タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「バット・ビューティフル」ジェフ・ダイヤー/村上春樹訳/新潮社-ミュージシャンたちのエピソードの数々は、ジャズに興味をもつ入口になると思う。

 

 

音楽にはあまり詳しくない。ジャズについても、そういう音楽のジャンルは知っていても、どういうプレイヤーがいたのかなどはよくわからない。だから、『はじめての海外文学vol.4』で金原瑞人さんが、本書「バット・ビューティフル」を推薦していなかったら手に取ることはなかっただろう。

『バット・ビューティフル』は私が友人たちに推薦した唯一のジャズに関する書物だ。これはちょっとした宝物だ。「ジャズに関する本」というよりは「ジャズを書いた本」というべきだろう。もしマテリアルにぴたりと寄り添うことが偉大なソロを形づくるとすれば、ミスタ・ダイヤーの本がまさにそれだ。

引用したのは、あとがきで訳者の村上春樹が引用している本書のカバーに印刷されているキース・ジャレット(ジャズ・ピアニスト)による推薦文だ。村上春樹は、この推薦文が気になって本書を読み始めたという。

「ジャズに関する本」ではなく「ジャズを書いた本」とはどういうことだろう。確かに興味をそそる。

本書は、実在のジャズ・プレイヤーについてのエピソードによって構成された作品である。ジェフ・ダイヤーが描き出す数々のストーリーは、実在するプレイヤーのよく知られた実際のエピソードを、まるで自分がその現場で見てきたように描き出す。村上春樹は、本書の作風を「レイモンド・カーヴァーの『使い走り』に似ている」とあとがきで記しているが、すいません、私はレイモンド・カーヴァーを読んだことがないのでピンと来ません(笑)

ストーリーの描き方については、「序文」の中でジェフ・ダイヤー自身もこう書いている。

原則としては、このように考えていただきたい。ここに書かれていることは、引用されたというよりは、創作されたか、あるいは作り替えられたものだと。最初から最後まで一貫して、私の目的はミュージシャンたちのありのままの姿を描くことにではなく、私の目に映った彼らの姿を描くことにあった。

登場するジャズ・プレイヤーたちの実際のエピソードや、その中で彼らが発した言葉がオリジナルだとすれば、ジェフ・ダイヤーが描くのは、そこに若干の、いや、もしかすると大胆なアレンジを加えたストーリーということだ。ジャズでは、ミュージシャンたちはオリジナルの楽曲をそのまま演奏するのではなく、自分なりのアレンジを加えたり、演奏時のノリでアドリブを加えたりする。それと同じことを、ジェフ・ダイヤーは本書で行っているのだ。

ジャズに疎い読者として、登場するジャズ・プレイヤーのことも、彼らがどのような演奏家でどのようなパフォーマンスを魅せていたのかも、彼らの生きた時代とはどういう時代だったのかも、なにもかもよくわからない状態で読みすすめるのは、正直大変だった。それでも、いくつかのエピソードは印象に残っている。

本書は、構成として、レスター・ヤングセロニアス・モンクバド・パウエルベン・ウェブスターチャールズ・ミンガス、チェト・ベイカー、アート・ペパーといったミュージシャンのエピソードが並べられ、エピソードの間をつなぐようにデューク・エリントンとハリー・カーネイが次の演奏場所に向けて車を走らせているエピソードが挿入されている。私は、このデュークとハリーの掛け合いのようなエピソードが好きだ。立場は違うが、黒人のジャズピアニストと白人のボディガードのコンビが、人種差別の根強いアメリカ南部を一緒に旅する映画「グリーン・ブック」を思い出した。

gaga.ne.jp

「ジャズに関する本」ではなく「ジャズを書いた本」とはどういうことか。読み終わってみて、その意味が少しだけわかったように思う。事実をベースとして作者なりのアレンジメントを加え、ジャズを愛する読者も、ジャズをよく知らない読者も、どちらも楽しめるようなエピソードに仕上げられた作品なのだ。万人受けするタイプの本ではないが、ジャズに興味をもつ入口となる本だと思う。

 

「路上のストライカー」マイケル・ウィリアムズ〔著〕/さくまゆみこ〔訳〕/岩波書店-独裁政権に家族を殺され、命がけで逃げ込んだ南アフリカでは外国人として憎悪の対象となったデオ。彼を救ったのはサッカーだった。

 

 

サッカーは、アフリカで人気のスポーツだという。ボールひとつあればどこでも楽しめるし、ボールがなくても新聞やビニールを集めて丸めたものをボールに見立てればよい。

マイケル・ウィリアムズ「路上のストライカー」も、サッカーを題材にした物語だ。主人公のデオは、ムガベ大統領による独裁政権下のジンバブエから逃れた南アフリカで、さまざまな苦労を重ね、ホームレス・ワールドカップ南アフリカ代表になる。

ホームレス・ワールドカップとは、2003年から毎年開催されている、ホームレス状態の人が一生に一度だけ選手として参加できるストリートサッカーの世界大会であり、日本からも『野武士ジャパン』として代表選手が出場している。

www.nobushijapan.org

サッカーを題材しているが、デオが南アフリカ代表チームにスカウトされ、選手としてホームレス・ワールドカップに出場し活躍する場面は、この物語全体の中では終盤になってからの話だ。物語全体のほとんどは、彼が故郷のジンバブエでどのような悲惨なことを経験し、命がけで国境を越えて逃げ込んだ先の南アフリカで、ゼノフォビアという外国人憎悪の対象としてどのような迫害を受けてきたか、その苦難の日々を兄イノセントと支え合いながらどう生きて乗り越えてきたかを描いている。その苦難の日々が、私たちの想像を絶するような話なのだ。

子どもたちが手作りのボールでサッカーに興じるところに兵士たちを乗せたジープが現れる場面から物語は始まる。

兵士たちは、大統領の直轄として反体制派の人間を取り締まることを目的に国中を訪ね歩いている。少しでも政権に反するとみなされた住民は、反体制派として虐殺される。デオの村でも、それが起きた。強かったボットンじいちゃんも、優しかったアマイも、村の住民はみな殺された。デオとイノセントは、命からがら村を逃げ出し、伝手を頼って南アフリカに向かう。だがそれも、簡単なことではない。ジンバブエ国内では、大統領派の人々や兵士たちによる粛清が徹底的に行われているし、国境を越えるにも苦難が待ち受けている。無事に国境線を越えても、その先には広大なサバンナが広がり、野生動物たちに襲われるかもしれないし、さらに国境を越えられて安心し油断している越境者を狙う南アフリカの略奪者からも逃れなければならない。

無事に南アフリカに入っても、不法入国者であるデオたちには厳しい現実が待ち構えている。ゼノフォビアだ。安い賃金でも働く外国人は南アフリカ人の仕事を奪っている。そう考えた彼らは、外国人たちを襲うようになる。実際に南アフリカでは、2008年に外国人が襲撃されて60名以上が殺害された事件があったと著者があとがきで記していて、その事件をモデルにした場面が本書にも出てくる。

生まれ故郷での迫害と虐殺、苦労の末の越境、希望だったはずの南アフリカで受ける外国人憎悪の現実。その厳しいつらい日々をデオはイノセントとふたりで乗り越えていく。だが、外国人襲撃事件の混乱の中でデオはひとりになり、失意と絶望の中で堕落していく。そんな彼を救ったのが、小さい頃から夢中になってきたサッカーだった。

日本に暮らしていると、外国の人たちがどんな生活をしているのか、世界にはどんな国があってどんな状況にあるのかを知ることは、なかなか難しい。断片的な情報として知ることはあっても、深く知る機会はあまりない。

海外文学とは、私たちに世界を教えてくれるものだと思う。「路上のストライカー」は、岩波書店から刊行されている『STAMP BOOKS』という海外ヤングアダルト小説レーベルの作品だ。若者たちに向けた作品として、ジンバブエという国のこと、南アフリカという国のこと、そこに暮らす人々のこと、外国人と接することの難しさ、ホームレス・ワールドカップというサッカー大会の違う一面、他にもたくさんのことを、この作品から知ることができる。そして、たとえば外国人労働者の問題を日本で起きている問題と重ね合わせて考えることで、いま自分たちの国で起きていることの問題も見えてくると思う。

私たちが知らない世界を見せてくれるのが海外文学の魅力だと、改めて感じている。

 

「わたしはイザベル」エイミー・ウィッティング〔著〕/井上里〔訳〕(岩波書店)-毒親に否定され続けたイザベルを救ったのは読書だった。言葉を得ることでイザベルは成長する。

 

 

毒親とは、過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりする「毒になる親」のことを言う。

これは、2019年4月にNHKの「クローズアップ現代」で放映された『毒親って!? 親子関係どうすれば・・・』での毒親の定義である。

www.nhk.or.jp

虐待や育児放棄によって子どもを殺してしまうほど極端ではなくても、子どもの人格を否定したり、厳しくあたったりすることで、子どもを自分の思い通りにしたり、子どもとの関係を放棄したりする親がいる。エイミー・ウィッティング「わたしはイザベル」の主人公イザベル・キャラハンの母親は毒親だ。

物語の冒頭、イザベルは母親から「今度のお誕生日は、プレゼントはありませんよ」と言われる。でも、イザベルはそれまで一度も誕生日プレゼントなんてもらったことはない。他の人からもらうことも許されない。

イザベルの唯一の楽しみは本を読むことだ。娯楽室にあった「シャーロック・ホームズの冒険」を読み始めた彼女は、物語の世界に浸りこむ。そして、頭の中で物語をつくる。物語をつくることが、毎日を生きる手段なのだ。

なぜ、母親はこんなにも娘に厳しくあたるのか。そこには、彼女のコンプレックス、嫉妬があった。イザベルの父親にはふたりの姉妹がいる。ノーリーンはドレス工場の女性支配人であり、イヴォンヌは資産家と結婚していて、ふたりとも成功者だ。それに対して、イザベルの父親は成功者とは言い難い。そのことに、母親は苛立っていて、その苛立ちを子どもたちにぶつけているのである。母親の苛立ちをぶつけられ、それに激しく反応する娘たちの姿を見て、心の憂さを晴らしているのだ。

イザベルは、母親の死によってその支配からようやく解放される。自ら仕事を探し、下宿先を探して一人暮らしをはじめる。ひとりで生きることは簡単なことではない。それでも、彼女は少しずつ自分の居場所をみつけていく。同じ下宿先の住人たちとの交流、仕事先の上司や同僚との交流、文学を通じて知り合った同世代の若者たちとの交流。さまざまな人たちとの交流によって、イザベルは母親から否定され続けてきたひとりの人間としての存在価値を取り戻していく。

自らの生きる意味を見出していく中で、彼女は一冊の本を出会う。「聖人たちの言葉」というその本を手にしたことで、彼女は本当の意味で自分の過去と向き合えるようになる。そして、かつて自分が母親から否定され続けながら暮らした町を訪れる。そこで彼女を待ち受けていた過去の自分との邂逅によって、イザベルは自ら書くことを決意する。

母親の強すぎる支配や過干渉は、愛情の裏返しだという人があるかもしれない。そういう一面があったとしても、子どもにとってみれば、怖いお母さん、お父さんよりは、優しいお母さん、お父さんがいいにきまっている。子どものころに植え付けられた恐怖は、大人になっても消えることはなく、心に傷を残す。親の顔色をうかがって生きるような日々を過ごさなければならない子どもは、親以外の大人たちの顔色もうかがうようになり、常に自分を偽って生きるようになる。

イザベルは、読書によって現実の世界から空想の世界に逃げ込むことができた。本を愛してきたことで、言葉によって人とのコミュニケーションを取ることを覚え、言葉の力によって自分自身の存在価値に気づくことができた。

両親に愛されて育つことが、子どもにとっては一番のことだ。でも、少しでもつらいことがあったときに、本を読むこと、さまざまな言葉に触れることが、子どもの癒やしになるのなら、読書という行為、本という存在には大きな意味があるのだ。

 

「ある奴隷少女に起こった出来事」ハリエット・アン・ジェイコブズ〔著〕/堀越ゆき〔訳〕/新潮社〔文庫〕-奴隷として生まれ、奴隷として生きることを運命づけられた少女は、自らの自由を求めて闘った

 

 

わたしは奴隷として生まれた。

その短い言葉から、ひとりの黒人奴隷少女の闘いの記録は始まっている。

ある奴隷少女に起こった出来事」は、いまからおよそ150年前の1861年に刊行された作品である。その内容は、あまりに衝撃的で、これがノンフィクションであるとはにわかには信じられないほどだ。

しかし、冒頭の『著者による序文』にあるように、この本に書かれていることのすべては、1800年代中盤のアメリカで実際に起きたことなのである。

読者よ、わたしが語るこの物語は小説(フィクション)ではないことを、はっきりと言明いたします。

奴隷の娘として生まれたリンダ・ブレントは、奴隷として常に誰かの所有物であった。「母親の身分に付帯する条件を引き継ぐ」という制度により、奴隷を母に持つ子どもたちは、生まれながらにして奴隷として生きることしか許されなかったからだ。

腕の立つ大工として所有者から自由に働き収入を得る許可を受けていた父は、わが子を所有者から買い取って自由にすることを願っていたが、所有者が買い取りに応じることはなかった。リンダが自由になるには、逃げる以外に方法はないのが現実だった。

所有者の死による相続や譲渡、競売などにより、奴隷の所有者は変わっていく。リンダも、何人かの所有者を経て、ドクター・フリントの娘エミリーの所有物となった。当時エミリーは3歳。彼女が成人するまで、リンダの事実上の所有者はドクター・フリントということになる。

このドクター・フリントが、リンダを苦しめる邪悪な人物であった。彼は、リンダに対して精神的にも、肉体的にも、卑劣な行為を繰り返す。リンダは、ドクター・フリントから逃れ、自由を得るための闘いをはじめる。それは、別の白人の子どもを身篭ることだった。

邪悪な白人の支配から逃れるために、別の白人の子どもを身篭り、さらに7年もの間狭い屋根裏部屋に隠れ住む生活を続ける。その間、ずっと不安と恐怖と闘い続けたリンダの精神力に驚くとともに、人間が人間としての尊厳を根こそぎ奪われなければならなかった暗黒の時代の罪深さを感じざるをえない。

今の時代には絶対に考えられないような話

それが、本書を読んだ率直な感想だ。しかし、著者が生きた時代には、これが現実だったのだ。もし、その当時に自分が所有する側の人間として生きていたら、ドクター・フリントや他の白人たちのような残酷な人間になっていたかもしれないし、奴隷の立場として生きていたら、絶望の中で苦しむことしかできなかったかもしれない。

しかし、リンダは絶望しなかった。諦めることなく闘った。7年間の潜伏生活を経て、リンダは北部に逃亡する。彼女に対して理解のある人物と出会うことで、生きることへの希望を手に入れる。

リンダは、自らの闘いを貫いた。しかし、彼女のように闘う勇気をもった奴隷は少ない。訳者あとがきによれば、リンダ・ブレントこと著者ハリエット・アン・ジェイコブズは、本書執筆後に娘とともに南部に戻って《ジェイコブズ・スクール》という解放奴隷のための学校を開くなど、活動家として生きたとのこと。彼女の闘いと、その闘いの記録として書かれた本書、そしてその後の彼女や子どもたちの活動が黒人奴隷解放の道を開くことにもつながっているのだと思う。

 

「新装版プラテーロとわたし」J.R.ヒメナス・著/伊藤武義、伊藤百合子・訳/長新太・絵(理論社)-嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、ささやかな日々のことも、いつもプラテーロがそばにいた。

 

 

プラテーロは、小さくて、ふんわりとした綿毛のロバ。あまりふんわりしているので、そのからだは、まるで綿ばかりでできていて、骨なんかないみたいだ。けれど、その瞳のきらめきは、かたい黒水晶のカブト虫のよう。

J.R.ヒメナス「プラテーロとわたし」は、詩人ヒメナスが26歳のころに記した散文詩。プラテーロという名前のロバに優しく語りかける形で、日々のささやかな出来事や、嬉しかったこと、楽しかったこと、寂しかったこと、悲しかったことを描いている。

巻末の解説によれば、ヒメナスは精神的な病により療養生活をおくっていたことがあるという。自信を失い、死への誘惑にかられ、敗北感に苛まれてたヒメナスを救ったのは、生まれ故郷モゲールの自然に溢れた風景であった。精神的な病から立ち直ったヒメナスが記したのが「プラテーロとわたし」だった。

138篇の散文詩には、モゲールに暮らす人々のことや、詩人の心のうちが、さまざまな形で表されている。たくさんの出来事やたくさんの想いをプラテーロは、ときに優しく、ときに意地悪く、かたわらで見守ってくれている。

夕暮れにあそぶ子どもたちの姿
松の木の下に寝そべって本を読む詩人と草をはむプラテーロ
季節が移ろい、葉をすっかり落とした並木の道

そこには、私たちが何気なく日々目にしているような当たり前の風景がある。詩人は、普段は意識しないような、ささやか景色の変化を感じ取り、その気持ちを優しくプラテーロに語って聞かせる。

プラテーロと詩人には、誰よりも深い絆が存在している。ふたりには、人間とロバという存在を超越した特別な友情が存在している。

散文詩に描かれるのは、嬉しいことや楽しいことばかりではない。嬉しいこと、楽しいことと同じくらい、むしろそれ以上に『死』が描かれている。若い娘の死、動物の死、亡き者たちへの祈り。『死』を描くことが、詩人にとっては、自らの苦悩との対峙であったのかもしれない。『死』を描くことが『生』を実感できることだったのかもしれない。そして、自らに押し寄せる『死』に対する恐怖や苦悩を和らげてくれるのが、プラテーロという『生』の存在だったのだろう。

読者は、138篇の散文詩の中に、きっと何かひとつ自分自身に重ねられる物語が見つけられると思う。自分の胸に刺さる、共感できる物語が見つけられると思う。そんな物語を見つけるために、繰り返し読みたい一冊だと思う。

 

 

「刑罰」フェルディナント・フォン・シーラッハ著/酒寄進一訳(東京創元社)-小説を書くことがシーラッハ氏が自らに課した『刑罰』なのかもしれない。

 

 

「犯罪」「罪悪」に続くフェルディナント・フォン・シーラッハの短編集シリーズの第3作にして完結編となる作品である。モニター募集に当選して、刊行前のゲラの段階で読む機会をいただいたのだが、本格的なレビューを書くのが刊行後になってしまった。なお、モニターとしてゲラを読んだ感想は、東京創元社のWebサイトに掲載されている。稚拙な感想コメントですが、ご興味ありましたらアクセスしてください、

本書には12篇の短篇が収録されている。

参審員
逆さ
青く晴れた日
リュディア
隣人
小男
ダイバー
臭い魚
湖畔邸
奉仕活動(スボートニク)
テニス
友人

12の短篇には、それぞれにドラマがあり、登場人物たちの様々な葛藤や境遇、感情のうねりや冷酷さが描かれる。いかなる理由であっても、罪を犯したものはその罪の重さに見合った罰を受ける。「刑罰」は、罰を与えるもの、与えられるもの、自らに課すものの人間ドラマを描き出す。

最初に収録されている「参審員」は、15ページほどの短篇だ。参審員に任命されたカタリーナが主人公なのだが、物語の半分は彼女の生い立ちに費やされる。どのような両親から生まれ、どの街で育ち、どんな学生時代を過ごし、どのような経験をしてきたか。彼女の人生が語られる。参審員としてカタリーナは、妻に対する傷害罪に問われた男の裁判を担当することになる。証人として出廷した妻の証言を聞き、カタリーナは彼女を自分と重ね合わせ、思わず我を忘れてしまう。短い物語の中で、カタリーナの人生と、被害者あり加害者の妻でもある証人の人生がシンクロする構成はうまいと思う。

それぞれの物語に登場するひとりひとりの主人公たちに、読者はときに同情し、ときに共感し、ときに嫌悪し憎悪するだろう。そして、本書全体を通じて、突き刺さってくるような人間の存在感を感じることだろう。

2月に『東京創元社新刊ラインナップ発表会2019』に参加した際に、ゲストスピーカーとして登壇された訳者の酒寄進一さんが、本書の刊行について話された中で、シーラッハ氏が小説を書くきっかけとなった友人の話があった。その友人とのエピソードをベースとして書かれたのが本書のラストに収録された「友人」である。

子どもの頃に一番仲のよかった親友は、あるとき突然連絡がとれなくなり消息不明になった。長い時を経て再会したとき、親友はむかしの面影をなくし、苦しみの中にいた。私は、親友から多くの話を聞いた。彼が辛く苦しい日々を送ってきたことを知った。私と親友は、再び別れの時を迎える。そして、私は書くことをはじめた。「親友」にはそう記されている。

フェルディナント・フォン・シーラッハにとっては、『小説を書く』ということが自らに課した『刑罰』なのだろうか。シーラッハ氏が弁護士として関わってきた犯罪者、犯罪被害者、同業の関係者、家族、友人、その他の人々の物語を小説という形で、自分の胸のうちから表に出していくことが作家にとっての『刑罰』だったということなのだろうと感じた。

 

 

 

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」北村紗衣・著(書肆侃侃房)-フェミニスト視点で古今東西の小説、映画、舞台を論じる。視点を絞ることで見えてくる作品の新しい世界に興味津々。

 

 

発売前からTwitterで話題になっていて、「なんだか面白そう」と思っていた北村紗衣「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」を読んだ。思っていた通り、いや思っていた以上に面白かった。

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」は、Webメディア『wezzy』の連載を加筆修正したものだ。

wezz-y.com

サブタイトルに「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」とあるように、本書は著者が古今東西の小説、映画、舞台をフェミニストとしての視点で論じている。取り上げているのは、「嵐が丘」「ファイトクラブ」「アナと雪の女王」「わたしを離さないで」など、誰もがよく知っている『名作』とされる作品たちだ。

小説や映画、ドラマや舞台を読んだり観たりして、その感想を文章に残す。今まさに私が書いているレビューは、私がこの本を読んで「楽しかった」「面白かった」と感じたことを感じたとおりに書き残している。これは、面白い、楽しいという感情によって喚起されるものであり、批評的な側面は基本的にはない。

本書は、「面白い」「楽しい」という感情的な見方をスタートとしつつ、『フェミニスト』という視点で作品を読み解いている。フェミニスト批評は著者の専門分野であり、視点を絞って作品に向き合うことで、漫然と読んだり観たりするのとは違う新しい側面を見せてくれる。

フェミニスト視点で見ることで、これほど作品から浮き上がってくる世界観が違って見えるのかと新鮮な驚きがあった。

たとえば「ファイト・クラブ」に関する批評。デヴィット・フィンチャー監督、ブラッド・ピットエドワード・ノートン出演の映画は、男たちが社会への不満のはけ口として『ファイト・クラブ』を組織し、殴り合う場面が印象深い男らしさ全開の映画というイメージがある。著者はこの映画を『とてもロマンティックな映画』と評する。

私は『ファイト・クラブ』は男性中心主義的を賛美する映画ではなく、むしろ伝統的な男らしさを美化する風潮を辛辣に風刺した作品なのではないかと考えています。突飛な解釈に見えるかもしれませんが、私の考えでは、『ファイト・クラブ』は実はとてもロマンティックな映画です。
(ロマンティックな映画としての『ファイト・クラブ』 p.95より)

著者の北村紗衣さんは、『17~18世紀イギリスにおける、シェイクスピアの女性ファン』を研究する研究者だ。シェクスピアを研究しているのではなく、シェイクスピアの女性ファンを研究しているというのが面白い。「シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書」というメチャクチャ面白そうな本も出している。先日『UmeeT』という東大発のオンラインメディアで著者へのインタビュー記事が掲載された。このインタビューが、これまたメチャクチャ面白いので読んでみてほしい。

todai-umeet.com

 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

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シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書

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