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【書評】山下澄人「しんせかい」(新潮社)-《第156回芥川賞受賞作》著者が学んだ『富良野塾』での日々を題材にした人間ドラマでありつつ、山下澄人の世界がそこにある

しんせかい

しんせかい

 
しんせかい

しんせかい

 

 

第156回芥川賞を受賞した山下澄人「しんせかい」を読む。選考会(1/19(木))の直前に「もしかしたら」と予感がして、入手していたのだ。予感があたって良かった。

 

「しんせかい」は、著者自身が学んだ脚本家倉本聰主催の『富良野塾』を題材とした自伝的作品である。物語は、主人公の“ぼく”(山下澄人:スミト)が、船で北海道に向かう場面から始まり、【谷】という学び舎での1年を描いている。【谷】を開いたのは、テレビドラマや映画の脚本家として知られる【先生】だ。【先生】は、私財をなげうって【谷】を開き、俳優志望や脚本家志望の若者たちを集めて教えている。生徒たちは、【谷】に建てられた施設で合宿生活をしながら、それぞれの夢に向かって学ぶ。自分たちが生活する場所を作り、自活のために近所の農家の作業を手伝って農産物を分けてもらって生活する。“ぼく”は、【谷】の二期生として【谷】に暮らす。

過去に、「緑のさる」、「ギッちょん」、「砂漠ダンス」といった山下澄人作品を読んできた。山下作品はかなり独特な印象を受ける作風で、読み進めるうちに頭の中がボワンと酔ったような気分になってくる。このポワンとした感じが山下作品を読む快感であり、個人的に、この感覚を『澄人酔い』と名付けているほどなのだが、今回の「しんせかい」では、最初の頃に『澄人酔い』の感覚がなく、とてもオーソドックスな青春小説を読んでいるような印象を受けた。

だが、繰り返し読んでみると、オーソドックスな中に紛れもない山下澄人のカラーが存在することがわかってくる。

山下作品は、時間の流れや場面の展開をひとつの文章の中で意図的に混在させていることがある。たとえば「ギッちょん」という作品では、主人公の年齢ごとの描写を明確に分けて書かずに、ひとつの文章の中に混在させて書いていた。子どもの頃について書いたセンテンスの直後に30歳の主人公のセンテンスを続けるといった流れでひとつの文章の中に複数の年代の話を書き連ねるのである。最初読者は、ひと流れの文章を普通に読み進める。だが、途中で違和感を覚える。改めて読み返してみる。そこで、ひとつの文章の中に複数の年代の話が混在していることに気づくのだ。その他、「砂漠ダンス」では同じ“タカハシ”という名前の異なる人物を混在させていた。

「しんせかい」では、「ギッちょん」や「砂漠ダンス」のような技巧は凝らされていないが、時間が唐突に経過するなどのスピーディーな転換が行われているところがあったりして、油断していると一瞬「今のなに?」と置いていかれそうになる。このあたりの場面展開は、演劇的なところなのかもしれない。

本書には、表題作の「しんせかい」の他に短編「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」が収録されている。「しんせかい」が、【谷】の二期生募集に応募して合格した“ぼく”が北海道の【谷】で暮らした1年を描いているのに対して、「率直に…」は、二期生募集の試験前日に新宿のホテルに宿泊した主人公の一夜を描いている。関西から上京して新宿のホテルに宿泊した主人公は、窓から見えた歌舞伎町の明かりに誘われるように街を歩き、自殺志願のホームレスに出会う。「しんせかい」に比べると、「率直に…」は私が知っている山下澄人の世界だ。主人公がさまよう街は、新宿であるが新宿ではない架空の街のようでもある。それは、主人公は関西から初めて上京して土地に不案内であるということが影響している。この場所に対する不安感と主人公の不安定さが、この短編全体を曖昧な世界に変換し、読者を惑わせるのだ。

すべての山下作品を読んだわけではないので確実なことは言えないけれど、「しんせかい」は著者の作品の中ではだいぶつかみやすい作品だと思う。と同時に、「しんせかい」では物足りないと感じる読者には「率直…」が用意されているので、初めて山下澄人に触れる読者もコアな読者も楽しめるのではないかと思う。

緑のさる

緑のさる

 
ギッちょん

ギッちょん

 
砂漠ダンス

砂漠ダンス

 
砂漠ダンス

砂漠ダンス

 
鳥の会議

鳥の会議

 
壁抜けの谷

壁抜けの谷

 
壁抜けの谷

壁抜けの谷

 
ルンタ

ルンタ

 
ルンタ

ルンタ

 
コルバトントリ

コルバトントリ