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ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

【書評】梯久美子「狂うひと−『死の棘』の妻・島尾ミホ」(新潮社)−狂う妻と記録する夫。そのいびつな関係から立ちのぼる狂気と愛の形

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

 

 

島尾敏雄「死の棘」は、夫の日記を読んで不貞の事実を知った妻がどんどんと狂気の底へと落ちていき、家族が崩壊していく様を描いた長編小説である。島尾敏雄が、妻のミホを題材にして描き出した『私小説』であり、第29回読売文学賞を受賞した。

「死の棘」に描かれる夫婦の姿は狂気に満ちている。ある日、夫・島尾敏雄の留守中に彼の日記を読んだ妻・ミホは、そこに敏雄が不倫をしていたことを示す記述を見つけて錯乱する。愛人との関係を夫に糾弾し、詰り、暴力を振るう。これは、島尾夫婦に現実に起きたことを赤裸々に記した夫婦の記録なのである。

 

本書は、「死の棘」に描かれる精神を崩壊させていく妻・ミホを中心に、島尾敏雄とミホとの関係、「死の棘」に描かれた夫婦の姿とそれに関わってきた周囲の人々の証言などを積み上げた圧倒的なノンフィクションである。

本を手に取り表紙を開く。目次を過ぎると『序章 「死の棘」の妻の場合』と題する章の扉ページがある。そこには古びた1枚の紙片の写真が掲載されている。

至上命令
敏雄は事の如何を
問わずミホの命令に
一生涯服従す
如何なることがあっても厳守する
但し病気のことに関しては石に相談する
              敏雄
ミホ殿

昭和29年(1954年)に、夫の日記を見て精神に異常をきたしたミホは、翌30年(1955年)に千葉県市川市にあった国府台病院に入院する。敏雄は同じ病棟に暮らし、ミホの世話をした。その入院中にミホのために敏雄が書いた誓約書がこれである。敏雄の署名の下には血判が押されているという。この誓約書をもってしても、夫婦の異常な形が伝わってくる。

著者は、島尾ミホの半生を本にするために彼女が暮らす奄美を訪れた。ミホに会い、インタビューをした。快活に応じてくれていたミホだったが、わずか半月後には取材中止を求める連絡が入り、彼女への取材はそこで中止となる。そして、それから1年後に島尾ミホは亡くなる。遺品整理に同行した著者は、ミホが残した膨大な資料の中から、1枚の紙片に目を留める。それが、序章の扉に掲載された誓約書なのである。

「死の棘」は、自らの不貞で妻の心を傷つけてしまった夫が、妻からの様々な仕打ちを受け止め懸命に尽くそうとする姿を描いた作品とされる。だが、著者は取材を進めていく中で島尾夫妻の間にはいびつな関係性があることを知る。そもそも、ミホが敏雄の日記を読んでしまったのは偶然なのか。島尾の戦友であり作家仲間でもある眞鍋呉夫氏へのインタビューで著者はこんな証言を得る。

(略)話が『死の棘』の時代に至ったとき、眞鍋は、島尾はミホが日記を見るであろうことがわかっていて、彼女にとって衝撃的なことをあえて書いた可能性があると言った。

「何のために?」と問い返す著者に、眞鍋は島尾が過去にも下宿先の若い女中の反応を観るために思わせぶりなことを日記に書いて、わざと目につくように置いてみたりしていたという。

また、島尾の書いた日記を読んでみると、温泉に宿泊したときの記述にずいぶんと思わしげな内容のものが見つかる、これも、温泉宿の仲居にわざと見せつけるために書かれたように思える。つまり、ミホが読んだ日記は、島尾がわざと彼女が読んでしまうように書かれ、目につくように《開かれた》状態で置かれていたのではないか。そして、そこに書かれていた運命の十七文字がミホの心を打ちのめしたのではないか。

確証があるわけではない。本書でも、これが事実であると結論づけているわけではない。だが、島尾敏雄私小説作家であるということ。自らの体験を描く私小説作家にとって、精神を病んだ妻との暮らしは格好の題材となりうること。そうした状況証拠だけをもってしても、島尾が作品のためにミホを追い詰めたと考えることもできてしまうように思う。

「死の棘」に記される夫婦の記録は、ミホが国府台病院の精神科に入院する前までである。島尾敏雄とミホの闘いはここからさらに続いていく。入院生活をしばらく続けたのち、島尾家はミホの故郷に近い奄美に移住する。ミホの精神状態は変わらず不安定なままで、敏雄は常にミホの顔色をうかがいながら、ミホを中心に生活することになる。敏雄は、ミホという存在にがんじがらめになっていくのだ。

島尾敏雄とミホ。この夫婦は、果たして幸せな関係だったのだろうか。本書を読んでいく中で、常に胸に渦巻いていたのは、そのことばかりであった。腫れ物に触るようにミホに大事に接してきた敏雄の姿は、家庭の事情を知らぬ第三者からすると羨ましいくらいに夫婦仲の良いおしどり夫婦として見られたかもしれない。本書にも、女性たちが口を揃えて敏雄のミホを大事にする姿を絶賛していたことが書かれている。だが、常に緊張感を強いられるミホとの生活の中で、敏雄は少しずつ鬱を患うようになり、やがてそれは彼の身体を蝕んでいく。

では、最終的に敏雄を追い詰めていくことになるミホは悪妻なのか。それも違うように思う。先述の通り、もし島尾がミホの崩壊する様を小説の題材にしようとしていたのなら、ミホは「死の棘」の犠牲となった不幸な妻である。しかし、彼女が島尾を責め苛み、島尾を追い込んでいったことも事実であるならば、島尾ミホという女性の存在をどう解釈すべきかは難しい問題になる。

島尾敏雄もミホもすでに鬼籍に入っている今、彼らの本心を直接知る術はない。残された者にできるのは、ふたりは残した小説、日記、些細な記録の数々などから、彼らの思いを読み解くことだけだろう。著者がその任を担い、膨大な資料を読み、多くの関係者と会い、綿密に取材を重ねてできあがった本書には著者のパワーだけではなく、島尾敏雄島尾ミホの魂も込められているような気がする。

死の棘 (新潮文庫)

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