警護のために同行したロジャース巡査部長である。彼は、サー・ジューリアスの警護という役割を果たしつつ、地元警察が到着するまでに最低限の捜査対応を行う。

そして探偵役となるボトウィンク博士。彼は、ウォーベック邸にある古文書の調査のために屋敷に滞在していて事件に巻き込まれてしまった。本書では結果として探偵役となっているが、積極的に事件捜査に乗り出したというよりは、学者としての探究心からいつの間にか事件の謎を解くポイントに気づき、最終的に犯人を指摘するに至る。

ロバート毒殺事件の翌日、病の床にあったウォーベック卿が息を引き取る。跡取り息子に続くウォーベック卿の死によって爵位の継承がどうなるかという問題が持ち上がる中、ブリッグズの娘スーザンが登場する。彼女の登場がウォーベック一族の運命を決めることになるが、そのことがさらに悲劇を生み出すことにもなる。

本書に描かれる事件の顛末を理解することは難儀なことだ。ラストの謎解きにおいてボトウィンク博士は「これは英国でのみ起きうる事件」だと言う。

「なぜ私は本件が英国風の犯罪であると主張するのか。それは動機が英国風だからであります。英国特有の政治的な要素に起因するからであります」(中略)「…今回の犯罪はすべての先進国の中で英国だけが、政体において世襲制の立法議員を維持してきたという事実がなければ起こりえなかったでしょう。(後略)」

ボトウィンク博士が事件の真相に気づけたのは、彼がイギリス人ではなく、かつ歴史学者であったからだ。彼は、貴族階級と労働者階級での微妙な言い回しの違いに疑問を感じ、また、歴史学者としての知識からこの事件がなぜ起きたのかを理解する。彼は、ロジャーズ巡査部長に『ウィリアム・ピットの生涯』を読んでみるように勧め、「なにが起こらなかったかが問題だ」と告げる。彼は、その歴史学の知識から、この事件が『英国風の殺人』だと看破するのである。

イギリスの政治制度や貴族階級、労働者階級といった身分制度を知らないまま読んだので、一読しただけではボトウィンク博士が言う犯行の動機が理解できなかった。いや、地位を得るという動機はストレートなのだが、ここに『英国風』という視点をはめ込むことは難しいのである。なので、このレビューを書くのにかなり苦労した。どうにか書いてみたが、ちゃんと読み溶けているのか自信がない。

本格ミステリー小説としては、読みやすかったし面白かった。なんか言い訳っぽくなってるけど、それだけ最後に書いておきます。

「サブリナ」ニック・ドルナソ/藤井光訳/早川書房-サブリナが消えたことで起きる波紋。メディアに追い回され、ネットにはデマがはびこる。現代社会の抱える闇をえぐり出すような作品。

 

 

ひとりの女性が突然行方不明になる。女性の名前はサブリナ・ギャロ。しばらくして、新聞社などにスナッフビデオが届くとメディアやネットが騒然とする。メディアによる執拗なまでの取材攻勢。SNSを中心にネットに拡散する誹謗中傷デマ。それはまさに現代社会の闇ともいえる。

ニック・ドルナソ「サブリナ」は、グラフィックノベルとして初のブッカー賞候補となった作品。サブリナの失踪によって、恋人のテディは生きる気力を失い、友人のカルヴィンを頼る。また、サブリナの妹サンドラも姉の失踪によって悲しみの底に突き落とされる。

サブリナの喪失による彼らの絶望は、マスコミ各社に送られてきたビデオテープによってさらにどん底へと突き落とされる。ただただ絶望の底でもがき苦しみ立ち上がる気力さえ奪い取られた彼らに、さらに追い打ちをかけるのが、心無いマスコミによる執拗な取材であり、ネットにはびこる根拠のないデマだ。スナッフ動画がネット上に拡散し、それをみた多くのネット民がテディやサンドラ、カルヴィンたちに誹謗中傷の罵声を浴びせかける。心の救済を訴える偽善者が、彼らに手を差し伸べるふりをしてみせる。

「サブリナ」は、まさに現代社会を描いている。匿名の顔の見えない人たちが、見えないところから投げつけてくる正義を装った悪意は、いま私たちのすぐ近くで起きているリアルな出来事でもある。『リアリティーショー』というリアルを装った架空のストーリーの中で起きたことに過剰に反応し、ただ演じているだけのタレントに殺意まで抱く人たち。彼/彼女たちは、匿名という鎧で身を守りながら、相手の心をズタズタに傷つけるような言葉をネット上に吐き出す。彼/彼女たちには、罪の意識はなく、むしろ正義感から糾弾しているつもりになっていて、それゆえに相手を傷つけていることを想像することができない。そして、最悪の結末を迎えてはじめて自分の愚かさに気づくのだ。

だが、そこで終わることはない。今度は愚かさに気づいた彼/彼女たちが傷つけられる側になる。匿名の鎧を剥ぎ取って正体を暴こうとする別の匿名の彼/彼女たちが現れ、正義感という名の悪意を振りかざすのだ。ネット上では、この連鎖が延々と繰り返される。そして、やはり正義感を振りかざした新聞やテレビといったメディアが、「私たちには伝える使命がある」とばかりに煽り立てるような報道を繰り返す。

「サブリナ」を読んで感じるのは恐怖だ。サブリナが失踪し彼女の家族や恋人、その友人たちが絶望に突き落とされる恐怖ではない。メディアやネットが振りかざす正義を気取った悪意への恐怖だ。

芸能人が「それは間違っているよ」とつぶやいたことに対して、「芸能人のくせに口を出すな」と叩きつけられる正義を気取った悪意。

性暴力被害にあった女性が声をあげたことに対して、「女の側にも責任がある」と叩きつけられる正義を気取った悪意。

そういう状況と「サブリナ」で描かれていることが重なって見えて、そこに恐怖を感じたのだ。その恐怖は本書を読み終わるまで消えることはなく、読み終わって時間が経った今でも胸の奥底でくすぶっている。

「サブリナ」が、普通の小説作品だったなら、ここまでの恐怖は感じなかったかもしれない。ただただ「厭な感じ」のする小説でしかなかったかもしれない。グラフィックノベルとして描かれているから、恐怖を強く感じたように思う。「サブリナ」の登場人物たちには表情がない。いや、表情はあるのだが、それが感じられないのだ。単調なコマ割りであまり表情を読み取れない登場人物たちの描写が続く。その淡々とした流れと描写が恐怖を倍増させていると思う。

淡々とした物語は、フェードアウトするかのように閉じられていく。何も終わっていないが、何かが始まる兆しはある。サブリナの事件に翻弄された人たちが、これからどのような人生を送るのか。どのようにして悲しみを乗り越えていくのか。希望とみるか、さらなる絶望とみるか。考えさせられる。

 

「愛は血を流して横たわる」エドマンド・クリスピン/滝口達也訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第5巻。女子生徒の失踪事件を発端に起きる連続殺人事件。事件をつなぐ謎の解明にジャーヴァス・フェン教授が挑む。

 

 

国書刊行会の『世界探偵小説全集』第5巻。学校の終業式を目前にして起きた女子生徒の失踪事件。最初はちょっとした不祥事と思われていたが、ふたりの教師が相次いで殺害されたことで重大事件へと発展する。事件の解決に乗り出すのは、終業式の来賓として居合わせたオックスフォード大学のジャーヴァス・フェン教授である。

カスタヴェンフォード校の終業式を前にして、カスタヴェンフォード女子高校のブレンダ・ボイスという生徒が失踪する。彼女は、失踪する直前にJ.H.ウィリアムズという生徒と密会する約束になっていたが、ウィリアムズはブレンダとは会えなかったという。さらに、理科校舎の化学実験室から劇薬が盗み出されていたことも発覚し、カスタヴェンフォード校のホラス・スタンフォード校長は頭を抱える。

そんな状況の中、アンドルー・ラヴ、マイケル・サマーズのふたりの教師が相次いで殺害される。ふたりは、同じ銃で撃たれて殺されていた。終業式に来賓として招かれていてカスタヴェンフォード校に居合わせたオックスフォード大学のジャーヴァス・フェン教授は、過去の経験から地元警察とともに事件の捜査に乗り出すことになる。現場の状況を調べ、関係者の証言を集め、容疑者をピックアップしていくフェン教授たちだが、その最中に第三の殺人が発生する。カスタヴェンフォード校から4マイルほど離れた田舎家で老女の死体が発見されたのだ。わずか24時間以内に3人が殺害され、ひとりが行方不明となったのである。

「愛は血を流して横たわる」は、エドマンド・クリスピンの長編第5作にあたる作品である(巻末リストより)。巻末に収録されている小林晋氏の解説によると、エドマンド・クリスピンは、オックスフォード大学在学中にジョン・ディクスン・カーの作品に出会ったことで探偵小説に魅了され、自らも探偵小説を執筆するようになった。1944年に処女作「金蝿」を発表し、この作品から探偵役としてオックスフォード大学教授のジャーヴィス・フェンが登場している。フェン教授を探偵役とする長編は9篇刊行されていて7篇が翻訳されている(aga-search.com情報)。

連続する事件の鍵となるのが、3人目の犠牲者である老女ブライ夫人の家で発見されたとされる古文書である。その古文書をめぐってサマーズがブライ夫人の家を訪ねていることや彼の口座から金が引き出されていることも判明する。オックスフォード大学で英文学を教えているフェン教授は、その古文書をめぐって一連の事件が起きたと推測するのである。

本作は、連続殺人事件という異常な犯罪状況を描いているが悲壮感やおどろおどろしさはなく、むしろコメディ的に展開する。フェン教授は完全無欠な名探偵というわけではなく、ところどころでピンチに立たされたりもする。追い詰められた犯人が逃走を図る場面では、犯人、フェン教授、警察がカーチェイスを繰り広げるのだが、フェン教授の愛車はトラブルを起こし、警察の犯人追跡を邪魔する格好になってしまったりして、緊迫する場面なのに笑えてしまう。

「消えた玩具」という作品と並んで、エドマンド・クリスピンの代表作にもあげられるという作品だけに、クリスピン初読みの私でも楽しく読むことができた。

これで『世界探偵小説全集』も第一期10巻の半分まで読んできた。次はシリル・ヘアーの「英国風の殺人」である。これまた全然知らない作家だけに、どんな作品か期待と不安が半々である。