ガタガタ書評ブログ

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宮田昇「昭和の翻訳出版事件簿」(創元社)-戦前、戦中、そして戦後。長く日本の翻訳出版に携わってきた著者が記す様々な事件に興味が尽きない

日本の出版界は、海外作品の翻訳に対する守備範囲が広いと思う。小説についてみれば、メインは英語圏の作品になるだろうが、非英語圏(アジア、南米、北欧その他ヨーロッパ諸国、アフリカ)の作品もかなり積極的に翻訳出版されている。

幅広い国や地域、ジャンルの作品が翻訳出版される日本だが、過去には国内、海外で様々な翻訳出版トラブルを起こしてきた。戦前から戦後の昭和期に起きた日本の翻訳出版事件をリアルタイムに経験してきた宮田昇氏が書き記したのが本書「昭和の翻訳出版事件簿」である。

 

著者の宮田氏は、1928年生まれというから今年(2017年)で89歳になる。早川書房編集者として「グレアム・グリーン全集」の刊行や、現在も続く「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の立ち上げなどに関わってきた。その後、海外著作権エージェント会社であるチャールズ・E・タトル商会で海外著作権契約等の業務にあたってきたという経歴の持ち主だ。

長く翻訳出版の仕事に携わってきた宮田氏が経験してきた事件の数々は、日本の翻訳出版の歴史そのものといってよい。

日本では戦前から海外小説の翻訳出版が盛んに行われていた。しかし、それらの翻訳は『翻訳権の10年留保』という制度により著作物が最初に発行されてから10年以内に翻訳物が刊行されなかった作品については翻訳権が消失するとされていた。1971年に現在の著作権法が施行されるまで、この制度が有効であったため「原著書が出版されてから10年経過したら翻訳出版する」という形で翻訳権を取得せずに自由に翻訳出版していたという。これが、様々な事件を引き起こす要因のひとつとなっていたようだ。昭和24年に日本出版協会海外課が出した公式見解にも、

我々日本人は外国人と違いどうも“権利”というものに対する観念が非常に稀薄であり戦前に於て翻訳書を発行する場合ちゃんと原著作権者から許可を得ていた例がはなはだ少ない状態であります。

とある。

本書で語られている事件の数々は、そうした翻訳権に対する意識の薄さから起きた問題である。

戦前、10年留保制度による自由な翻訳出版(宮田氏は「無断翻訳伝説」の題している)を繰り返していたことで、その実情に目をつけたプラーゲという人物が出版社に対して翻訳権の侵害を騒ぎ立て、高額な使用料を要求するという事件が起きていた。

戦争が終わりGHQによる占領統治が始まると、GHQ(主にアメリカ)の意向により厳しい著作権要求が突きつけられ、法外とも言える著作権印税の高騰へとつながっていくことになる。

GHQによる不当な著作権の締め付けは、サンフランシスコ講和条約の締結により日本が独立を果たしたことで解消されるが、戦前からの無断翻訳の歴史から日本の著作権保護に対する海外の目は厳しいものがあったようだ。本書では、昭和30年代初頭に白水社社長・草野貞之氏がタトル商会に宮田氏を訪ねてきたときのエピソードに当時の状況を記している。白水社チボー家の人々の翻訳出版を戦前から手がけていて、キチンと翻訳権も取得し印税も支払っていた。戦争という混乱はあったもののその契約は継続されているものと考えていた。しかし、GHQから翻訳権を侵害していると指摘を受けてしまう。結局、新しい内容で再契約を結ぶこととなった。草野氏はそうした苦い経験から宮田氏に契約の重要性を話してくれたのだという。

日本の出版社は、いままで海外の著作権をきちんと保護してきた。にもかかわらず、著作権保護に欠けているとして、海外側の不当な要求をのまされる例が多い。だが、出版社は海外の著作権の侵害などしていない、それを念頭に、適正な契約を結ぶように。

その他、児童向け翻訳作品に関する完訳と翻案の話や、本文の著作権と挿絵の著作権の違いによるトラブルなど、翻訳出版に関する先達たちの苦労があって、今わたしたちは海外文学を日本語で読めるようになったのだと教えられた1冊だった。

権利関係に無頓着なまま、自由に外国の作品をみつけてきては勝手に翻訳し、場合によっては登場人物やストーリーを書き換えたりして出版する。おおらかと言えばおおらかな時代なのだろうが、著作者の権利は正しく守られなければいけないわけで、本書に書かれたような様々な事件を通じて、日本の出版社、編集者はひとつずつ権利に関する知識と経験を蓄積していったのだと思う。様々な権利関係の法律や条約が整備されてきたことで、現在の翻訳出版ではここまで大きな事件は起きないのかもしれない。私たち読者としては、権利関係のトラブルで作品が読めなくなってしまうのは困る。大変な仕事ではあるだろうが、翻訳出版に携わる方々には契約管理を適正に行っていただきたいなと思う。