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ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

教師という権力者による子供たちへの支配欲に憤りを隠せない−池谷孝司「スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか」

今年2月、職場でのセクハラについての裁判で最高裁がひとつの判断を下した。


海遊館「セクハラ発言」訴訟で逆転判決 処分は適法と最高裁 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

企業が、セクハラ問題を起こした社員に対して行った出勤停止等の処分の適否を争った裁判である。最高裁は、処分が不当だとした社員の訴えを却下し、会社の処分を適当であったとしたのである。

企業における様々なハラスメントの問題は、コンプライアンスの観点から厳しく対処されるようになり、職場で働く人々は、自らの行動を律することが、今や当たり前のようになってきている。

だが、こうした民間企業の取り組みとは違い、公共の職にある人たちのハラスメントに対する意識は、残念ながら大きく乖離していると、言わざるを得ない。それが、本書「スクールセクハラ」を読んだ率直な感想である。

本書は、共同通信社の記者である著者が教師による生徒へのわいせつ犯罪について取材し配信した連載記事「届かない悲鳴-学校だから起きたこと」をまとめたものである。実際に起きたスクールセクハラ事件を取り上げ、加害者である教師がなぜわいせつ犯罪を犯すのか、被害を受けた生徒はどうして行為を拒否できないのか、被害にあっていることを親や他の教師に相談できないのか、を、加害者、被害者の各本人やスクールセクハラ問題に取り組み、教師からのわいせつ犯罪被害に遭って苦しんでいる子供を救うための活動をしているNPO法人の代表に取材している。

学校におけるセクハラは、一般的な企業におけるセクハラと本質的には同じ問題である。だが、大きく異る点がある。それは、加害者である教師がもつ生徒への影響力は絶大なものがあり、被害者である生徒は簡単に教師を訴えることができないことだ。

教師は、ある意味生徒の将来に対する命運を握っている。教師が、ちょっと手心を加えれば、その生徒の将来を不幸にすることも簡単にできてしまう。ところが、多くの教師はそのことに気づいているようで気づいていない。いや、意識していないと言った方がよいだろうか。

本書に登場するNPO法人「スクール・セクシャル・ハラスメント防止全国ネットワーク(SSHP)」の代表・亀井明子氏は、教師が自らの権力に気づいていないことについてこう語っている。

「『私は生徒の目線に立って指導しています』と言う先生は多い。『でも、あなたに権力があるのは歴然としている』と私は指摘します。進学のための内申書を付け、部活動の選手を選ぶのだから、と。そう言われて初めて自分の権力に気付く人が多いんです」

生徒へのわいせつ犯罪を起こした教師は、多くの場合、自らの行為が性的な興味からではなく生徒に対する愛情から始まり、生徒の側がその愛情を受け止めてくれたと考えている。本書に登場する加害教師も、自らの行為がわいせつ犯罪にあたるとは認識していない。

また、これは、いじめ問題にも共通するのだが、教育現場の隠蔽体質は本当に酷い。勇気を出して教師によるわいせつ行為を訴えた生徒を守るどころか、逆に生徒を悪者に仕立て上げ、犯罪者である教師を守ろうとする。学校も教育委員会も、守るべきは自らの保身と教師の人生であり、被害者である子供の尊厳や権利は、守るに値しないものと考えているのだ。

なんでも、最近になって疑惑の献金問題で追求されている文部科学大臣は、学校教育に道徳の必要性を訴えているのだそうだ。子供にキチンと道徳観を教えることで、人生の先輩である年長者を敬い、日本を愛する人に育てようということなのだろう。

しかし、子供たちが敬うべき教師たちは、本当に敬うに値する大人なのだろうか。子供をターゲットにした性犯罪を起こした問題教師を厳しく処分することもできず、逆に被害者である子供やその家族を貶めるような工作をする。そんな卑劣な教育者たちに指導されている子供たちは、不幸以外のなにものでもない。

「教師だって人間なんだ」
「いまの先生は忙しすぎる。そんな強いストレスにさらされている教師が、ふとしたはずみで何か問題を起こしてしまうことは、多少は仕方ないことなんだ」

おどろくべきことに、そんな理屈で問題を正当化してしまう意見がある。確かに、今の先生たちは、本来の役割である教育者としての仕事以外で多忙を極めている。ストレスも溜まるだろう。だけど、だからといって問題を起こしていいわけではない。教師であるからこそ、厳しく自らを律することがなければならないのだ。

教育の現場は、なによりも清廉であり、潔白でなければならない。だけど、教育現場には、自らを反省し改める、自浄能力が著しく欠けているのではないだろうか。

私たちは、教師を尊敬したいし信頼したいと思っている。私たちが望むのは、教師が自ら正しく行動し、子供たちから尊敬され信頼される人間になってほしいということなのだ。