読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

李徴と袁傪、メロスとセリヌンティウス−中島敦「山月記」

書評

山月記」は、中国・清朝期の説話集「唐人説薈」にある「人虎伝」をベースに書かれた中島敦の代表的な短編である。

山月記

山月記

 
李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

 
山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

 
李陵・山月記 弟子・名人伝 (角川文庫)

李陵・山月記 弟子・名人伝 (角川文庫)

 

主人公の李徴は秀才であるが、性格的には難があり、詩人として名を成すことを目指すが夢は所詮妄想に過ぎず、結局は小役人として働かざるを得なくなる。その境遇に我慢のならない李徴は、ある日発狂して山に奥へと姿を消す。あるとき、袁傪という役人の一行が山道を進んでいると一匹の虎が目の前に現れる。それこそ、発狂して山奥に姿を消した李徴のなれの果ての姿であった。旧友同士である李徴と袁傪は、李徴が虎に変身した経緯を語り合う。

この作品を国語の教科書で読んだという人も多いのではないだろうか。私も、中学の国語の教科書で最初に読んだ記憶がある。今回、ウン十年ぶりに読み返してみた。

山月記」は、自己顕示欲が高く、「自分は他人とは違うのだ」、「自分は役人のレベルで終わる人間じゃない。詩人として成功できる才能をもっているのだ」などという、ある意味でおめでたい性格の人間が、理想と現実とのギャップに挫折しながらも、傲岸な性格が災いして自らの才能の無さを認められず、その結果精神を病んで出奔し、虎に姿を変えてしまうという悲劇を描く作品と読むべきだろう。なので、今回は別の観点で考えてみたい。

以前、太宰治「走れメロス」のレビューを書いた。ポイントは、「猪突猛進直情型のメロスに翻弄される友・セリヌンティウス」の構図である。

山月記」も、李徴と袁傪という旧友同士の邂逅が描かれている。
仕事で彼の地を訪れていた袁傪は、自分たちの一行の前に姿を現した虎が、かつての友・李徴であることに気づく。プライドが高く傲慢な態度で他人を見下すような性格の李徴にとって、袁傪は唯一といってよい親友である。それは、袁傪が温和な性格ゆえ李徴とぶつかることがなかったからだ。

李徴と袁傪の関係は、性質は異なるけれど、メロスとセリヌンティウスの関係に似ているように思う。

メロスは、直情型のバカであり頭で考えることのない男である。そんな天然バカのメロスを人格者であるセリヌンティウスが見守るような形で友人関係を成している。

一方、李徴は傲岸不遜でプライドの高い厄介な性格の男である。そんなプライドの高い李徴を温和な性格の袁傪が優しく受け止める形の友人関係ができあがっている。

つまり、「山月記」も「走れメロス」も、性格的に難のある主人公と、その主人公に翻弄される友人という関係性が、物語のベースに存在しているのである。

走れメロス」では、メロスによって一方的に迷惑をかけられるセリヌンティウスの悲哀が読者の涙を誘うのであるが、「山月記」では、李徴の一方的な主張をぶつけられるばかりの袁傪に同情の涙を禁じ得ない。

袁傪によって虎に姿を変えたことに気づかれた李徴は、どうして自分が虎になってしまったのかを滔々と語り始める。温和で人の良い袁傪は、李徴の話に耳を傾け、彼が虎に身をやつしてしまった悲劇に同情に嘆き悲しむ。自分の境遇ばかりを並べ立てた挙句に、「あ、そういえば忘れてたけど」といった感じで、「残した家族には自分は死んだと伝えてほしい。今日のことは明かさないでね」と懇願する李徴に対しても、涙ながらにこれを快諾する。

李徴が虎になってしまったのは、彼の性格が招いたことであり、多少同情するところもないわけではないが、基本的には自業自得なところである。でも、袁傪は、そんな考えは表に出さない。袁傪、本当にいい人なのである。

ただ、袁傪も李徴の性格であったり、詩人としての才能に関しては呆れているところもある。詩人としての才能については、李徴が自分が作った詩を後代に残したいと言い、それを袁傪が部下に書き取らせるのだが、その詩に感嘆としながらも袁傪はこんな風に考える。

成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。

また、李徴の性格についても、ちょっと呆れてるところがある。後代に残したいという詩を読み上げた李徴は、自虐的に言う。

羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。

ここで袁傪は思う。

(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた。)

虎になってしまったことには同情するけれど、「虎になっても、こいつの性格は変わんねえなぁ~」と、ちょっと呆れているように思う。

それでも、袁傪は李徴との別れに涙する。これからどんどんと虎としての本能が人間としての人格を凌駕していき、いずれ李徴としての人格を失ってしまう友に対する哀れみばかりが、袁傪の胸を内を支配している。本当に袁傪というのは良い人なのだ。李徴と袁傪のどちらと友達になりたいかと問われれば、間違いなく袁傪と答えるだろう。

どれだけ迷惑をかけられても、セリヌンティウスはメロスのために我が身を犠牲にしようとしたし、袁傪は李徴のために心から嘆き悲しむ。メロスも李徴も、そんな得難い友の存在に少しでも感謝しているのだろうか。いや、この二人の性格である。改まった感謝なんて、頭の片隅にも浮かんでいなんだろうな、と思うと、セリヌンティウスと袁傪には、深い同情と、言い知れぬ共感を感じてしまうのである。