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【書評】鄭泳文「ある作為の世界」(書肆侃侃房)−あるがまま、見たままをただ書き綴る。ただそれだけが面白い

ある作為の世界

ある作為の世界

 

鄭泳文(チョン・ヨンムン)による本書「ある作為の世界」は、彼が大山文化財団という団体の支援を受けて2010年春から夏にかけてサンフランシスコに滞在したときに執筆されたと「序文」の著者の言葉にある。そこには、次のようなことが書かれている。

 

 

僕はこの都市に滞在してできるだけ多くのことを見て、聞いて、感じて、体験しようなどとはしなかった。特に見て聞いて感じて経験したいことがなかったからである。ただ見えるがまま見、聞こえるままに聞き、感じられた通りに感じ、やむを得ず体験したままをそのまま綴ったことになる。いや、むしろ見えるがままに見ず聞こえるままに聞かず、感じられるままに感じようとせず、体験した通りを受け入れないことにした話だ。
 
小説に、物語性であったり作家の思想や心情の発露を求めるタイプの読者には、著者が語る本書のコンセプトは、にわかには受け入れ難いだろう。読んでいてモヤモヤしイライラしてくるかもしれない。
 
本書には、17編の短編が収録されている。一応、便宜的に「短編」と書くが、その内容は序文で著者が述べているように、ただ彼が見て聞いて感じたことがそのまま表現されているだけでストーリー的なものはない。また、17編は著者のサンフランシスコ滞在記録としてつながっているが、例えば連絡短編のような意味合いは存在しない。
 
「なら、この本は何が面白いのか」
 
多くの読者はそういう疑問を持つだろう。私は、個人的にこういう全体的にまとまりもなく、意味も希薄な作品というのが嫌いではないので、全編を興味深く読んだのだがが、たぶんそういう人はまれだと思う。たいていは、序文を読んだところで意味がわからずに投げ出すだろうし、頑張って読み始めても最初に収録されている「テキーラを飲みつつサボテンを狙い打って過ごした時間」を読んだところで、本のページをパタリと閉じて、書棚の奥へとしまいこみ二度と日の目を見ることはないだろう。
 
しかし、そのハードルを乗り越えて、次の短編またその次の短編と読んでいくと、次第にこの作品に取り憑かれていく。いつしか、作品の中に自分なりの物語性を見い出すようになり、いつしか、著者に共感できるポイントを見つけ出そうとするようになる。そして、気づけば自分が著者と一体化して、まるで自分が作中の出来事を体験しているような心持ちになる。
 
読んでいて、何度か途中で投げ出そうかと思った。と同時に先が気になって読むことをやめられなかった。
 
ときどき、こうした読者の力量を試されるような作品にぶつかる時がある。本書はまさにそういう作品だ。