最近では鉄オタ(鉄道オタク)なる名称はだいぶ一般的なものとなってきた。乗り鉄、撮り鉄などといった鉄道オタクの中でも種別が分かれていることも認知されつつあるようだ。
元来、鉄道好きは男の領分だと思われてきた。鉄道紀行を題材にして作品を数多く発表している作家もいる。代表的な作家としては、「時刻表2万キロ」や「最長片道切符の旅」などで知られる宮脇俊三がいる。
そんな男性主流だった鉄オタの世界にも女性の活躍の場が広がってきている。若い女性が鉄道旅を満喫したり、本格的なカメラを手に列車の写真を撮影する姿も決して珍しくない。最近では、男性よりも女性の方が積極的なように思える。そんな鉄オタを代表する男女2人の随筆家、エッセイストとして、内田百けん、酒井順子の両氏がそれぞれに発表した「阿房列車」、「女流阿房列車」をレビューしていきたい。
内田百けんの紀行文「阿房列車」は、“鉄道に乗ることだけ”を目的にして旅をする百閒先生と同行者のヒマラヤ山系氏(百けん先生の弟子で国鉄職員の平山三郎氏)の珍道中を虚実ないまぜ(明らかに“虚”が多い)に書いた作品だ。
阿房列車シリーズは、「第一阿房列車」、「第二阿房列車」、「第三阿房列車」で構成されていて、新潮文庫版はそれぞれ別冊になっている。私が図書館から借りたのはすべてを合本した六興出版社版全集の1冊である。他に、ちくま文庫からも刊行されているし、コミカライズ作品もある。
北は青森から南は九州熊本まで、日本中を旅している百けん先生とヒマラヤ山系氏だが、そもそもの目的が「特に目的もなく列車に乗って出かけ、そのまま帰ってくる」というものなので、見事なまでに行った先での名所・旧跡その他観光地に関する描写がない。また、百けん先生が食事に関してもさして執着や興味がない(なにしろ、食べると腹が減った時に困るという屁理屈で朝食も昼食もほとんど食べないのだ)ため、食事シーンもかなりあっさりだ。
鉄道に乗るのが楽しみで出かけていくわけだが、これもまた百けん先生の我儘ぶりというか、いろいろと条件があるのが可笑しい。一等車が最優先であり、そのくせ列車に乗るとすぐに食堂車に入り浸ってしまう。東北からの帰りでは、なんと仙台から上野までずっと食堂車に居続けた。朝に滅法弱い百けん先生は、午前中に出発する列車は基本的に乗らないため、東北への阿房列車では岩手迄向かうのに、午前中の列車に乗ればその日のうちに到着できるところを、わざわざ夕方出発の列車に乗って途中の福島まで行って1泊し、翌日午後に福島を出発する列車で岩手に向かうという無駄とも思える(というか、明らかに無駄)行程を踏んだりする。
これらの行動は、今でいうところの“乗り鉄”ということになるのだろう。百けん先生は現代の鉄オタほどマニアックではないが、時刻表を読んだり、新型列車の開通に招待されれば、記者連中に囲まれるのが煩わしいと愚痴りながらも嬉しそうにでかけていく。随所に見られる頑固で偏屈な皮肉屋振りも面白く、明治生まれの偏屈鉄道オタクのドタバタ珍道中を腹を抱えて読める楽しい作品だ。
百けん先生へのオマージュとリスペクト-酒井順子「女流阿房列車」
女性の鉄道オタクを“鉄子”と呼ぶのだそうだ。鉄子をタイトルに冠した「鉄子の旅」なるマンガも出ているし、鉄子という呼称も完全に市民権を得ているように思える。
酒井順子「女流阿房列車」は、ある意味“鉄子”であるともいえる著者が小説新潮誌上で連載していた様々な鉄道に関するチャレンジの様子を綴ったエッセイである。タイトルの「女流阿房列車」とは、内田百けんの名著「阿房列車」の女性版ということでつけられている。
小説新潮編集部の鉄男であるT氏が考える様々な鉄道旅を著者がこなし、その様子を伝えるエッセイなのだが、企画される旅の内容が実に鉄分の濃いものとなっている。1日で東京中の地下鉄を全線乗り尽くす。24時間鉄道に乗り続けて(しかも在来線のみ)どこまでいけるかに挑戦する。日本橋から京都まで東海道五十三次ならぬ東海道五十三乗り継ぎの旅。観光に類する行為はほとんどなく、時には食事すらままならない。食事も観光もなく、ひたすら列車に揺られる旅は、百けん先生の「阿房列車」に通じる。違うのは、百けん先生が自ら好んで鉄道に乗り込むのに対して、酒井は、ただ鉄道に乗るためだけの旅を仲間たちと楽しみながらも、時に疑問を感じながらこなしていくところだ。そういう意味では、酒井は百けん先生の立場ではなく、ヒマラヤ山系氏の立ち位置にあるのかもしれない。
また、鉄オタと呼ばれる人々の中でも著名なメンバー(横見浩彦など)にも参加してもらい、さらに鉄分の濃い旅を企画したりもする。廃線跡とか、スイッチバックとか、鉄道に興味のない人には何のことかさっぱりわからないが、著者は鉄オタのパワーに圧倒されながらもなんとか理解しようと試みる。そして、意外と楽しんでいる。
「阿房列車」、「女流阿房列車」を読んでいると、鉄道旅の楽しみ方には実に奥深い魅力があるのだとわかる。「阿房列車」も「女流阿房列車」も、旅の目的を観光や旅先での食事においている人には、想像もつかない世界であり、多くの読者は、各書を読んだからといって鉄道旅に興味を持ったりはしないかもしれないが、そういう世界も存在するのだということは理解できるのではないだろうか。