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子供から大人へ、成長の階段をあがるということ-川上未映子「あこがれ」

川上未映子「あこがれ」は、著者にとって4年振りとなる小説である。

あこがれ

あこがれ

 

物語は、麦彦という少年とヘガティーとあだ名された少女が主人公(語り部)となる2つの章から構成される。

「第1章 ミス・アイスサンドイッチ」は、小学4年生の麦彦の物語。介護が必要な祖母と、自宅をサロンとして何やらスピリチュアルな仕事をしている母親と暮らしている麦彦は、お小遣いを少し節約して、時々スーパーのサンドイッチ売り場でサンドイッチを買っている。麦彦がその売り場に通うのは、そこでサンドイッチを売っている女性に惹かれているからだ。彼は、その女性を《ミス・アイスサンドイッチ》と秘かに呼んでいた。

「第2章 苺ジャムから苺をひけば」は、ヘガティーが語り部となる。ヘガティーとは、麦彦がつけたあだ名だ。彼女のおならが紅茶の香りがしたから、「屁がティー」で《ヘガティー》である。ヘガティーは、映画評論家の父親とふたりで暮らしている。ある日、卒業制作の課題に取り組んでいる中で、彼女は偶然にネットの情報から自分に腹違いの姉がいることを知る。彼女は、麦彦やチグリス(これも麦彦がつけたあだ名。理由はツインテールにした髪の分け目がグネグネしててチグリス・ユーフラテス川を連想したから)、チグリスの姉に協力してもらって、父親の前妻の住所を調べる。

第1章、第2章ともに、少年や少女から見た大人の存在が描かれている。麦彦にとってのミス・アイスサンドイッチも、ヘガティーにとっての腹違いの姉とその母親(父親の前妻)も、本書のタイトルに示す「あこがれ」の存在である。

だが、まだ成長の途上にあって、幼さを抱えている彼らには、自分が相手に対して抱く気持ちの意味がうまく理解できていない。例えば、麦彦のミス・アイスサンドイッチへの思いは、あこがれであると同時に思春期に差し掛かった少年の初恋でもある。ヘガティーの姉たちに対する思いは、父親という男性への反抗と、小さい時に亡くなってしまった母親という存在へのあこがれである。

本書を3.11に関連付けて見るという考え方がある。著者自身は、様々なインタビューの中で、そのような見方を特に否定はしていない。

「『ヘヴン』を書いたのは作家になって3年目で、もっと目を見開き、死ぬ気で小説を書こうと思っていた」と振り返る。「でも震災後は、明日起きることは誰も知らない、人はいつ死ぬかを知らず、世の中では圧倒的に望まないことが多く起きるのだとよく考えるようになりました」と語る。(読売新聞記事より抜粋)

 

「あの震災で、私たちは大きく変わった。子どもたちにとっても、身体に刻みこまれた共有の記憶としてずっと残る出来事だと思う」(朝日新聞記事より抜粋)

 

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著者自身が否定していないのだから、わざわざ第三者たる一読者が否定するつもりはないが、この作品の内容として3.11の影響があるかといえば、それは多分ない。場面として、彼らが小学1年生のときに大きな地震があったことは触れられているが、そのことが彼らに何か生きる上での影響を与えているのかと問われれば、おそらくそのような影響はないという答えになる。

むしろ、本書には川上未映子自身の出産経験、子育て経験からくる子どもという存在への憧憬がある。そのことも、著者自身がインタビューで語っている。

「出産すれば、その感情は和らぐかと思ったけれど、さらに考えるようになった。だから、子どもたちのイノセント(無垢むく)で美しい時間を描きたいと思ったし、子どもたちが『みんな同じで違うんだ』と気づく瞬間を描きたかった」(読売新聞記事より抜粋)

大人になってみると、子どもの純粋さや無垢な部分が羨ましいと感じることがある。きっと、著者も自分が親となり、子どもの存在を強く意識するようになってみて、そのイノセントな存在に対してのあこがれを深めていたのではないだろうか。本書のタイトル「あこがれ」にこめられた意味には、子どもから見た大人へのあこがれと同時に、大人である著者あるいは私たち読者の子どもへのあこがれが含まれていると感じられた。