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【不在】が指し示す【実在】とは何か-青木淳悟「私のいない高校」

青木淳悟の小説「私のいない高校」は極めて実験的な小説である。ポイントは本書のタイトルだ。

私のいない高校

私のいない高校

 
私のいない高校

私のいない高校

 

ストーリーは、神奈川県にある、とある高校の二年生の菊組というクラスの1学期の数ヶ月間の出来事が描かれる。

そのクラスには、カナダからの留学生がおり、古文の教師でもあるクラス担任がその留学生の面倒を見ながら修学旅行や中間テストなどの学校行事に奮闘する。

しかし、本書の主人公はこの担任教師でもなければ、カナダからの留学生でもない。さらにいえば、クラスの生徒の誰かという訳でもない。

では、本書の主人公は誰なのか。本書には“主人公はいない”というのが、その答えだ。本書のタイトルが示す「私のいない高校」の“私”とは“主人公”がいないという意味になる。

主人公にあたる登場人物がいないゆえ、この小説は非常に不可解な読後感を与える。登場人物の中に主人公がいないのであれば、“神の視点”としての著者の存在が主人公としての位置付けにあたるのかといえば、そういう訳でもない。

つまり、本書には誰の感情も主体的には書かれていないのだ。それはまるで、事実のみを淡々と記録したドキュメンタリー映像を文字に起こしたような印象を受ける。一切の主観を排し、そこで起きている事象のみを描き出す。そのためか、この作品には読後に心に残るようなエピソードも印象深い場面も存在しない。

はたして、本書は小説といえるのか。個人的な印象として結論づければ、本書は十分に小説として成立していると思う。

小説にはある特定のルールに縛られない自由さがあってよいと思う。自由が許容されるからこそ、前衛的とも評される様々な小説が存在するのだし、受け入れられているのだろう。であれば、本書もそんなフリーダムな小説の亜種として存在することに不思議はないし、問題もないはずだ。

ただ、小説として成立していることと作品としての面白さは異なる。本書が抱える一番の問題は、「主人公不在の小説が持つ意味」ではないだろうか。本書を読んだ多くの読者が抱くかもしれない、「この小説の実験的な意味は何か?」という疑問に対する答えがよくわからないところが、この作品の弱点のように感じた。