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語り部は“神”なのか?モヤッとした読後感が逆に癖になる不思議な感覚-舞城王太郎「淵の王」

舞城王太郎の作品を正しく説明し、評価することは、かなり難しいといつも感じる。ストーリーを説明するのも難しいし、作品のコンセプトやテーマは何かとと問われても、ズバッと本質をつく答えを出すのが難しい。

淵の王

淵の王

 

舞城王太郎の最新刊「淵の王」も、やはり説明の難しい小説だ。

「淵の王」は、3つの短編で構成されている。いや、“3つの短編”というところからして、読み誤っているのではないかという気がしている。3つの物語は、それぞれ「中島さおり」、「堀江果歩」、「中村悟堂」とタイトルがついている。それぞれの物語の主人公だ。いずれも、主人公と友人、恋人との会話を主体に、主人公を見守るかのような天の声がその情景を補足する。

小説としての構成、構図は3編に共通している。主人公がいて、会話を主体にして物語が展開し、そこに天の声が言葉を差し挟む。それぞれの物語には、スピリチュアルなガジェットが盛り込まれていて、主人公たちはそのスピリチュアルなガジェットに翻弄され、立ち向かう。ただ、スピリチュアルな印象に引っ張られると、この作品はますます理解が及ばなくなっていくように思う。例えば、「中村悟堂」の物語ではある家にまつわる霊的な何かがもたらす現象に対処するために、主人公がその家に住み込むのだが、そこにばかり着目してしまうと物語の本質が見えなくなってしまうのではないかという疑念が拭い切れない。その“本質”が何かと問われても答えは持ち合わせないのだが。

「淵の王」にかぎらず、舞城作品を読み終えていつも感じるのは、作品の本質を読み取れないもどかしさ、モヤッとした読後感だ。残念ながら、スッキリとした読後感を得たことは一度もない。それは、作品のレベルが低いということではなくて、舞城王太郎という作家が、読者に対して爽快な読み応え、スッキリとした読後感を与えないように意図して、作品を作り上げているからなのだと思う。それだけに、舞城作品を的確に読解できるようになれば、相当な読書巧者になれたということなのだろう。

こうして、作品レビューを書いていても、この作品の魅力を伝えられていないことは十分に承知している。それどころか、余計に混乱をしてしまっているように思う。まだまだ、私は舞城王太郎の小説を正しく理解できるだけの、読書巧者にはなれていないということだ。舞城王太郎の小説を読むたびに、次こそは舞城作品をキチンと読みこなせるようになっていたいと思うけれど、決して舞城作品はそれを許さないだろう。舞城王太郎は、常に読者の上をいっている。だから、舞城王太郎の作品は好き嫌いがはっきりと分かれる。われわれ読者は、頑張って作品の本質を読み取ろうとする。舞城作品を読むことは、舞城王太郎と読者の凌ぎ合いだ。次は絶対に読み解いてみせるぜ、と心に誓って筆を置きたい。