ガタガタ書評ブログ

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【書評】J・M・クッツェー/鴻巣友季子訳「イエスの幼子時代」(早川書房)-その幼子を無垢と呼ぶなかれ。か弱き幼子はいつかこの世界を動かすであろう。

イエスの幼子時代

イエスの幼子時代

 

 

子どもはいつでも好奇心に溢れているものだ。

「どうして○○なの?」
「なんで□□しなきゃいけないの?」

無邪気だ、無垢だ、と微笑ましく思う反面、答えに窮する質問を投げかけられて困惑することもあるだろう。

クッツェー「イエスの幼子時代」に登場するダビードも、そんな“なぜなぜ少年”だ。だけど、この物語では、ただのわがままボーイではない。なぜなら彼は“イエス”なのだ。

 

移民としてこの国に流れ着いた初老に近い中年男のシモンとまだ幼いダビード。ふたりは親子ではないが、ともに寄り添って暮らしている。シモンは、港で船荷を積み下ろす肉体労働の職を得ると、ダビードの母親を探し始める。ある日、〈ラ・レジデンシア〉という屋敷の近くに迷い込んだふたりは、その屋敷のテニスコートにひとりの女性の姿を見つける。シモンは、その若い女性・イネスこそがダビードの母親であると確信し、彼女にそう告げる。もちろん、イネスはダビードの実の母親ではない。だが、なぜかイネスはダビードの母となることを受け入れ、ダビードと暮らすことになり、シモンはふたりと離れる。そしてここから、なんとも奇妙な“親子”の関係がはじまっていく。

何事につけて理屈っぽく哲学的な思想を振りまくシモンと、母親としての盲目的な愛情と感情的な行動によってシモンを困惑させるイネス、そして賢く聡明でありながら「なぜなぜ」を繰り返し自らの世界を築き上げて大人たちをイラつかせ、困惑させる少年ダビード。彼らの関係においては、シモンが常識であり、イネスとダビードは非常識である。しかし、そういう画一的な見方が本当に正しいのだろうかと、読み進めていくうちに胸の奥底から疑念が湧き上がってくる。実は、シモンこそが非常識な人間であり、自分の気持ちを優先して、そのために生きているイネスやダビードこそが常識なのではないか。自分の本音を隠し、その理屈を積み上げることに汲々としているのは間違っているのではないか。そう問いかけられているような気がしてくる。

「イエスの幼子時代」は、タイトルが示すようにキリスト教との関連性を思わせる。私は、キリスト教の信者ではないし聖書も読んだことはない。なので、本書がどの程度までキリスト教に関わっているのかはわからないが、登場人物の名前であったり、物語の中で語られる彼らのエピソードにもキリスト教や聖書に関わるところがあるのかもしれない。

もっとも、そうした宗教的な面を意識しなくても、本書は問題なく読めるし楽しめる。先述したような哲学的な思索に至らずとも、ひとりのわがままな少年に振り回される大人たちの奮闘ぶりを面白おかしく、ときにクスリと笑いながら、ときにやれやれと肩をすくめながら、ときに子どもに甘い大人たちに苛立ちながら、先へ先へと物語を読み進めていけばそれで良い。エンタメ小説と割り切り事で見えてくる面白さも、本書は持ち合わせている。

さて、本書では小学校に入学したものの、その性格と行動から学校の持て余し児童となったダビードを問題生徒を集めた寄宿学校へ送る話が持ち上がる。息子に対する狂信的な愛情を注ぐイネスはダビードを学校に入れることに猛反対し、シモンと合わせて3人とボリバルという犬とで北へ向かって逃亡を始める。途中、フアンと名乗るヒッチハイカーを拾って4人と1匹になった一行は一路エストレリータを目指して車を走らせていく。その場面で本書は終わりを告げる。

北へ向けて旅をする彼らの運命はこれからどうなるのか。ダビードはこのままの性格で成長していくのか。それとも、成長するにしたがって大人の分別を身につけるようになっていくのか。彼らの未来は、続編とされる「イエスの学校時代」に書き継がれるようである。