タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

ケイト・ザンブレノ/西山敦子訳「ヒロインズ」(C.I.P BOOKS)-男は“男”として生きられるのに、女が“女”として生きにくいのはなぜだろう。

この本を読んだ感想をどう書いたらよいか、ずっと迷っていた。

ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」は、著者が書いていたブログを書籍としてまとめたものだ。ケイト・ザンブレノが感じている様々な日々の生きづらさがそこには記されている。

2009年に“Undoing the Novel”コンテストで出版社に見出され、小説家としてデビューしたケイト・ザンブレノは、夫の仕事の関係でロンドン、シカゴ、ニューヨークと生活の場所を変えながら執筆活動を続けてきた。作家・ライターとしての仕事はそれほど多くないため、夫の赴任先で仕事を探すことになる。だが、ここでひとつの問題が彼女の職探しのハードルとなる。

2009年にオハイオ州アクロンという町で暮らすことになった。彼女は、町の大学に職を求めるが英文科の科長から「あなたは文学を教える資格を満たしていない」と言われる。女性文学を教えるのは男性教授であり、彼女が博士号を持っていないからだ。結局、彼女は「女性学入門」という講座を教える仕事につくが、出席している学生はみな一様に退屈そうで授業には興味を示さない。学内の『多様性』のための必修科目だからという理由だけで学生たちは教室に集まっているのだ。

このように、ケイト・ザンブレノは夫の赴任先で職探しをするたびに、女性であることの生きづらさを感じ続けることになる。そして、彼女自身をモダニズム文学作家たち(スコット・フィッツジェラルド、T.S.エリオットたち)と彼らに従順を求められ存在を歪められてきた妻たち(ゼルダやヴィヴィアン)やヴァージニア・ウルフジーン・リースといった作家たちの生きづらさを自らと重ね、彼女たちの苦悩をブログに記していく。

本書で著者が記しているゼルダやヴィヴィアンたちの苦悩は、当時の時代背景であったり、女性に対する偏見によるところが大きい。スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダは、彼女自身も優秀な書き手であり、スコットを凌ぐ才能をもって書かれた作品もある。

女性が自らの体験であったり、自らの考えを文学として書き記すと世間からは狂人扱いされる。実際にゼルダも精神病院に入院させられ、精神の安定を図る治療のためとして書くことを禁じられる。自らの言葉で発信することは女性に求められた役割ではないからだ。男性の視点では、女性には『妻であり母であること』がもっとも大切な役割であり、夫や家族に従順であることが求められるのだ。

著者は、本書の中で自らの苦悩と抑圧された彼女たちを引き合いにして、女性が置かれている立場、求められている役割の理不尽さを追求しているのだと、私は読んでいて感じていた。

私は男性なので、本書で著者が記している女性の生きづらさや苦悩に完全に共感できるわけではない。読んでいて、著者がずいぶんと病んでいると感じるところもあった。

自ら発信し表現する女性を一方的に狂人扱いするような時代が正しかったとは思わない。ゼルダやヴィヴィアンが迫害(あえてこの言葉で書いておく)されていたという事実は、少なからず衝撃であった。しかし、時代が経過した現代においても、そこまで極端な女性蔑視はないと思うが(少なくともそう信じたい)、女性が女性として活動するにはまだまだ不十分な社会環境があることも事実だと思う。

今の時代、女性は自由に書くことができているだろうか。そのひとつの答えをケイト・ザンブレノは本書の締めくくりとしてこう書いている。

私たちの物語が伝わる方法はただひとつ、私たちが自分で書くことだ。とにかくあなた自身が、あなたを書かなければいけない。

表現し続けることで得られるものは、きっと大きい。