ガタガタ書評ブログ

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若き女性社会思想家が自ら体験することで得ようとしたものは、経験だったのか愛情だったのか−シモーヌ・ヴェイユ「工場日記」

いつの時代にあっても、労働者とは搾取される存在ということなのだろうか。

工場日記 (ちくま学芸文庫)

工場日記 (ちくま学芸文庫)

 

シモーヌ・ヴェイユ「工場日記」は、若き女性社会思想家であり哲学者である著者が、1934年冬から1935年夏(著者の年齢でいうと25~26歳にあたる)に、未熟練工としてルノーその他複数の工場の現場で働いた記録である。そこには、日々苛酷なノルマをこなすために低賃金で働く工員の辛い日常がある。

シモーヌ・ヴェイユは、決して貧しい家庭の娘ではない。医者の娘である彼女は、その時代においてはむしろ、恵まれた家庭のお嬢様と言っても良い。大学に学び、教師としての職にもついていた。

ではなぜ、シモーヌは工場労働者として働くことを選んだのか。そこには、彼女の社会哲学者としての探究心があったのではないか。彼女は、市井の人々の生活を体験することで、教師や学者としては知り得ない社会的な問題を知ることを求めたと考えることもできる。ただ、これはあくまでも推測であって、「工場日記」には、シモーヌが教師をやめて工場で働く理由が、彼女自身の言葉では語られていない。このあたりの経緯については、シモーヌ・ヴェイユの研究書や評伝などで確認するしかないだろう。

「工場日記」を読んで感じるのは、当時の工場労働者の苛酷な環境よりもシモーヌ自身の体調面に関することばかりだった。

そもそも、シモーヌは子供の頃から病弱であり、工場労働を続けていた間も常に頭痛などの体の変調を訴え続けている。「そんなに体が辛いのなら工場で働くのは無理だろう」と思ってしまう。シモーヌは、この後、34歳という若さで亡くなっているのだが、工場労働での無理が彼女の体に少なからず影響を与えた可能性も否定できないように思う。

「工場日記」が、1930年代のフランスにおける労働者の実態を伝えていると、果たして言えるのだろうか。私は、同じ労働者の苛酷な状況を伝えるものとして、本書は小林多喜二の「蟹工船」などとは異なる方向性があるように思える。もちろん、かたや(事実を反映するとしても)創作であり、かたや現実であるのだから、単純な比較はできないしすべきではない。ただ、共に労働者という下層階級の生活を伝えようとしている中で、「工場日記」には客観性が薄いように思う。そこが、純粋に、虐げられ搾取されることで生きていかざるを得ない労働者と、学者としての探究心にもとづいて行動したシモーヌとの意識の違いなのかもしれない。

本書の訳者である田辺保氏は、本書の解説の中で、シモーヌが工場労働の世界に飛び込んだ理由を、彼女が生涯求め続けた愛情への本質的な欲求にあると書いている。労働者たちと同じ環境に自らを投げ込むことで得られる愛情とはなんだろうか。同僚からの信頼? 搾取される者同士の連帯感? 確かに人と人とのつながりは出来上がるだろう。それが、シモーニにとっての愛情になるのかは、シモーヌ自身しか感じることはできないのである。