タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

エミリー・バー/三辺律子訳「フローラ」(小学館)-「ドレイクとキスをした」。記憶に障害のあるフローラがたったひとつ覚えていられたこと。それだけを支えにして彼女は旅立つ。北極へ、そして未来へ。

寒々とした氷の海。遠くに見える雪山。そして、氷の上に佇む少女。

エミリー・バー「フローラ」の表紙に描かれている風景。その佇む少女が本書の主人公フローラだ。彼女は、10歳のときに受けた脳手術の影響で記憶に障害が残った。『前向性健忘症』というのが彼女の記憶障害の名前。いま起きたこともすぐに忘れてしまう。生活に関することは覚えている。10歳までの記憶もある。でも、それ以降の記憶はすべて時間が経つと忘れてしまう。

でも、彼女はたったひとつ覚えていられた。ドレイクとビーチでキスをしたこと。ドレイクはペイジの彼氏だけど、フローラは彼とのキスの記憶だけ、時間が過ぎても覚えていられた。だから、ドレイクを好きになった。そして、彼に会うためにたったひとりで旅をすることにした。北極への旅。

記憶に障害のある17歳の少女が、たったひとつ覚えていたキスの経験を頼りにその相手を探して北極まで旅をする。フローラの一途な愛が、彼女に障害を乗り越える勇気と希望を与える。フローラは愛の力で困難を克服してドレイクに会うことができるのか。

「フローラ」は、そういう物語だ。少なくと中盤過ぎまでは。でも、第2部の後半からラストにかけて展開する出来事は、悲しくてせつない。

たったひとりの旅の中で、フローラはたくさんの人に出会う。それはとても素敵な出会いだ。彼女は、出会ったことを忘れてしまうけど、でも彼女に出会った人たちはみんな彼女を好きになる。それは、フローラがとても魅力的だから。きっとそうなんだと思う。

フローラは、ドレイクに会いたくてたまらない。たくさん不安なこともあるけれど、ドレイクに会えれば安心できる。そのはずだった。彼女の思いが強ければ強いほど、ドレイクとの再会によって彼女が経験することの重さが伝わってくる。

フローラのドレイクへの愛が悲しくてせつないものであるように、フローラに向けられた家族の思いも悲しくてせつない。フローラが『前向性健忘症』を患うきっかけとなった出来事。彼女に対する母のトラウマ。ただ黙って見守るだけの父の苦悩。パリに暮らし重い病気になっている兄。フローラの家族は、それぞれがそれぞれの思いで彼女と接している。

第3部に入って、フローラは冒険を終えて自宅に戻っている。フローラの母は、以前にもまして彼女を大事に大切に守ろうとしている。フローラの気持ちを安定させる薬を与え、家の中でおとなしく過ごすことを望んでいる。

フローラの本当の姿に気づかせ未来に希望を与えるのは、兄ジェイコブが彼女に遺した手紙だ。その手紙には、フローラがなぜ『前向性健忘症』になってしまったのか、母がなぜフローラを過剰なまでに大事に守ろうとしているのか、そして18歳になったフローラがこれから自分で未来を作っていくことへの希望が記されている。

フローラにどんな未来が待っているのか。彼女の記憶障害は回復するのか。もちろん、先はまだ見えない。でも、ひとつわかっていることがある。この物語が一人称で書かれていること、つまり「フローラ」は、フローラが自分自身のことを記した物語だということ。そう考えれば、彼女の未来はきっと明るいと信じられる気がする。