タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

あるひとりの男の生涯。波乱はない。けど、平凡でもない人生が心に深く染み入ってくる−ジョン・ウィリアムズ「ストーナー」

私は、この物語を品川にあるカフェで読み終えた。

ストーナー

ストーナー

 

最後の文章を読み終えた瞬間、私は深く息を吐いた。そして、しばしの間、物語の余韻に浸った。

ストーナー」は、タイトルにもなっているウィリアム・ストーナーの生涯を描いている。農家の家に生まれ、農業を勉強するために進学した大学で文学の面白さに魅せられた彼は、文学の勉強を続け、そして母校の講師となる。結婚をし、娘が生まれる。仕事では、学生からも人気の先生としてゼミを開講し、自らの研究成果を出版することもできた。晩年、癌を患ったストーナーは、65歳で亡くなる。

ストーナーの人生は、大筋で見れば平凡で、それなりに幸せなものであった。もちろん、すべてが順風満帆という訳ではない。結婚した妻は、精神的に不安定なところがあり、ときに奇矯な、ときに陰鬱な振る舞いでストーナーを困惑させる。娘は、そんな母親の支配的な振る舞いで心を閉ざすようになる。大学でも、ある奇矯な学生の処遇を巡って他の教師との対立があり、その対立を、癌が発覚して大学を退職するときまで引きずり続けた。家庭でのストレス、職場でのストレスから、若い女性講師との関係に溺れたこともあった。

ストーナー」では、読者を圧倒するような波乱にとんだ展開はない。ひとりの男の人生が、静かに着実に歩みを進めるように描かれているだけだ。なのに、私は序盤から先を読みたくてたまらないくらい、物語世界に引きずり込まれてしまった。通勤電車の中で読んでいたり、仕事の昼休みに読んでいる時に、降りる駅に着いたり、午後の仕事の時間になったりして、途中で読むのを止めないとならないときには、「このまま読み続けていたい」と後ろ髪を引かれた。そのほどの魅力が本書にはあるのだ。

ストーナー」が有する読者を惹きつける物語の力によって、本書は、第1回日本翻訳大賞で読者賞を受賞した。

ジョン・ウィリアムズストーナー」は、翻訳者・東江一紀の最後の訳業である。

本書を読み終えた今、東江氏が最後に訳した小説が、この「ストーナー」であったことは、もしかすると運命なのではないだろうかと感じている。それは、振り返った時に、ところどころで主人公のストーナーと訳者の東江氏が重なっているように感じられるところがあったからだ。ストーナーも東江さんも最期の時まで自らの仕事を全うしようとした。ふたりの姿がオーバーラップするからこそ、ラストの余韻がより一層深く感じられるのかもしれない。

P.S.
明日6月13日(土)に、「ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界」と題するトークイベントが行われる。出演は、翻訳家・越前敏弥氏と、東江氏の弟子であり「ストーナー」の翻訳作業のサポートも担った布施由紀子氏(本書の「あとがき」も書かれている)。会場である文京区不忍通りふれあい館がある不忍通り沿いの往来堂書店、タナカホンヤでは、東江氏の翻訳書フェアも開催される。きっと、「ストーナー」に関する話もあるだろう。
※トークイベントは、7月11日の追加開催が決定しているそうです。

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