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【書評】ハン・ガン/井出俊作訳「少年が来る」(クオン)-韓国民主化のきっかけとなった光州事件を題材とした一冊。この作品を読むには強い覚悟が必要だ。

少年が来る (新しい韓国の文学)

少年が来る (新しい韓国の文学)

 

 

「菜食主義者」で韓国人初の「マン・ブッカー賞」を受賞したハン・ガンが、自らの故郷でもある光州で起きた『光州事件』を題材に書き上げたのが、本書「少年が来る」である。「菜食主義者」は、読んで衝撃を受けた作品であったが、本書はそれ以上の衝撃を受ける作品である。

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本書を語るには、まず『光州事件』を知る必要がある。1979年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(朴槿恵(パク・クネ)現大統領の父)が暗殺されたことで、それまで続いていた軍事独裁政権が終了した韓国だが、当時陸軍少将であった全斗煥(チョン・ドファン)が軍の実権を握ったことで市民の危機感は増していく。1980年には戒厳令が布告され、民主化運動の中心にいた有力者たちも次々と逮捕される。そんな中、光州市では学生運動が激化、さらに市民も加わって民主化を求めるデモは拡大していく。デモの鎮圧に導入された軍は集まった市民に向かって発砲。多くの死傷者を出すことになる。この1980年5月17日から5月27日にかけて行われた大規模な軍と市民との衝突が『光州事件』である。

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私は、本書を読むまで光州事件について何も知らなかった。韓国が、かつて軍事政権にあり、様々な紆余曲折を経て現在の民主国家へ変わっていったということは、なんとなくわかっているつもりだった。しかし、これほどに大規模な衝突事件があり、多くの死傷者が出たことは知らなかった。

「少年が来る」は、全6章で構成される長編小説である。それぞれの章は、光州事件に関わった人たちのエピソードで構成される。

「第1章 幼い鳥」は、死体安置所で身内の遺体を探す遺族のサポートをしている高校生の視点で描かれる。死体安置所に並んだ遺体は腐敗が進み悪臭を放つ。遺体には、銃剣で刺された傷跡や棍棒で殴られた跡があり、軍による市民への攻撃が容赦のないものであったことを伺わせる。静謐な安置所という場所に並べられた物言わぬ遺体は、事件の異常さを表わしているようだ。身内の遺体を探す遺族の中で、少年は淡々としているように思える。だが、彼自身も混乱の中で離れ離れになった親友チョンデの行方を気にかけている。そのチョンデについて描かれているのが「第2章 黒い吐息」だ。それは、死者の視点である。

光州事件では、民主化運動を扇動したとされる学生や市民が数多く逮捕、拘禁された。彼らは、拷問に晒され、過酷な拘禁生活を余儀なくされた。軍による支配を否定し民主化を推進する思想を煽るような出版物には徹底した検閲が施され、思想活動家を隠匿していると疑惑を持たれた出版社や編集者に対して拷問を含む苛烈な事情聴取が行われた(「第3章 七つのビンタ」)。

民主化運動に関わったとして逮捕、拘禁された学生や市民への拷問は、それ以上に苛烈を極めた。ボールペンを指の間に挟んで痛めつける。肉が破れ、指の白い骨が見えるほどに責めつけられる。食事は一握りの飯とわずかに具の浮いた汁と少しばかりのキムチ。その少ない食事をふたりの受刑者が分け合う。高まる飢餓感はやがて、同志であるはずのふたりに互いが猜疑心に満ちた眼で見るように変えていく(「第4章 鉄と血」)。

事件は、生き残った者、そして犠牲となった者の遺族に暗い影を落とす。事件が収束した後、長い歳月が過ぎ去ってもなお、事件に巻き込まれたことで受けた深い心の傷は癒えることはなく、生き残った者はあの日のことを語る言葉を簡単には取り戻せない。悪夢にうなされ、生き残ったことに罪悪を感じる(「第5章 夜の瞳」)。

まだ幼いと言ってもよいほどの息子を失った母親は、あの日、軍が攻撃を加えるあの場所に取り残された我が子を無理にでも連れ帰らなかったことで、その後の人生を悔恨と自責の中で生きることになる。末っ子である彼の、まだ子どもの頃の思い出ばかりが思い浮かぶが、それは永遠に思い出でしかない。小さな写真を見つめ、母は時折息子に語りかける。母の胸の中で息子は語りかけてくる。母ちゃん、もっと明るいところへ行こうよ。あっちにはお花がたくさん咲いているよ(「第6章 花が咲いている方に」)

1行ずつ読み進めていくごとに、ページをめくるごとに、飛び込んでくるのは胸を抉るような事件の記憶だ。小説としての表現にはなっていても、そこには生々しい傷跡がはっきりと感じ取れる。読んでいて辛くなる。でも、読まずにはいられないし、読まなければならないのだと感じる。残酷な場面、凄惨な場面、悲壮な場面では、もうこれ以上読めないという思いになる。だから、本書を読むには「これは現実なのだ」と覚悟を決め、現実を直視する勇気を持たなければならない。この作品を読み通すには、強い覚悟が必要なのだ。

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)