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ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

読めば《蛭子能収》のイメージが変わる、かもしれない-蛭子能収「ひとりぼっちを笑うな」

蛭子能収」について、世間ではどう評価されているのだろう。

私のイメージは、テレビによく出ていて、いつもヘラヘラしていて、ギャンブル好きでケチなおじさんくらいなものだ。

本書は、蛭子さんが自らの処世術というか世渡り術というか、そういうことを書いている。

本書によれば、蛭子さんはひとりでいることをこよなく愛しているようだ。というより、誰かと一緒にいることに苦痛のようなものを感じている。誰かにおもねったり、気を使ったりするのが苦手で、ひとりでいることの楽しさを満喫したいと考えている。

そして、自分の気持ちに正直に生きている。

蛭子さんは、番組収録前に共演者の楽屋に挨拶に行かない。
蛭子さんは、自分の楽屋に共演者が挨拶に来るのが苦手。
蛭子さんは、番組の打ち上げの席が苦手。
蛭子さんは、地方ロケで食事をするときも、地元のオススメ料理よりカレーやトンカツが食べたい。
蛭子さんは、思ったことをそのまま口にするので、過去にトラブルもあった。

本書は、蛭子能収という人を見る目を変えるかもしれない。

蛭子さんは、自分はノンポリという。つまり、生きていく上で自分自身の中に確固たるポリシーがあるわけではないというのだ。しかし、本書に書かれている蛭子さんの行動原理は、明確にポリシーであると思う。蛭子さんのポリシーは、次の記述から明らかとなる。

とにかく僕、蛭子能収は、誰かに束縛されたり、自由を脅かされることがなによりも大嫌い。誰もが自由に意見できる世の中こそが、一番いいと思っているから、人は、自由でいることが一番いいと思う。もっと言えば、自由であるべきだと思っている。

自由でいるために群れることを嫌い、グループに属することを避けるように意識してきたと蛭子さんは言う。

蛭子さんは、とにかくグループを嫌う。

団体客は横柄だ。
グループになってよいことなんて、ひとつもないんじゃないか。

さらに、蛭子さんは「友だち」の必要性、存在意義についても否定的である。

そもそも「友だち」って必要なのでしょうか?

と始まり、誰かと会話をしたり話をすることは否定しないが、「友だち」の必要性については疑問を抱いている。

おそらく、多くの人は「友だち」がいること。それも、大勢の「友だち」がいることに自分自身の存在意義、価値を見出している。“友だち100人できるかな?”というわけだ。FacebookやLINEで、大勢の「友だち」がいることがステータスになっている。そして、そういう「友だち」との繋がりを必死にキープしようとする。そういう風潮に対する蛭子さんの言葉は、実に辛辣に読める。

蛭子さんが、「友だち」の必要性に疑問を感じるのは、「友だち」がいるメリットが見いだせないからだ。それは、彼自身が、「誰かに悩みを相談して、「なるほど」と思ったことがほとんどない」からだ。

なるほど、蛭子さんは実に合理的な考え方をする。私たちは、悩み事を話す相手がいることをメリットだと感じている。たとえ有意義が回答を得られなかったとしても、話すことで満足できる場合がある。蛭子さんは、そういう関係性は求めていない。何かを投げかけれたら、それに見合った回答を投げ返してくれる。それが、蛭子さんの求める「友だち」なのである。

蛭子さんが唯一その存在を重く受け止めた相手は、亡くなった前の奥さんである。奥さんが亡くなったときの喪失感とその後に蛭子さんに訪れたそれまでに感じたことのない寂しさ。ひとりぼっちでいることを愛していた蛭子さんが、本当の意味でのひとりぼっちの意味を知る。

奥さんの死という喪失が、蛭子さんにもたらしたものを大きかったに違いない。

前妻の死後、再婚した蛭子さんは、今やテレビで引っ張りだこの人気タレントとなっている。テレビに映る蛭子さんは、相変わらずヘラヘラしていて、周りの空気に無頓着で、時折辛辣な毒を吐いている。そして、そんな蛭子さんの自然体な姿が世間から理想とされているのだ。

でもね、と本書を読んだ今は思う。
蛭子さんのそのキャラクターには、実は彼自身の確固たる行動原理があるのだと。
そして、きっと彼の行動の奥底には、ひとりぼっちを愛しながらも、彼を支えている今の奥さんや亡くなった前の奥さんの存在があるのだと。

「ひとりぼっちを笑うな」とは、結局のところ人間ひとりじゃないということ。目に見えるつながりがなくても、あなたを見ている人はいるんだよということを意味しているのだと思う。