タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「コロナの時代の僕ら」パオロ・ジョルダーノ/飯田亮介訳/早川書房-いま自分が置かれている状況を再確認し、感染拡大防止のための当たり前を再認識するための本。まさにいま読まれるべき本。

 

 

新型コロナウィルスが世界中で猛威を奮っている。もちろん、日本も例外ではない。ウィルスには、人種とか国とか貧富の差とか、そういう垣根がない。世界中の誰もが感染する可能性がある。いま、こうしてレビューを書いている私にも感染リスクはある。

パオロ・ジョルダーノ「コロナの時代の僕ら」は、イタリアの作家であり大学で物理学を学んだ著者が、新型コロナウィルスのパンデミックに襲われたイタリアの“今”を記したエッセイである。訳者あとがきによれば、2020年2月25日に『コリエーレ』紙に寄稿された「混乱の中で僕らを助けてくれる数学」が評判となり、そこから発展して2月29日から3月4日までの記録を兼ねたエッセイとして書かれたものであるという。日本版には、3月20日に『コリエーレ・デッラ・セッラ』紙に掲載された「コロナウィルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないもの」も「著者あとがき」として収録されている。これは、日本語版に特別に許可されたものだ。

本書は、書籍刊行に先駆けて早川書房のサイトで全文が特別に先行公開されていた(現在は読めない)ので、ネットで読んだ人もいるだろう。私はネット公開時には読み逃していたので、今回こうして書籍版で読んだ。

イタリアは、ヨーロッパ諸国の中でも早い段階で新型コロナウィルス感染症の罹患者が確認され、パンデミックが起きた国だ。4月末の時点で累積の感染者数がおよそ20万人で死亡者も2万7千人に及ぶ。4月後半になって感染拡大が鈍化し、新規感染者数を回復者数が上回る状況になってきている。

「コロナの時代の僕ら」は、訳者あとがきまで含めて130ページ弱。27章で構成されていて、ひとつひとつの章は短い。読み始めると一気に読めてしまう。

だが、短いひとつひとつのエッセイに書かれていることは、どれも共感し納得できることばかりだ。ウィルスは、思想信条が違うとか、暮らしている環境が違うとか、貧富の格差とか、そういう人間的な乖離にはまったく忖度しない。どんな立場の人間でも、このウィルスに感染する可能性があるし、誰かを感染させてしまう可能性がある。

著者は「感染症の数学」という章で、「ウィルスの前では人類全体がたった三つのグループに分類される」と記す。

感受性人口:まだウィルスが感染させることができる人々(感受性保持者とも呼ばれる)
感染人口:ウィルスにすでに感染した感染者たち
離人口:ウィルスにはもう感染させることができない人々

まだ感染していない人(これから感染するかもしれない人)、いま感染している人、過去に感染して免疫を獲得した人ということだ。新型コロナウィルスに対しては、感受性人口が圧倒的に多いので、適切な対応をとらなければ感染人口が爆発的に増加することになる。

イタリアでは、北部から感染が拡大していった。感染の爆発的な増加を抑えるために全土で都市封鎖が行われ、食料品などの生活必需品の買い物や犬の散歩など一部の例外を除いて一切の外出が禁止されている。

外出禁止で自宅から出られない生活の様子についても、著者は本書に書いている。「隔離生活のジレンマ」と題するエッセイは、外出禁止という閉塞された生活を送る中で、人間なら誰しもが抱えるであろう心の葛藤が記されている。

「行ってみたら普段より空いているんじゃないか?」という、自分だけなら大丈夫だろうと考えてしまうこと。でも、そういう考えの人が集まってしまったら、結局それは感染者を増やしてしまう結果になるだろう。「自分だけなら」という個人の損得勘定ではなく、みんなの損得を同時に考えなければならない。だから、人が集まるところへは行かない。

感染症の流行は、集団のメンバーとしての自覚を持てと僕たちに促す。

「運命論への反論」の冒頭で著者はそう記す。「コロナの時代の僕ら」に書かれていることは、どれも“当たり前”の考え方なのだ。自分だけは特別とか、自分だけなら問題ないとか、そういう個人の理屈はウィルスには通用しないのだということを改めて確認させられる。本書に書かれていることを読んで「そんなの当たり前じゃないか」と一蹴してしまうことは簡単だ。だけど、私たちはその“当たり前”を実践できているのか?

およそ130ページと短い本だが、内容は深くて濃いと感じた。日本も緊急事態宣言が出され、外出自粛や人との接触8割削減などの感染拡大防止のための取り組みが私たちに求められている。だけど、私も含め、どうもこの国の人たちは危機感が薄いように思える。法的な強制力もなく罰則もない外出自粛は、個人個人の努力に頼っているため、その受け取り方は個人差がある。海外の都市封鎖された街では外出している人はほとんどいないが、日本ではだいぶ減っているがまだ普通に出勤したり、休日に遊びに行ったりしている。

このレビューを書いているのは4月28日。明日4月29日から本格的なゴールデンウィークが始まる。どのくらいの人が、個人の損得勘定ではなくみんなの損得を考えて行動できるだろうか。

とにかく私は、自宅にこもって本を読んだり映画を観たりして過ごそうと思っている。

 

「トラとミケ いとしい日々」ねこまき/小学館-こんな時代だからこそ、ほっこりあたたかい話を読みたい方にオススメ

 

 

味噌味に仕込んたどて煮込みが名物の老舗居酒屋「トラとミケ」を切り盛りするのは、姉トラと妹ミケのばーちゃん姉妹。父の代から受け継いだどて煮は、朝挽きの新鮮なホルモンを丁寧に仕込んだ逸品だ。夕方になると常連客たちが続々と集まってきては、世間話に花を咲かせる。

新型コロナの影響で外出自粛が続く中、会社帰りにときどき顔を出していたあの店はどうなっているだろう、と考える。このレビューを読んでいる中にも、そういう人はたくさんいると思う。

本書は、エア本屋『いか文庫』の粕川ゆきさんが、NHKの『あさいち』で紹介していた中の一冊。ねこまきさんの描くトラやミケ、常連客たちの姿(みんなネコ)が、みんな愛らしくて読んでいてほっこりする。

トラさんとミケさん姉妹の一日は、のんびりしているようで忙しい。ポカポカと暖かい縁側でまったりしているところへ朝挽きの新鮮なホルモンが届いたら仕込みの始まり。どて煮のモツを丁寧にさばいて串を打つ。妹のミケは肉問屋から串打ちモツを仕入れようと言うが姉のトラは「あ・か・ん」と言う。なぜなら、丁寧な仕込みは死んだ父がこの店を屋台から始めた頃からのやり方だから。モツの仕込みが終われば、おでんの仕込み、一品料理の仕込みと開店まで大忙しだ。

開店時間になると、どて煮の美味しそうな匂いにつられてお客さんが集まってくる。ビールにどて煮。串カツにおでん。次々と常連さんが顔を出す。10時の閉店時間まで店には笑いがたえない。いい店だ。

いわゆる大衆居酒屋。仕込みは丁寧で代々継ぎ足している秘伝のタレの味も抜群だけど、飾る必要のない気安さがある。明るくにぎやかな店内からは笑い声が響く。そんな雰囲気だから、一見さんにもハードルが低いはずだ。ガラガラっと引き戸を開けてヒョイとのれんをくぐれば「いらっしゃい!」の声が聞こえる。ちょっとくらい混んでいても、気を利かせた常連さんがつめて席を作ってくれる。

「生ビール!」と声をかける。「ここはどて煮がオススメだよ」と常連さんに教えてもらう。それだけでもうトラさん、ミケさん、常連さんとは顔なじみだ。仕事で悩んでいたことも笑い飛ばせる。たっぷり飲んで食べてもお代は良心価格だ。

トラさん、ミケさんにたくさんのエピソードがあるように、常連さんひとりひとりにもそれぞれのエピソードがある。すっかりできあがった彼らから、そんな話も聞けるだろう。でも、あまりしつこいとトラさんに怒られちゃうからホドホドにね。

勘定を済ませて外に出れば酔った身体に夜風が心地よい。一日の終りに味わうささやかな幸せ。「トラとミケ」のような店は私たちの身近にある。「トラとミケ」は日本中にある。

緊急事態宣言。外出自粛。休業要請。「トラとミケ」はどうしているだろうか。トラさんは、ミケさんは、常連さんたちは、どうしているだろうか。

案外のんきにしているかもしれない。そうであってほしい。いつかまた「トラとミケ」ののれんをくぐる日を待ち望んでいる。

「マーダーボット・ダイアリー(上/下)」マーサ・ウェルズ/中原尚哉訳/東京創元社-とにかく楽しめる娯楽SF小説。手に汗握るアクションはもちろん、冷徹なマシーンであるはずの弊機の人間らしさにも注目してほしい

 

 

 

冷徹な殺人機械のはずなのに、弊機はひどい欠陥品です。

上巻の帯にも書かれている一節は、物語冒頭の一文に登場する。自らを“弊機”と称する人型警備ユニットは、かつて重大事件を起こしたが、現在はその記憶は消去されている。ひそかに統制モジュールをハッキングして外部からのコントロール支配を脱し、自由を得た弊機だが、その後も人型警備ユニットとして稼働している。

「マーダーボット・ダイアリー」は、“弊機”が語り手として進行する4つの中篇で構成されるSF小説だ。上巻に「システムの危殆」と「人工的なあり方」の2篇、下巻に「暴走プロトコル」と「出口戦略の無謀」の2篇が収録されていて、それぞれが独立した中篇として完結している。4つの中篇は時系列に並んでいて、全体でひとつの長編にもなっている。

「システムの危殆」は、「マーダーボット・ダイアリー」全体のプロローグ的ストーリーだ。“弊機”がどのようなキャラクターなのか、どのような能力があるのか、などを記している。説明調にはなっていないので読みやすく、中篇として完結した面白さがある。弊機の語りで記されているので、マシーンであるはずの“弊機”から人間味が感じられ、読者が“弊機”に感情移入しやすくなっている。

弊機は、所属する“弊社”の統制モジュールをハッキングすることで、弊社の指示に統制されない自己判断のできる警備ユニットになっている。娯楽モジュールをハッキングして入手した連続ドラマや本、演劇の番組をみるのが楽しみで、特に連続ドラマ『サンクチュアリームーン』にハマっている。

「システムの危殆」の中では、弊社の契約によってブリザベーション補助隊としてある未開の惑星に派遣された弊機が、大きなトラブルに巻き込まれ負傷する。その後、ブリザベーション補助隊のメンサー博士が弊機の所有権を取得し、弊機は契約上も自由を手に入れる。メンサー博士から「好きなことを学んで、それをやればいい」と言われるが、

弊機は自分がなにをやりたいのかわかりません。これはどこかで述べたと思います。だからといって、やりたいことをだれかに教えられたり勝手に決められたりするのはいやなのです。

との思いから、メンサー博士のもとを離れる。(ここまでが「システムの危殆」)

メンサー博士のもとを離れた弊機は、ART(「不愉快千万な調査船:アスホール・リサーチ・トランスポート」の略。弊機がそう呼んでいる)という高性能なボットが制御している調査船に乗り込み、ARTの助言で外見を人間らしくする身体改造を行う。

弊機は、過去に起こした大量殺戮事件について、自分がなにをしたのか知りたいと思っている。

「不具合が起きて多量殺人を犯し、そのあとで統制モジュールをハックしたのか。それとも統制モジュールをハックしたから大量殺人を犯したのか。可能性はこの二つのどちらかです」

ARTは、弊機の考えを非論理的だと言い、考慮すべきは可能性は「そもそもその事件は起きたのか起きなかったのか」だと告げる。そして弊機は、事件が起きたとされるラビハイラル採掘施設Qステーションへ向かう。(「人工的なあり方」)

上巻に収録されている2篇で、もう一気に弊機の世界に持っていかれる。それが下巻に入るとさらに加速していく。

「暴走プロトコル」では、「システムの危殆」で弊機が巻き込まれた事件を引き起こしたグレイクリス社が、企業リム外のさまざまな惑星で同様の事件を起こしており、そこにはグレイクリス社のある企みが存在することがわかる。弊機は、ミキというペットロボットを連れたアビーン博士の調査隊に加わりミルー星のテラフォーム施設に潜入するが、そこでまたしてもトラブルに巻き込まれてしまう。

弊機の物語は、「出口戦略の無謀」でクライマックスを迎える。囚われたメンサー博士を救出するため、弊機は敵が支配するトランローリンハイファというステーションに向かう。絶体絶命ともいえる最悪のピンチを弊機はどうやって切り抜けるのか。メンサー博士を無事に救出することはできるのか。物語のラストを飾る最高のクライマックスシーンとそれに続くラスト。手に汗握る怒涛のアクションと次々と襲い来る敵との戦い。目まぐるしい展開は目を離すことができない。

極上のエンターテインメントSF作品だ。弊機のずば抜けた処理能力と怒涛の戦闘アクションシーンの連続は、読者を物語の世界に引き込んで離さない。アクションだけではない。読者は、“弊機”の成長にも目を奪われるだろう。冷徹なマシーンであるはずの弊機が、連続ドラマにハマっていたり、喜怒哀楽を身につけていったりするところは、子どもが大人に成長していくプロセスをみているような気分になる。弊機とARTやミキとの会話や出会い、別れからは微笑ましさや悲しみを感じるだろう。

とにかく面白い小説が読みたいということなら、本書は最適な選択肢だと思う。SF小説は苦手という人でも楽しめる作品だと思う。

「システムの危殆」で、「自分がなにをやりたいのかわかりません」と記していた弊機が、最後にはどのように成長しているのか。弊機の気持ちの変化にも着目して読むとより面白いと思う。

「薔薇荘にて」A・E・W・メイスン/富塚由美訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第1巻。南フランスの避暑地で起きた殺人事件の謎をパリ警視庁の名探偵アノーが解き明かす

 

 

国書刊行会『世界探偵小説全集』は、1994年にスタートして全4期で48巻が刊行された叢書シリーズだ。1900年代初頭から1950年代の探偵小説を集めてたシリーズになっている。

「薔薇荘にて」は第1期シリーズの第6回配本で、全集全体での第1巻となる作品。原著は1910年に発表されているので、翻訳刊行当時で85年、現在では110年前の作品ということになる。

舞台は南フランス、サヴォワ県の温泉保養地エクス・レ・バン。引退した実業家のりカード氏は、夏をこの避暑地に長逗留して過ごすことにしていた。その年も、いつものように避暑地を訪れて〈花の館〉のバカラルームで時を過ごそうとしていたリカード氏は、バカラルームから出てきた若い女性に目を留める。彼女は、しきりに頭を動かしたり、ふさいだ様子で地面に目を落としたりしていて、いまにもヒステリーを起こしそうに見えた。数分後、バカラルームに戻ったリカード氏は、ゲームの胴元の青年を見て驚く。ハリー・ウェザミルというイギリス人は、若くして財を築いた人物で、彼と若い娘は親しい関係のようだった。娘はシーリアといい〈薔薇荘〉の女主人ドヴレー夫人の同居人だった。

数日後、ウェザミルがリカード氏のホテルに駆け込んでくる。〈薔薇荘〉でドヴレー夫人が殺害され、シーリアが姿を消したのだ。警察はシーリアを有力な容疑者として行方を追っているが、ウェザミルは彼女は潔白だと主張し、避暑地に来ているパリ警視庁の名探偵アノーに事件を捜査してほしいという。アノーと親しいリカード氏から彼にお願いしてほしいと頼みに来たのだ。こうして、アノーは事件の捜査に乗り出すことになる。そして、持ち前の観察力と推理力で事件の謎に迫っていく。

「薔薇荘にて」は、パリ警視庁の名探偵アノーとリカード氏のコンビが登場するシリーズの第1作であり、それまでは大衆小説作家として作品を発表していたA・E・W・メイスンがはじめて発表した探偵小説である。アノー&リカードのコンビは、シャーロック・ホームズとワトソン博士の関係である。アノーは、鋭い観察力と推理力を駆使して事件現場の違和感を察知し、目撃者や被害者の話の中から事件解明の鍵を見出す。ホームズと同様に皮肉屋で人を小馬鹿にするような言葉を投げつけたりする。リカード氏は、ワトスン博士の役回りで、それはつまり読者の視点を与えられた人物ということだ。ときおり、あたかも大発見したかのように自分が気づいたことや推理を披露するが、そのたびにアノーから一蹴されムッとしたりするところは、殺伐として事件の描く作品の中で笑いを誘う。

「薔薇荘にて」は、全21章で構成されている。第1章から第14章までが、事件の発生から捜査のプロセス、解決までを描き、第15章からはキーパーソンであるシーリアの証言などから事件の真相を明かされていく。

殺人事件が起こり、名探偵が捜査に乗り出し、現場の状況や目撃者の証言などから真相を推理し解決に導いていく。そういう探偵小説の王道パターンが本書でも描かれる。だが、巻末にある塚田よしと氏の解説(メイスン愛が溢れているので必読!)によれば、メイスンは探偵役のアノーをホームズのようなアマチュア探偵ではなく、パリ警視庁に属する設定にしたことで差別化を図ったと記している。アノーとリカードのコンビは、ホームズとワトソンのコンビのパターンを踏襲しているが、そのキャラクター造形にはメイスンなりの考えもあったようだ。

110年前の作品なので、当然古めかしい。展開も大きなどんでん返しがあるというわけでもなく、物足りないと感じるところもある。でも、それは欠点ではなく、むしろ安心して読めるということだと思う。

国書刊行会の『世界探偵小説全集』は、刊行当時に買ったまま積ん読状態になっていた(積ん読歴25年!)。これを機会に積ん読を解消してみようかと思っている。

 

「仙童たち 天狗さらいとその予後について」栗林佐知/未知谷-天狗にさらわれた4人の子どもたち抱える苦痛。天狗はその苦痛から彼らを救ったのだろうか

 

 

ある日突然子どもが行方不明になる。子どもの神隠しを昔は『天狗さらい』といって、天狗が子どもをさらっていったと考えられていたという。平田篤胤の「仙境異聞」は、江戸文政年間に天狗にさらわれたといわれる寅吉という少年の記録である。

栗林佐知「仙童たち 天狗さらいとその予後について」にも、平田篤胤と寅吉の話が出てくる。「仙童たち」は、天狗さらいをテーマにした学芸員の学会発表音声の書き起こしと、天狗にさらわれたとされる4人の少年少女たちの物語を交互に描いている。

神奈川県ツルマ市立タンポポ台中学の1年生4人が学校の遠足で行った大山で行方不明になり翌朝発見されるという事件が起きた。行方不明になった4人の少年少女、仏沢せいじ、鯨川かんな、井戸口俊樹、堀江桂は、途中ではぐれてしまった理由について記憶がない子もいたが、中には「天狗につかまれて空を飛んだ」などと証言する子もあった。そして4人は、2年生に進級して同じクラスになる。ただ、接点はそれだけだ。たまたま一緒に遭難し、たまたま同じクラスになった。事実としてはそれだけ。それでも、どこかで4人は見えないつながりを持ち続ける。

4人の子どもたちはそれぞれに複雑な事情を抱えている。軽い知的ハンデキャップがある仏沢せいじ。母親からの強烈な圧力から字が読めなくなった鯨川かんな。父親のいない井戸口俊樹。母親からの過度な愛情にうんざりし大人の女性に憧れ裏切られる堀江桂。少年少女は、それぞれに何かしらの問題や悩みを抱え、それぞれに日々を生きている。彼・彼女が大山での事件を経た今、そして未来が4つの短篇によって描き出されていく。

4人の少年少女それぞれの物語をつなぐように挿入されるのが、「証拠物件 遺留品(ICレコーダー)の残された音声」だ。郷土資料館の学芸員クジラガワ・カンナによる『多摩西南地域の天狗道祖神-庶民信仰をめぐる一考察』と題する研究発表は、多摩西南地域に広く分布する石仏や庚申塚などの庶民信仰の遺物を調査研究した成果であり、その中で『天狗道祖神』が登場し、天狗の人さらいについて熱く語られる。

『天狗さらい』という非現実を題材にしているが、ひとつひとつの短篇に描かれる子どもたちの姿は知的ハンデキャップや家庭内暴力、過度な期待とそれにこたえられないことへの苦悩や重責からの逃避など、今の時代に生きる子どもたちが現実に抱える悩みや不安を映し出しているように感じる。

著者はあとがきで「衣食住の苦労こそない子どもたちの苦痛」を軸としていたと記している。4人の子どもたちは衣食住には問題がないが、それぞれにさまざまな苦痛を抱えている。『天狗さらい』は、彼らの苦痛を解消するために必要な事件だったのだろう。天狗にさらわれ、新しい人生観、新しい価値観を獲得した子どもたちは、その経験によって苦痛への対処を学び、成長して大人になっていくのだろう。

「仙童たち」における天狗とは、子どもたちの苦痛を理解し、正しい道へ導く大人の役割を示しているのだろう。現実の私たちは、『タマヨケ坊』のように子どもたちに正しい道を教えられる大人になれているのだろうか?

「あの本は読まれているか」ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社-(プルーフ版先読み)東西冷戦下、一冊の本によって世界は変わるのか? 出版権200万ドル、初版20万部、世界30ヶ国で翻訳刊行のデビュー作。

 

 

4月刊行予定のラーラ・プレスコット「あの本は読まれているか」を発売前のプルーフ版で読む機会をいただきました。訳者の吉澤康子さん、版元の東京創元社さん、ありがとうございます。

本書は、デビュー作としては破格の200万ドル(約2億円)で出版権が買われたという作品で、初版は20万部。MWAエドガー賞の最優秀新人賞にもノミネートされ、世界30ヶ国で翻訳されたているという。

舞台となるのは、1950年代の東西冷戦時代。アメリカCIAは、ソ連に対してある特殊作戦を画策する。それは、ソ連国内では禁書とされたボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」をソ連国民の手に渡し、国家によって自分たちが迫害されていることを知らしめることだ。

作中にはさまざまな人物が登場する。西側には、ロシア移民の娘でCIAでタイピストとして働くイリーナと彼女の同僚のタイピストたち。イリーナが有するスパイとしての素質を見いだして「ドクトル・ジバゴ」を巡る特殊作戦へと組み入れるべく訓練するCIAのスパイたち。東側には、「ドクトル・ジバゴ」の著者ボリス・パステルナークと彼の愛人オリガ。ボリスの妻や「ドクトル・ジバゴ」の存在を抹殺した当局者たち。

物語は主に、東側はオリガとボリス、西側はイリーナが中心となって展開するが、特長的なのは各章で語り手が入れ替わっていくことだ。

西側のパートはこうなっている。

イリーナが語り手となる『わたし』の章
タイピストたちが語り手となる『わたしたち』の章
CIA諜報員サリーが語り手となる『あたし』の章
CIA秘密工作員テディが語り手となる『ぼく』の章

東側のパートはこうだ。

オリガが語り手となる『わたし』の章
『ボリス』を三人称で描く章

語り手が固定されていないと感情移入がしにくくなるデメリットはあるが、一方で同じ事物に対して複数の視点から描くことで生まれる効果もある。イリーナの視点で彼女の内面が描かれ、タイピストたちの視点でそのときの彼女の外見が描かれる。その対比によって、イリーナがどのような人物なのかが見えてくるように思う。

多くの登場人物、多くの視点で書かれているが、物語の主役は「ドクトル・ジバゴ」だと思う。一冊の本が世界を変えることができるのか? という命題をストーリーの中核に据え、その本に関わる人々の人生が描かれているのだ。

ドクトル・ジバゴ」に関わる特殊作戦を描いているので、本書はスパイ小説として読まれるかもしれない。だが、本書はそれほど単純な話ではない。登場人物たちはそれぞれに、それぞれの役割を果たすために行動を起こす。「ドクトル・ジバゴ」によって人生を狂わされる。「ドクトル・ジバゴ」によって多くの出会いを経て変わっていく。誰もが一冊の本に翻弄される。誰もが一冊の本に執着する。

出版権200万ドルや初版20万部、世界30ヶ国で翻訳といった前評判のハードルがあがりまくっているが、そのハードルを感じさせないほどに読み応えがあった。4月に刊行されたらまた読みたいと思うし、この本を読んだ他の読者からも話を聞いてみたいと思う。

 

 

「ニジノ絵本屋さんの本 本屋さんで、出版社で、絵本パフォーマー。」いしいあや文、小林由季イラスト/西日本出版社-絵本屋、出版社、パフォーマーと、さまざまな顔を持つ『ニジノ絵本屋』はこうしてできあがった

 

 

『ニジノ絵本屋』は、東京東横線都立大学駅近くにある絵本専門書店です。2011年にわずか1.5坪の小さなスペースからスタートして、2017年に現在の店舗に移転しました。

nijinoehonya.com

本書「ニジノ絵本屋さんの本」は、ニジノ絵本屋代表のいしいあやさんによるニジノ絵本屋の歩みを書いた本です。ニジノ絵本屋を構成する3つの要素『絵本の販売(絵本屋)』『絵本の出版』『絵本の読み聞かせ(パフォーマンス)』について、どうして絵本屋をはじめたのか。どうして出版を始めたのか。特徴的な読み聞かせパフォーマンスはどのようにして生まれたのか。そうしたニジノ絵本屋についてのアレコレが記されています。

そもそも、いしいさんは「小さい頃から絵本屋さんになりたかった」とか「もともと出版業界で働いていた」というわけではありませんでした。本に関しては完全な素人でした。そんないしいさんがニジノ絵本屋をはじめたのは、当時勤めていた会社のつながりから、小さな雑居ビルの小さなスペースで「なにかやってみないか」と声をかけられたからです。1.5坪のスペースで何ができるか考えたいしいさんは、両隣が小児科クリニックと薬局という立地から、絵本屋をやってみようと思い立ちます。

絵本屋をはじめることを決めたものの、どうやって絵本を仕入れたらいいのかすらわかりません。それでも、いろいろと調べたり、周囲の方々のアドバイスをいただいたりして仕入れルートを確保し、ニジノ絵本屋は開店します。

先日、いしいさんが登壇するイベントに参加しました。そのイベントでいしいさんはニジノ絵本屋開店時のエピソードをお話されていました。いしいさんは、「本といえば神保町!」と思い立って神保町に行き、街の案内所で「絵本を仕入れたいんですけどどこに行けばいいですか?」と訪ねたのだそうです。街の案内所の方もそんな問い合わせを受けるとは思っていなかったでしょうね。そのくらい知識ゼロのところからニジノ絵本屋はスタートしたわけです。

絵本屋としてスタートしたニジノ絵本屋は、2012年には絵本の出版にも進出します。1.5坪のスペースで絵本を仕入れて売るだけでは商売的には厳しいものがあります。そこで、いしいさんが考えたのが自分たちで絵本を作って売るということでした。

ニジノ絵本屋レーベルの最初の絵本は『はらぺこめがね』という絵本ユニットの「フルーツポンチ」という作品でした。

パン屋さんはパンを作って売っている!絵本屋さんが絵本を作って売るのは自然なことのはず!

ご自身でも「今振り返ってみると超絶安易な思いつき」と記していますが、その安易な思いつきに猪突猛進に突き進んでいくのがいしいさんのスゴイところです。『はらぺこめがね』という夫婦ユニットと出会い、彼らの作品で絵本を作ろうと奔走します。

本屋開業についてもまったくの素人だったいしいさんは、出版に関しても当然素人です。ですが、持ち前の行動力で『はらぺこめがね』のふたりと協力して、出版に至るさまざまなハードルを果敢に乗り越えていきます。こうして「フルーツポンチ」ができあがるのです。

ニジノ絵本屋は、『えほんLIVE』という絵本の読み聞かせパフォーマンスを行っています。一般的な絵本の読み聞かせは、子どもたちを前にして読み手が絵本のページを見せながら読んで聞かせるというスタイルです。ニジノ絵本屋の「えほんLIVE」は、音楽と融合して、まさに『パフォーマンス』として読み聞かせを演じます。各地のイベントなどにも出演していて、1月31日~2月1日に二子玉川で開催された本屋博でもパフォーマンスを披露していました。2019年には『サマーソニック』にも出演したそうです。

本書には、ニジノ絵本屋のさまざまな活動に関わってきた方々が「ゲストコラム」として、当時のこと、ニジノ絵本屋との出会い、いしいさんの人柄などを記しています。ゲストコラムを読んで思うのは、ニジノ絵本屋がさまざまな人たちの出会いの場所となっているということです。そして、その中心となっているのが代表のいしいあやさんの存在なんだということです。

実際、私もイベントでいしいさんのお話を伺って、とても楽しい方という印象を受けました。人を惹きつける求心力のようなものがあるとも感じました。ニジノ絵本屋に関わってきた人たちは、きっと「この人と一緒だと面白いことができるかも」と思って、いしいさんと一緒に動いてきたんだろうと思います。

私はまだニジノ絵本屋のお店には伺ったことがありません。いつかきっとお店に行ってみたいと思っています。