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【書評】米澤穂信「真実の十メートル手前」(東京創元社)-ミステリーが苦手になってしまったのか、この作品にシンクロできなかった自分がいる

 

真実の10メートル手前

真実の10メートル手前

 
真実の10メートル手前

真実の10メートル手前

 

 

昔、小説というものを読み始めて、まだ日が浅い頃には読書の中心はミステリーがメインだった。というのも、ご多分に漏れず子どもの頃の読書体験は、学校の図書室に並んでいた「シャーロック・ホームズシリーズ」であり、「アルセーヌ・ルパンシリーズ」であり、「少年探偵団シリーズ」であったからだ。少年少女向けのミステリーシリーズを発端として、やがて中学生くらいになってくると、江戸川乱歩横溝正史高木彬光へと流れ、そこから赤川次郎や西村京太郎へと移行していく。

それが、いつの間にかミステリーを読まなくなっていった。まったく読まないわけではない。国内作家であれば、島田荘司綾辻行人森博嗣などノベルス中心の新本格も多少読んだし、面白かった作品もある。

 

だが今回、米澤穂信「真実の10メートル手前」を読んでみたら、なぜだか心に残るものがなくなっていたのだ。

読んでいる間は楽しめたのだと思う。途中で投げ出したくなるようなこともなく、けっこう集中して読めていたはずだ。なのに、読み終えて本のページを閉じた時に、自分が何を読んできたのかという作品への印象がまったくといっていいほど残っていなかった。

本書は、フリーの事件記者である大刀洗万智を探偵役とするミステリー短編集である。事件記者を探偵役としているので事件は起きる。表題作になっている「真実の10メートル手前」は、時代の寵児と呼ばれたベンチャー企業社長の兄の元で“美人広報”として表舞台に立ち、会社の凋落によって居場所を失った若い女性の失踪事件を扱っているし、「恋累心中」では、高校生カップルの心中事件の真相に迫る。その他、「正義漢」、「名を刻む死」、「ナイフを失われた思い出の中に」、「綱渡りの成功例」と全6編の短編が収録されている。

各話の中で、大刀洗万智は探偵役として登場する。といっても、彼女自身が事件に巻き込まれる(たとえば容疑者扱いされるとか、目の前で誰かが殺されるとか)というわけではない。彼女の職業は記者なので、すでに起こっている事件を取材する中で、彼女の鋭い観察眼と行動力から事件の真相に迫るという構成だ。そして、各話で彼女の活躍を語るのは、その時々に行動をともにする同僚の記者や事件の目撃者、知り合いの外国人である。そういう意味では、《大刀洗万智=シャーロック・ホームズ》であり、《彼女と行動をともにする各登場人物=ワトソン》というパターンにはまった構成ということだ。

各作品の内容や感想にはできるだけ触れないまま、だいぶ文字数を稼いだので、また話を「ミステリーが苦手になった」に戻そう。

本書の著者である米澤穂信は、2年連続で年末のミステリーランキング1位を獲得したり、本書を含め過去に数回直木賞候補にもあげられるなど若手作家の中でも抜きん出た存在である。そういう意味では作品に対する評価も高いし、人気もある作家なのだ。なのであるから、米澤穂信の作品は面白いはずなのである。

でありながら、先に書いたように私は本書を読み終えても心に残るものがなかった。余韻すら感じられなかった。

私は、基本的に作家や作品を悪しく評価することはしたくないと考えている。なぜなら、作品を読んで得た印象や感想は、作家や作品が与えるものではなく、読み手である自分の中から湧き上がってくるものだと思うからだ。作品の送り手である作家は、読み手である私たちを知らない。逆に、私たちは様々なメディアなどを通じて作家を知っているし、作品を読んでいる。その関係性の中では、作家の側が読者を選ぶことができないので、作家や作品に対する印象や感想は読者の一方的な思い込みでしかない。であれば、その作品を楽しめなかったのは読み手の側に多くの責任があるんだろうと、私は考えている。

米澤穂信「真実の10メートル手前」に関しても、私が読み手として印象に残せず、余韻も残らなかったのは、私の側からみて、この作品と自分の気持ちがシンクロしなかったからなのだと思う。将来また、米澤穂信の作品を読んだなら、今度は違う印象を持てるかもしれないし、それを期待したい。

とにもかくにも、読書というものは奥が深いものである。