タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

チャールズ・ブコウスキー著、ロバート・クラム画/中川五郎訳「死をポケットに入れて」(河出書房新社)-浴びるように酒をのみ、競馬場に入り浸る。ブコウスキー晩年の日記に記されたことは、どこまで彼の本音なのだろうか。

チャールズ・ブコウスキーといえば、男臭く、下卑て厭らしい作品の印象が強い。

「死をポケットに入れて」は、ブコウスキーの晩年、1991年から93年に散発的に記された日記である。だが、その内容は日記というよりもエッセイであり、世の中に対する批評(というか愚痴)となっている。

全編にわたって記されるのは、浴びるように酒をのみ、競馬場に入り浸ってギャンブルに興じるブコウスキーの姿だ。そして、彼が酒場や競馬場で見聞きした市井の人々の滑稽な姿である。

ブコウスキーは、人間観察力に長けた人だと感じる。彼のところへ訪ねてくるファンを自称する人たちを観察し、酒場に集い世の中のあらゆる事柄に不平不満をぶちまける酔っ払いたちを観察し、競馬場で借金をしてまで賭け続ける敗北者たちを観察する。

彼が観察し、記録するすべての人たちは、そのまま彼自身を映している。人嫌いで世の中から一歩どころか百歩も千歩も離れたところにいて、いつも何かに不満を抱えている。そんな自分自身を市井の人々の姿を借りて客観的に描き出そうと試みているような、そんな印象を受ける。

91年8月28日の日記。競馬場から帰宅しスパに入ってくつろぐブコウスキーの家のドアを誰かがノックする。金髪の若い男と太った女、中肉中背の女。彼らはブコウスキーのサインがほしいという。なのに、誰もサインをするための紙もペンももっていない。そのことを指摘すると、彼らは笑いながら去っていく。

作家は自分が書いたこと以外、何に対しても責任を負うことはない。作品が及ぼす効果以外、読者に対して負うべきことはなにもないのだ。

ブコウスキーにとっては、作品が世に出てしまえば、そのあとのことはどうでもいいのだ。だから、「あなたの作品のファンです」などと読者面して近づかれても、特にどうということもない。

この本には、ブコウスキーの様々な心情が吐露されている。なんだかんだと理由をつけて近づいてくるファンとかいう人たちへの思いもそうだし、過去の作家たちへの思いもそうだ。ドストエフスキー、フォークナー、ゴーリキートルストイヘミングウェイ。過去の作家たちに対してもブコウスキーは毒を吐く。

本書を読みながら思ったのは、はたしてどこまでがブコウスキーの本音なのかということだった。いや、おそらくすべてが彼の本音なのに違いないという気がする。なぜなら、日記のほとんどは彼が酔っている状態で書かれたのではないかと思うからだ。酒の勢いがコンピューターのキーボードを叩く指を軽快にしてしまったのではないかと思うからだ。

それとも、ブコウスキーならば酔っているとかいないに関わらず、すべてを本音で記しているのだろうか。

そもそも、この日記自体が創作なのかもしれないとも考えてしまう。ブコウスキーという作家の本質は、どうにも掴みづらいのである。