タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳「罪悪」(東京創元社)-罪の意識とはどういうものなのか。

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人は、自分が犯した罪の重さをどう考えるのだろうか。

小さな罪であっても、深く罪悪感に苛まれて苦悩し続ける人がある。
大きく重い罪を犯しても平然としていられる人がある。

フェルディナント・フォン・シーラッハの短編シリーズ第2作となる「罪悪」には、15篇の短編が収録されている。

ふるさと祭り
遺伝子
イルミナティ
子どもたち
解剖学
間男
アタッシュケース
欲求

寂しさ
司法当局
清算
家族
秘密

前作の「犯罪」を久しぶりに読み返したこともあり、また2019年6月にはシリーズ第3作にして、短編3部作の締めくくりとなる「刑罰」が刊行されることもあって、「罪悪」も7年ぶりくらいに読み返してみた。

冒頭に収録された「ふるさと祭り」が衝撃的だった。賑わう祭りの会場で起きた楽団員たちによる少女輪姦事件。酒に酔って事件を起こした楽団員たちには罪の意識は希薄であり、レイプ被害を受けた少女もあまりの恐怖から楽団員の誰が加害者なのかをはっきりと認識できていない。少女が理不尽な暴行(それはあまりに凄惨である)を受けているのは明らかなのに、証拠や証言の曖昧さから罪を裁くことのできないジレンマがある。

最初に読んだときには、そんな理不尽なことがあってはいけないと憤りを感じたが、今まさに同じような理不尽なことが自分たちの国でも起きていることに愕然とした。

「犯罪」が、『人はなぜ罪を犯してしまうのか』を読者に問いかけた短編集だとしたら、「罪悪」は、『犯してしまった罪の重さを人はどう受け止めるのか』を読者に問いかけた短編集である。15篇の短編のひとつひとつに描かれた罪とその罪の重みを登場人物がどう受け止めているか。それを読んで読者である私たちはどう受け止めたらよいのか。ただ楽しむだけではなく、いろいろなことを考えさせられる短編集だった。