ガタガタ書評ブログ

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なぜだろう、今の私はここに書かれていることに強く共感しています-梶井基次郎「檸檬」

ふと思い立って、梶井基次郎の「檸檬」を読んでみました。

檸檬

檸檬

 

梶井基次郎の著作は、青空文庫などで無料で読むことができますので、ちょっと読んでみようかと思い立ったら、気軽にダウンロードして読むことができます。今回は、AmazonKindle版で入手しました。

梶井基次郎という作家も、この「檸檬」という作品も、とても有名で知らない人はいないのではないでしょうか。私は、確か中学生だったと思いますが、国語の教科書で「檸檬」を読んだと記憶しています。

今回、三十有余年の歳月を経て、久しぶりに「檸檬」を読もうと思い立ったのですが、そのことに特に明白な理由が存在するわけではありません。あえて言うならば、「檸檬」というタイトルを見た瞬間に、何かのスイッチが入ってしまったからということです。

「檸檬」は、梶井基次郎の晩年の作品です。晩年とはいえ、彼は32歳で早逝していますから、「檸檬」を書いたときの彼はまだ31歳なのです。

話が脱線してしまいますが、昔の人と今の人では時間の感覚といいますか、人生の時の概念といいますか、その成長の度合いに大きなギャップがあるように思います。それは、昔は現代のように医療も発達していなくて、寿命も今よりはるかに短いのが当たり前だったから、誰もが早く一人前になりたくて、短い人生を太く強く生きようとして、だから早く成長する必要があったのでしょう。そう考えると、今の時代、80年、90年、100年も生きられる時代になっていることは、果たして喜ぶべきことなのだろうか。そんな気にもさせられています。

話を「檸檬」に戻しましょう。

「檸檬」の主人公は、梶井基次郎自身です。

主人公は、『えたいの知れない不吉な塊』が終始自分の心を押さえつけているという感覚に囚われています。そのことで、焦燥感のような、嫌悪感のようなものを感じています。病(肺尖カタルや神経衰弱)や借金もありますが、何よりもその不吉な塊によって、何もかもを楽しめなくなっているのです。

主人公を惹きつけるのは、みすぼらしくて美しいもの。壊れかけた街であり、薄汚れた裏路地の煤けたような景色です。貧乏暮らしの彼は、友人宅を転々とする生活の中で、そういった街をさまよい歩くのです。

ある日、主人公は果物屋で檸檬をひとつ買い求めます。檸檬を手に、フラフラと街をさまよいます。そして、彼は丸善に入っていきます。美術書の棚の前にいき、棚から画本をとって眺め、そのまま目の前に置いてしまいます。そこでふと、持っていた檸檬を思い出すのです。彼は、積み上げた本の上に檸檬を置くと、そのまま丸善を後にします。彼の頭のなかでは、爆弾に見立てた檸檬が丸善の店内で大爆発を起こしている光景が浮かんでいます。

私は、「檸檬」を読み進めていくうちに、この主人公は私ではないか、と考え始めていました。もちろん、私は肺病を患っているわけではありませんし、神経衰弱でもありません。ですが、日々のストレスに圧倒され、夜に深い眠りをとることもできません。生活を圧迫することはありませんが、少なからぬ借金ももっています。

そしてなにより、「檸檬」の主人公が感じている不吉な塊を、私自身も抱えているのです。何かに追われているような焦燥と、生きることをはじめとするあらゆることへの嫌悪が、私の生活に深く入り込み、言いようのない不安を強くしているのです。

梶井基次郎は、若くして亡くなることで、彼が抱えていた不吉な塊から解放されました。しかし、《死》による解放は、正しい解放ではありません。梶井だって、もっと長くこの世に生をとどめておきたいと願い続けていたはずです。

ですが、《死》が究極の解決手段であることも事実として認識しなければなりません。もっと完璧な解決手段があるならば、人間は自ら命を断つなどという決断をする必要はないはずです。

今の生きづらい時代の中で、長く生きることが人生の苦しみになるのであれば、無理に長生きすることを考えることもないのではないか。そんなことまで考えたくなる「檸檬」の読後感です。