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ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

熾烈を極めた沖縄戦。その中で懸命に生き延びようとしたひめゆりたち。2度と繰り返してはいけない戦争の記録−小林照幸「21世紀のひめゆり」

戦後70年 書評 沖縄

沖縄県本島の南の端、糸満市に「ひめゆり平和祈念資料館」がある。

今からもう13年も前になるが、2002年11月末から12月の初旬にかけて、仕事の関係で沖縄を訪問した。1週間ほどの滞在中のほとんどは仕事に忙殺されていたが、1日だけフリーの日があったので。その日、私は「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた。そして、そこに展示されている数々の記録と記憶に強く打ちのめされるような感覚を味わった。

21世紀のひめゆり

21世紀のひめゆり

 

本書は、「ひめゆり学徒隊」に関係する二人の女性の半生を負いながら、沖縄の戦後をおいかけたノンフィクションである。

ひめゆり学徒隊」に関係する二人の女性とは、ひめゆり学園(実際には「ひめゆり学園」という学校はなく、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校を合わせてこう呼んだ)の卒業生で、沖縄戦が行われていた当時は夫の仕事の関係で本土川崎に住んでいた中村文子と実際の「ひめゆり学徒隊」生き残りである宮城喜久子である。

文子は終戦後に沖縄に戻り、「沖縄戦を伝える1フィート運動」を通じて沖縄戦の記録映画の発掘、製作に取組み、喜久子は「ひめゆり平和祈念資料館」で自らの体験を語る”証言員”として沖縄のあの日を、そして今の姿を語り継いできた。

本書のようなノンフィクション作品や小説、映画やテレビドラマなどを通して、「ひめゆりの乙女たち」の存在は広く知られている。しかし、それは実際に戦場での地獄を経験した者にとって、美化された虚像でしかない。人が人ではなくなる地獄のような戦場を実際に経験した彼女たちにしてみれば、小説や映画で描かれる「ひめゆり学徒隊」は真実を描いていない。

実際に「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた人々は、まずそこに展示されている様々な沖縄戦の傷跡に衝撃を受ける。そして、「ひめゆり学徒隊」の転戦のあとを追った展示場のそれぞれに掲げられている、犠牲になった教師、軍人、そして少女たちの死亡時の状況などが書かれた肖像パネルの前で立ちすくむ。その祈念館で喜久子ら「ひめゆり学徒隊」の生存者たちは、高齢に負けずに証言を続けてきた。

それだけではない。終戦後、アメリカの占領下にあった沖縄の悲劇。1972年の日本復帰以降も変わることなく存在する米軍基地。そして、基地被害に翻弄され、基地の縮小を望みながら、基地なくしてはなりたたない沖縄の経済情勢。沖縄という存在の持つ意味や沖縄人(ウチナーンチュ)と本土人(ヤマトンチュ)との間に存在する壁の高さが痛切に感じられる。

沖縄戦では、実に約20万人に及ぶ戦死者があったとされる。そのうち、民間人の死者は、約半数の10万人に迫る。彼らは、軍人でもなければ兵士でもない。沖縄という温暖で平和なはずの場所で、平穏に暮らしていた一般市民だ。それが、愚劣な軍首脳部による「本土防衛の最後の砦」などという世迷い言に翻弄され、否が応でも戦闘に巻き込まれた。上陸する連合軍に必死の抵抗を試み、壊滅、敗走し、追い詰められた塹壕の中で、ある者は自決し、ある者は火炎放射器によって生きながらに焼かれた。

本書に登場する中村文子、宮城喜久子の2人は、いずれももう亡くなられている。中村さんは2013年に99歳で、宮城さんは2014年末に86歳であった。

ひめゆり平和祈念資料館」での、元ひめゆりたちによる証言も、ひめゆりたちの高齢化によって常設的な対応は行われなくなり、終戦の日の前後など限られた期間に不定期に行われるだけになってしまった。それは、時代の流れの中で、抗えないことなのだと思う。

沖縄は、今だ本当の意味での終戦、本当の意味での平和を迎えてはいない。沖縄という場所は、その位置づけからして、どうしても安全保障上の前線にならざるを得ない。しかし、それを「日本の安全保障上、当然のことだ」とか「沖縄は基地で潤っているんだ」などと公言する有識者の存在には、怒りを通り越して呆れるしかない。

我々は沖縄のことをどこまで理解できているのか。沖縄は、今や国内でも有数のリゾート地であり、毎年多くの人が観光に訪れる。その観光のプログラムに、この「ひめゆり平和祈念資料館」と「平和の礎」はぜひ加えたい。広島や長崎と並んで、沖縄も戦争の凄惨さと愚かさを知り、平和の素晴らしさを実感できる場所だと思う。沖縄という場所の意味と、彼らが背負い続けている苦悩を深く考えなければいけない。