桜の樹の下には屍体が埋まっている!
印象的な一文ではじまる短い物語は、物語というよりも梶井基次郎の心の闇を吐き出したかのような暗さを湛えている。
梶井は、読者に語りかけるように記す。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
美しく咲き乱れる満開の桜が、その根本に埋まった屍体から養分を得て、その絢爛たる花の美を魅せている、という妄想。
なぜ梶井は、そんな異常な妄想に取り憑かれたのか?
梶井は、31歳の若さで、肺結核により早逝している。「桜の樹の下には」は、1928年の暮れに発表された作品だ。その頃の梶井は、結核の症状がかなり進行していた。時折、呼吸困難に陥ることもあったらしい。
この短編が書かれた頃、梶井は自らの死を強く意識していたのだろう。自分は、いつ死んでもおかしくない。“死”を意識するが故に、“死”を作品の中で描くことに固執したという一面があるのではないだろうか。
それにしても、「桜の樹の下には」に描かれる屍体への固執ぶりは異常だ。それは、次の描写からも伺える。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食系のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
ここまでくると、もはやスプラッターホラーのような、気分の悪くなるような世界である。
梶井は、桜の樹の下に自分の屍体が埋まっている様を想像していたのかもしれない。
自分がやがて死んだ時に、自らの屍体がただ無為に朽ち果てていくのではなく、満開の桜を盛大に咲き誇らせるための栄養分とすることを夢想したのかもしれない。そのことに、自らの存在意義を見出そうとしたのかもしれない。
私には、梶井の異常な妄想はさっぱり理解ができない。それは、今の時代を生きる私には、“死”が実感のない遠い存在だからだ。もし、数年、十数年、数十年の後、自分の死を意識する時がきて、改めてこの短編や、梶井基次郎の他の作品を読んだら、梶井の気持ちがわかるようになっているのだろうか。