タカラ~ムの本棚

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17年振りの“私”シリーズには、北村薫の文学に対する想いがこめられている-北村薫「太宰治の辞書」

偶然なのだけれど、私の手元には「新潮文庫創刊版の完全復刻版」セットがある。創刊100年を記念して作られたものだ。

太宰治の辞書

太宰治の辞書

 

北村薫太宰治の辞書」は、出版社に勤める“私”が、自分が担当する作家の待ち会(文学賞候補になった作家とその編集担当者が選考会の当日に選考結果を待つ会。受賞になればそのままお祝いの会となり、落選すれば残念会になる)のために、会場となる新潮社を訪れるところから始まる。

新潮社のロビーで、“私”は、置かれていた《100年前の新潮文庫 創刊版 完全復刻》の見本を、何気なく手に取る。イプセン「人形の家」。その巻末に当時の出版案内があり、そこに“ピエルロチ 日本印象記”を見つけたことから、芥川龍之介「舞踏会」、そして三島由紀夫が、江戸川乱歩芥川也寸志との座談会の中で、ピエール・ロチとピエール・ルイスを間違えたように記録されている話へと想いを膨らませていく。

※写真は、私の手元にある復刻版のイプセン「人形の家」巻末の出版案内。13番にピエルロチ「日本印象記」がある。

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本書には、北村薫の日本文学への愛、もっと言えば、芥川、太宰、三島といった近現代の日本文学の礎を築いた作家たちへの敬愛から生まれた作品だと思う。作家を、そしてその作品を愛するがゆえに、作品に込められた意味や作品が生まれた背景を追求してしまいたくなる。その結果として完成したのが、本書「太宰治の辞書」なのだと思うのである。

そんな北村薫の想いがぎっしりと詰まっているからこそ、本書は、「文学評論」としてではなく、「小説」の形で書かれなければならなかった。“私”が、感じた疑問を調べ、それを円紫師匠が聞き、的確なコメントをする。そういう構成で成立するストーリーだからこそ、マニアックとも思える文学論、作家論、作品論が、ストンと頭に入ってくるのだ。

“私”は、著者である北村薫のまさに分身である。春桜亭円紫師匠も、同じく北村薫の分身である。つまり、円紫師匠と“私”は、北村薫の中にある国文学への疑問を呈する存在とその答えを導き出す存在を、それぞれに形にしたものなのだ。

もともと、このシリーズは、日常の謎を題材にした連作ミステリーのシリーズとしてスタートした。第1作では女子大生だった“私”も若手落語家だった春桜亭円紫師匠も、それぞれに成長した。“私”は、結婚して中学生の息子がいる。円紫師匠は、上野鈴本の大トリをつとめる大真打ちとなっている。シリーズ第1作「空飛ぶ馬」が刊行されたのが1989年だから、「太宰治の辞書」までに26年が経っている。四半世紀ともなれば、登場人物たちもそれなりに成長するだろう。このシリーズが、これからも続いていくとしたら、二人がこれからどんな風に歳を重ねていくのかが気になるところだったりする。

舞踏会

舞踏会

 
女生徒

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