タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー/大作道子訳「わたしがいどんだ戦い 1939年」(評論社)-障がいがあることを心のハンデキャップにしてはいけないのだと知ることで、少女は自分との戦いに勝ったのだと思う。

 

 

昨年(2017年)、劇場でクリストファー・ノーラン監督「ダンケルクを観た。ドイツ軍の攻勢により、ダンケルクまで追い詰められた英仏軍約40万人を救出する『ダイナモ作戦』と呼ばれる壮絶な救出作戦を描いた映画だ。

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なぜ、「ダンケルク」の話から始めたのかというと、本書「わたしがいどんだ戦い 1939年」の中にダンケルクの撤退作戦に関する場面が出てきたからだ。ドイツ軍の容赦ない攻撃をかいくぐり、兵士たちは傷を受け、瀕死の状態で運ばれてくる。阿鼻叫喚の地獄絵の中で、エイダは戦争の悲惨さと自分自身が何かの役に立つことを知る。物語全体の中では短いエピソードなのだけれど、ここからエイダの本当の戦いが、彼女の戦うことへの覚悟が生まれたように感じられる場面だった。

足が不自由で、母親に虐げられ、外に出ることも許されずに部屋の窓から外を見ることしかできない少女・エイダ。弟・ジェイミーとの繋がりだけを唯一の希望にして、彼女は生きてきた。ときに弟を束縛し、わがままを通そうとするのも、すべてジェイミーという自分と社会と結ぶ存在を失いなくないからだ。

ただ、読んでいる最中はずっと、エイダの悲しく歪んでしまった心と、その心から生まれる不遜でわがままな態度に、少なからず腹が立っていた。疎開してきたエイダとジェイミーを受け入れ、世話を焼いてくれるスーザンに対しても、エイダは絶望をたたえた目で見つめ返す。まるで、自分以外の人間、大人たちはみな敵であるかのような態度で接する。そんな素直さのない少女の姿は、同情を覚えるとともにそれ以上の偏見を持たされた。

本書を読み終えて、改めて考えれば、エイダの心の葛藤がよくわかる。彼女にとって大人とは、信じたいと願う存在なのだ。だけど、大人は常に彼女の願望を裏切ってきた。一番の元凶は母親だ。エイダの不自由な足を奇形と決めつけ、彼女を人目に晒さないように部屋の中に閉じ込めた。なぜ、母親がそれほどまでにエイダを嫌ったのか。その真相は物語の終盤で明らかにされる。それは、母親にとっても女性としての幸福を失わされた心の傷だったのであろう。だが、自分が不幸だからといって子どもに不幸を被せることはあってはならない。

そうした大人たちの偏見を受けて育ってきた少女が、違う大人たちの優しさを知り、少しずつ自分を解放していく。そのプロセスが後半の読みどころだと思う。

エイダの心の枷を解きほぐす大きな役割を果たしたのは、スーザンやポニーのバター、馬を通じて親交を深めたマギーやフレッドの存在が大きいが、それと同じくらいに重要な存在がスティーヴンではないだろうか。家族が全員ロンドンに戻っても、一緒に暮らす大佐のためにひとり残った少年の存在は、エイダにとっての憧れであったに違いない。そう考えるのは深読みがすぎるだろうか。

物語のラストに関しては、その終わらせ方に読者の意見が別れるかもしれない。ハッピーエンドであることは間違いないのだが。これについては、他の読者がどう感じたのか知りたいところだ。私は、ハッピーエンドなのだけれど、ちょっとした後味の悪さも感じられた。

「わたしがいどんだ戦い 1939年」には、いろいろな要素がつまっている。

戦争の無意味さと恐怖
障がいをもつ者への理解
自分をみつめ、強く生きることの大切さ
人とは違う自分を誇れる勇気
相手を信頼し愛することの大切さ

どれも当たり前のことなのに、できていないことばかりだ。本書に出てくるエイダも、ジェイミーも、スーザンも、そして彼女たちを取り巻くすべての人たちも、さらにいえば私たち読者も、本書に書き込まれたこういう当たり前をはっきりとわかっていない。それでも、物語が少しずつ進んでいく中で、登場人物たちが成長していくように、私たち読者も成長していく。そんな想いを抱かせてくれる作品なのだと感じた。

 【追記】
本書は、やまねこ翻訳クラブが選ぶ『第20回やまねこ賞』の読み物部門第1位を獲得しました。

www.yamaneko.org

また、本書を課題本として2018年1月27日に『やまねこ20周年記念読書会』が開催されるそうです。

yamaneko20.jimdo.com

参加受付は先着順とのことなので、ご興味ある方はぜひ!