タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ふたりのロッテ」エーリヒ・ケストナー・著/池田香代子・訳(岩波書店)-偶然に再会したふたごの姉妹は、秘密の計画で家族を取り戻せるのか?

 

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

 

 

女の子はぎょうぎよく、でもきっぱりと言うと、おちついて。しっかりとステップをおりる。(中略)ふいに、女の子はびっくりして目を見ひらく、ルイーゼをまじまじと見つめている! ルイーゼも目を丸くする。ショックをうけて、新入りの女の子の顔を見ている!

とある夏、ビュール湖のほとりのゼービュールの子どもの家には、夏休みをすごす女の子たちが集まっていました。ウィーンからやってきたルイーゼ・パルフィーもそのひとりです。冒頭に引用したのは、あとからやってきた女の子とはじめて顔をあわせたときの場面の描写になります。

エーリヒ・ケストナーふたりのロッテ」は、両親の離婚ではなればなれになっていた双子の女の子、ルイーゼ・パルフィーとロッテ・ケルナーが偶然に出会ったことで、家族が再生していく物語です。

自分とそっくり同じ顔の人間が突然目の前に現れたら? そのときに冷静でいられる人は少ないのではないでしょうか。私ももし目の前に自分と同じ顔の人間が現れたら、相当にびっくりするでしょう。ましてや、その相手が双子のきょうだいだったとしたら、素直に受け入れるのも難しいと思います。

ルイーゼとロッテも、出会ってすぐのときは互いを敬遠していました。ルイーザは、ロッテにいじわるしたりします。

ふたりが双子と知った周囲のおとなたちは、むりにでもふたりを仲良くさせようとします。ですが、やはり最初はギクシャクしてしまいます。それでも、自分たちが双子だと気づいたふたりは意気投合し、ある秘密の計画を企てるのです。

もともと他人同士の夫婦が、ちょっとした出来事をきっかけに仲違いし離婚してしまうことがあります。そんなとき一番の犠牲者となるのは子どもたちです。ルイーゼとロッテも、両親の離婚によって物心つく前に、ルイーゼは音楽家である父に、ロッテは出版社の画像編集者である母に、それぞれ引き取られてルイーゼはウィーンで、ロッテはミュンヘンで暮らすことになります。

子どもの家で再会したふたりは、互いに入れ替わって、ルイーゼはロッテとしてミュンヘンの母の元へ、ロッテはルイーゼとしてウィーンの父の元へ帰ります。そこでふたりは、それぞれにはじめて別れた親と向き合うことになります。

ルイーゼとロッテの願いは、家族がまた一緒に暮らすことです。でも、それは簡単に実現できることではありません。さまざまな事件が起こります。嫌な人にも出会います。それでも、周囲の人たちは彼女たちを理解し、支えてくれます。

訳者あとがきによれば、「ふたりのロッテ」はケストナーが第二次大戦終戦後に最初に発表した小説だといいます。ナチス政権時代、ファシズムを批判していたために、作家としての活動を禁止され、その著作は焚書の対象になったそうです。そんな苦しい日々を過ごした戦争がおわって最初に書かれた作品が、子ども向けの「ふたりのロッテ」であったということに、ケストナーの作家としての矜持と平和を愛する気持ち、子どもに対する優しさが感じられるように思います。

と、まあ難しいことを書いてしまいましたが、本書はそんな難しいお話ではありません。双子の姉妹が願った幸せは、ふたたび取り戻せるのか。かわいい子どもたちの無邪気さと、ちょっとだけ彼女たちに振り回される大人たちの滑稽さと、そんな人たちの物語を楽しんで読む作品だと思います。

 

 

温又柔、斎藤真理子、中村菜穂、藤井光、藤野可織、松田青子、宮下遼・文/長崎訓子・絵「本にまつわる世界のことば」(創元社)-世界には、本にまつわる言葉が溢れている

 

本にまつわる世界のことば

本にまつわる世界のことば

 

 

私の家には本が溢れている。本棚に入り切らない本が床に積み上がり、その数は日々増殖しているように感じる。

積ん読』という言葉がある。読もうと思って買った本が、読まれないままに部屋中に積み上げられている状態が『積ん読』だ。私の部屋に溢れる本は、すべて『積ん読』本である。この『積ん読』という言葉、もはや世界語になっている。2018年7月には、イギリスBBC「Tsundoku: The art of buying books and never reading them」というタイトルの記事を配信してたりする。

www.bbc.com

積ん読』のように、世界中にある本にまつわる言葉から着想したショートストーリーやエッセイを収録するのが、本書「本にまつわる世界のことば」である。執筆メンバーは、小説家(温又柔、藤野可織、松田青子)、翻訳家(斎藤真理子、藤井光)、研究者(中村菜穂、宮下遼)と多彩で、さらに本書全編を長崎訓子のイラストが彩っている。

世界中に本にまつわる言葉がある。日本語はもちろん、英語、フランス語、ロシア語、中国語、韓国語、アラビア語、などなど。読んでいると、本書では取り上げられていない言語にも、きっと本にまつわる言葉があるんだろうと想像がふくらむ。

本書では、世界中のさまざまな本にまつわる言葉を紹介して、その言葉からインスピレーションを受けた物語やエッセイが書かれている。

たとえば、最初に出てくる言葉はロシア語の「ブクヴォエード」。説明にはこうある。

本の虫。直訳では「文字をたべる」。
内容ではなく文字や形成にこだわる人を皮肉る場合に使うこともある。

この言葉からショートスートリーを創作したのは松田青子。ある男が、毎日お腹いっぱい食事をしてもどんどん痩せていってしまう。食べても食べても痩せる一方で医者にも原因がわからない。ついに骨と皮ばかりになり死を待つだけの身体になった男が、古びた『桜の園』を読んでみると……。

活字中毒者にとって、本を読まないことは食事をとらないことに等しい。また、あまり本は読まないという人でも活字を自分の中に取り入れないことは、知識や経験の不足を招き、精神的な絶食状態を作り出す。『本の虫』になるほど極端ではなくても、言葉を身体に取り入れることは心の健康を保つためには必要なことだ。

英語に「ドッグ・イヤー(Dog-ear)」という言葉がある。

本のページの隅を折り曲げて印をつける行為を指す動詞。
折ったページが犬の耳のような形になることからそう呼ばれる。
子犬時代の柴犬の耳も参照のこと。

本に首輪をつけて散歩に出る。行き先はバスク地方。そこに暮らす人々のことや独立運動をめぐる紛争のことを知る。やがて、私はある言葉に足を止める。その場所で本の耳をペタンと折り、また私は歩き始める。

「ドッグ・イヤー」という言葉からストーリーを紡ぐのは藤井光。本を読んでいて、ちょっとしたフレーズであったり、気になる場面にあたると、忘れないようにそのページの隅を折ったりする。読書とはちょっと気軽な散歩のようなものであり、ときには時間と場所を超越した長い旅路のようなものでもある。本の隅をペタンと折るのは、旅の記録を残すことだ。もっとも、私は『ページを折る』行為が苦手なので、付箋を貼ることにしているけれど。

言葉を知るのは楽しい。本にまつわる言葉だけで、世界中にはこれだけの言葉があるということに驚く。と同時に、なんだか誇らしい気分にもなった。本好きを自認する者として、本書に紹介されているひとつひとつに「うんうん、あるある」と首肯したり、「へえ、そんな言葉があるんだ」と感心したり。

言葉を知るだけでも楽しいが、言葉から生まれた物語やエッセイが楽しみをさらに高めてくれる。小説家や翻訳家が言葉から発想した物語の奥深さ、面白さに浸るのも本書の楽しみ方だと思う。

言葉を知る。言葉から生まれた物語を楽しむ。多様な言葉から多彩な楽しみ方ができる本。本好きにオススメしたい一冊である。

 

 

ジョン・ボイン/原田勝訳「ヒトラーと暮らした少年」(あすなろ書房)-純真な少年がヒトラーと出会ったことで失ったもの。すべてが終わり絶望の中で取り戻したもの。

 

ヒトラーと暮らした少年

ヒトラーと暮らした少年

 

 

少年がヒトラーと出会ったとき、彼はまだ7歳だった。

ヒトラーと暮らした少年」は、7歳の少年だったピエロ(ペーター)が山の上のヒトラーの別荘で暮らすことで、次第に権力に憧れ、ヒトラーという虎の威を借りて傍若無人に振る舞うようになっていく物語だ。

物語の冒頭、ピエロはまだ幼くて、純真無垢な子どもだった。同じアパートに住む生まれつき耳の聞こえないアンシェルと手話で会話する優しい少年だった。

彼を変えるのがヒトラーである。ピエロは、ドイツ風にペーターと呼ばれるようになり、ヒトラーの寵愛を得るようになっていく。そして、ペーター自身も、ヒトラーに憧れ、ヒトラーの権力を傘にして横暴に振る舞うようになっていく。

素直で優しかった少年が、どうして権力に染まってしまったのか。強大な権力者のそばで暮らし、その権力が有するパワーを間近で見ていくことで、少年は自分も権力を有する側の人間であると思い込んだ。世間をよく知らないままに、山の上の別荘という隔離された場所でヒトラーだけを唯一絶対と信じて暮らしてきた少年が、自分にも力があると考えるのは当然のことだったのだ。

しかし、少年はあまりに世間を知らなすぎた。隔離された別荘には、ヒトラーの率いるドイツが戦争で不利な状況にあることが見えなかった。

ある日、突然父が姿を消したように、ヒトラーも少年の前から消えていった。戦争が終わり『武装解除された敵国軍人』として収容所に送られたペーターは、ふたたびピエロに戻る。収容所から解放されたピエロは、紆余曲折を経て、幼い頃に友であったアンシェルと再会する。

〈ぼくらが子どもだったころをおぼえているか〉とピエロはたずねる。

〈ああ、おぼえているよ〉
〈ぼくらはまた、子どものころにもどれるかな?〉

ヒトラーと出会ってしまったことで、ピエロはたくさんのものを失った。友だちも、家族も、自分自身の心も。とてもたくさんのものを失った。戦争が終わり、ヒトラーの存在から離れた彼には深い絶望と深い罪悪感だけが残された。年を経て、懐かしい友とふたたび巡り会えたとき、ピエロは何かを取り戻せただろうか。忘れていた心を取り戻せただろうか。

この物語は、まさに人間の善悪の縮図だ。人間はこうして狂っていく。こうして道を外れていく。だが、何かをきっかけに正しい道を取り戻すことができる。ピエロのこれからの人生にひとすじの光が見える。その光へと続く道が、正しい道であることを信じたいと思う。

 

 

 

栗林佐知編・著/なかちきさ、志賀泉、ほか著「吟醸掌篇vol.3」(けいこう舎)-知らなかった作家の存在に触れ、その才能に触れることの至福を味わえる短篇アンソロジーの第3弾

 

吟醸掌篇vol.3

吟醸掌篇vol.3

  • 作者: なかちきか,志賀泉,空知たゆたさ,久栖博季,岡部篠,愚銀,踏,尾崎日菜子,岩槻優佑,寺田和代,h.c.humsi,斎藤真理子,河内卓,栗林佐知,山?まどか,木村千穂,耳湯,坂本クラシック,こざさりみ,有冨禎子,たらこパンダ
  • 出版社/メーカー: けいこう舎
  • 発売日: 2019/05/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

「吟醸掌篇vol.1」 「吟醸掌篇vol.2」に続く、知る人ぞ知る作家の作品を集めた短篇アンソロジーの第3弾になります。vol.2が2017年8月の刊行でしたから、約2年ぶりですね。

知られてないけどかなりすごい作家と読書人集まりました!

今回の惹句は、ワードとしてもパワフルで、なによりフォントがデカイ! vol.1、vol.2を超える内容になってますよ、という発行人の栗林佐知さんの自信が伺えるような気がします。

表紙は今回も山崎まどかさんのイラスト。モデルは宮沢賢治ですね。過去2冊はパステル調の色使いでしたが、vol.3はモノクロームで落ち着いた感じです。

まずは、「吟醸掌篇vol.3」のラインナップからご紹介します。

■小説
「月の裏側」なかちきさ/画・耳湯
「このからだ微塵に散らばれ」志賀泉/画・坂本クラシック
「かれはなにぞ」久栖博季/画・こざさりみ
「蜂蜜の海を泳ぐ-地上の小魚」尾崎日菜子/画・有富禎子
「蒼の残響、朝の気配」岩槻優佑/画・木村千穂
「おばあさんの島」栗林佐知/画・たらこパンダ

■読書人コラム
わたしの愛する短篇作家③ ロジェ・グルニエ
 難を逃れる人々への賛歌 空知たゆたさ/画・坂本クラシック
去年の読書から
 わたしの短篇ベスト3 岡部篠/愚銀/踏
どこどこ文学の短篇わたしのベスト3
 カリブ海クレオールな文学」篇 寺田和代/h.c.humsi/斎藤真理子/河内卓

 

vol.3の目次をみて、まず興味をそそられたのが『クレオール文学』のコラムです。クレオール文学は、ドミニカやトリニダード・トバゴマルティニーク島など、カリブ海周辺の国や島々を発祥とする作家たちによって書かれた文学で、代表的な作家としてはパトリック・シャモアゾー(「カリブ海偽典」「素晴らしきソリボ」など)、エドウィージ・ダンティカ(「クリック?クラック!」など)などがいます。よほどの海外文学好きでなければ、クレオール文学を知っている人は少ないでしょう。私は、それなりに海外文学を読みますし好きですが、クレオール作家の作品は唯一シャモアゾーの「素晴らしきソリボ」を読んだだけです。ちなみに第二回日本翻訳大賞受賞作です。

s-taka130922.hatenablog.com

 

執筆陣の中で面白かったのは、韓国文学翻訳家の斉藤真理子さんによるコラム「ラフカディオ・ハーンと雪女とクレオール」でした。
ラフカディオ・ハーンは、いわずとしれた小泉八雲のこと。雪女は八雲の「怪談」に登場しますが、その雪女とカリブ海に浮かぶクレオールの島々とは、ずいぶんとギャップのある世界です。

コラムの冒頭で斎藤さんは、ハーンが日本に来る前に2度マルティニーク島に滞在していたことに触れ、その滞在経験がなければ「雪女」は生まれなかったのではないかと続けます。そこからギリシア出身で英語が嫌いだったハーンの母親の存在に話を運び、母との関係、言語との関係を試行錯誤したハーンが、クレオール語マルティニークの女性たちと出会ったことが、その後130年生き続ける彼の作品の中に響き合っていると続けて、3篇の作品を紹介しているのです。

他の方々のコラムからも、クレオール文学の面白さであったり、短篇に対する興味がそそられます。

小説は今回も6篇。vol.1から3号連続で登場の志賀泉さん「このからだ微塵に散らばれ」は、作家のライフワークでもあるフクシマを舞台にした作品です。この作品では、フクシマ以前に起きた世界最悪の原発事故であるチェルノブイリ事故によって故郷をおわれたエミリアという登場人物が、物語のポイントになります。『チェルノブイリの歌姫』と呼ばれる彼女の首に残る傷跡。原発事故の放射線被曝が引き起こすとされる甲状腺がん原発事故と避難生活によってつながりを失った家族。主人公にたったひとつ残された歌姫のコンサートを録音したカセットテープ。終わりの見えない事故の傷跡が、いまでも、そしてこれからも癒えることはないと訴えかけていると感じます。

物語に登場する『チェルノブイリの歌姫』にはモデルがあると著者が後記で紹介しているのは、ナターシャ・グジーというシンガーで、彼女は『ウクライナの歌姫』と呼ばれているそうです。ナターシャもチェルノブイリ事故で故郷を離れたひとり。Youtubeに動画もあるので紹介しておきます。歌声がとても素敵です。

www.youtube.com

2016年にvol.1、2017年にvol.2、2019年にvol.3というペースで刊行されてきた「吟醸掌篇」。vol.4の刊行は1年後になるのか、それとももう少し先になるのか、資金面その他大変なことも多いと思うので、確かなことは言えないかもしれません。私たち読者としては、ゆっくりと、でも期待しながら、vol.4がこの世に生まれてくる日を待っていようと思います。

s-taka130922.hatenablog.com

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

 

栗林佐知編/大原鮎美、志賀泉、ほか著「吟醸掌篇vol.2」(けいこう舎)-知る人ぞ知る作家たちの作品を集めた短篇アンソロジーの第2集。今回も良質な作品が集まっています。

 

吟醸掌篇 vol.2

吟醸掌篇 vol.2

  • 作者: 栗林佐知大原鮎美志賀泉なかちきか坂野五百久栖博季,空知たゆたさ愚銀ともよんだ踏江川盾雄高坂元顕,栗林佐知,山?まどか木村千穂たらこパンダ坂本ラドンセンター,こざさりみ耳湯 PLUMP PLUM
  • 出版社/メーカー: けいこう舎
  • 発売日: 2017/08/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

『ほかでは読めない作家たち、集まりました』の惹句で、ほとんど知られていない作家たちの存在を教えてくれた「吟醸掌篇vol.1」から1年ぶりに刊行された短篇アンソロジーの第2弾になります。

知る人ぞ知る作家たち集まりました!

という惹句とともに表紙を飾るのは坂口安吾をモチーフにした猫。イラストを手がけるのはvol.1と同じく山崎まどかさんです。

吟醸掌篇vol.2」のラインナップは以下の通りです。

■詩と小説
「蜆」大原鮎美/画・たらこパンダ ※詩
「花火なんか見もしなかった」志賀泉/画・坂本ラドンセンター
「ゴンドラドラ」なかちきか/画・木村千穂
「冬芽」坂野五百/画・こざさりみ
「うしをきりとる」久栖博季/画・たらこパンダ
「秋の超音波」栗林佐知/画・耳湯

■紀行の愉しみ
越後駒ヶ岳 滝ハナ沢 高坂元顕/画・PLUMP PLUM

■読書人コラム
わたしの愛する短篇作家② アイザック・シンガー
 記念碑としての文学 空知たゆたさ/画・坂本ラドンセンター
どこどこ文学の短篇わたしのベスト3
 〈朝鮮文学篇〉愚銀
 〈韓国文学篇〉ともよんだ
去年の読書から
 わたしの短篇ベスト3 踏
 わたしのベスト短篇集 江川盾雄

 

vol.1から続いての登場は、小説の志賀泉さんと栗林佐知さん、コラムの空知たゆたささん、江川盾雄さんになります。

vol.2では、紀行文が掲載されているのが新たな取り組み。高坂元顕さんがAAC(AZABU ALPINE CLUB:麻布学園山岳部)の部報「岩燕第10号」に寄せたものです。

小説では、前作に続いてフクシマを舞台に原発事故に翻弄される人々を描く志賀泉さんの「花火なんか見もしなかった」が印象深い。事故から6年ぶりに開催される花火大会の夜に起きるできごと。震災前の小学生時代の思い出と、津波で家を失い、原発事故で故郷を離れたぼくの孤独。そんな彼の孤独に土足で踏み込んでくるように被災地でポケモンGOに興じる若者たち。復興が進み、人々が少しずつ戻り始めているとは言われていても、その胸の内はまだまだ複雑で越えられない何かがあるということを、この作品は語っていると感じます。

坂野五百さんの「冬芽」も印象に残る作品。今回収録された作品の中では一番グッときた作品です。人生の終わり方、老いや介護といった問題との向き合い方、ゆっくりとしっとりと描かれる物語は、読み終わったときに「いい話を読んだ」という充足感がありました。

その他の作品、コラムも読み応えがあり、前作同様にバラエティ豊かな作品が揃っています。

vol.1のレビューでも書きましたが、世の中には私の知らない作家がまだまだこんなにいるんだなと驚かされます。と同時に、新人賞をとったりしてデビューしても作家として生活するのは本当に難しいのだということを実感しました。「吟醸掌篇」の取り組みをこれからも応援したいと思います。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

 

吟醸掌篇 vol.1

吟醸掌篇 vol.1

  • 作者: 志賀泉,山脇千史,柄澤昌幸,小沢真理子,広瀬心二郎,栗林佐知,江川盾雄,空知たゆたさ,たまご猫,山?まどか,木村千穂,有田匡,北沢錨,坂本ラドンセンター,こざさりみ,耳湯
  • 出版社/メーカー: けいこう舎
  • 発売日: 2016/05/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

栗林佐知編/志賀泉、柄澤昌幸、ほか著「吟醸掌篇vol.1」(けいこう舎)-『ほかでは読めない作家』たちによる短編アンソロジー&読書ガイド

 

吟醸掌篇 vol.1

吟醸掌篇 vol.1

  • 作者: 志賀泉,山脇千史,柄澤昌幸,小沢真理子,広瀬心二郎,栗林佐知,江川盾雄,空知たゆたさ,たまご猫,山?まどか,木村千穂,有田匡,北沢錨,坂本ラドンセンター,こざさりみ,耳湯
  • 出版社/メーカー: けいこう舎
  • 発売日: 2016/05/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

ほかでは読めない作家たち、集まりました。

芥川龍之介をモチーフにしたらしき猫のイラストが描かれた横にそんな惹句が書かれた表紙の本書「吟醸掌篇vol.1」は、小説現代新人賞太宰治賞を受賞した作家栗林佐知さんが、新人賞を受賞してデビューしたのにいつの間にか消えてしまったと思われている作家たちも、ちゃんと書き続けているということをわかってもらいたいと立ち上げた短編アンソロジー集の第1号である。栗林さんは、個人で『編集工房けいこう舎』を立ち上げ、原稿集め、校閲、全体構成、挿絵・装幀・コラム原稿の発注、図書コードの取得、その他本書の出版に関わるすべての作業をおひとりでこなしている。(「吟醸掌篇」刊行に至った話やけいこう舎については、けいこう舎のホームページをご参照ください)

ginjosyohen.jimdo.com

吟醸掌篇vol.1」は、2016年4月に刊行された。掲載ラインナップは以下のとおり。

■小説
「いかりのにがさ」志賀泉/画・北沢錨
「陽だまりの幽霊」山脇千史/画・木村千穂
「やすぶしん」柄澤昌幸/画・坂本ラドンセンター
「たまもの」小沢真理子/画・こざさゆみ
「のら」広瀬心二郎/画・こざさゆみ
「海の見えない海辺の部屋」栗林佐知/画・耳湯

■コラム
わたしの愛する短篇作家-コルタサル 空知たゆたさ/画・有田匡
2015年に読んだ短篇ベスト3① たまご猫
2015年に読んだ短篇ベスト3② 江川盾雄

 

正直、たいへん申し訳ないが全員知らない作家だった。巻末の執筆者プロフィールをみると、太宰治賞受賞、オール読物推理小説新人賞最終候補など、大なり小なり文学新人賞で注目された作家のようだが、なかなか執筆や出版の機会には恵まれなかったようだ。

各短篇は、作風も硬軟さまざまでバラエティにとんでいる。中でも気になった作品を二編紹介したい。

志賀泉「いかりのにがさ」は、東日本大震災にともなう福島原発事故で故郷を奪われた家族の物語。避難生活による精神的なストレスとわかりあえない家族間での苛立ちがヒシヒシと伝わる作品だ。著者の志賀さん自身が福島県南相馬市の出身ということもあり、原発事故は故郷を壊し、そこに住む人々の生活を壊した事件である。「編集後記」の中で著者は、「チェルノブイリの祈り」を読んで強い衝撃を受けたと語り、〈個人の真実と全体の真実を両立させるのはもっともむずかしいことです〉というスベトラーナ・アレクシェービッチの言葉を引用し、その困難さはフクシマにもあてはまると記している。そして、個人の真実を描くことで『フクシマを世界文学に!』が自身の仮題であると語っている。

柄澤昌幸「やすぶしん」の主人公は、信州の片田舎にある築三百年の古民家に住み、工場の派遣工員として働く男。彼は、文学賞を受賞したこともある作家だが、作家としての収入では当然ながら食べていくことはできず年老いた母と実家で暮らし、派遣工員をしているのだ。ムラ社会であるがゆえの周囲の過干渉に辟易とし、文学賞を受賞して一度は分断レビューを果たしながら作家としては成功することもなく非正規の派遣工員として糊口をしのぐしかない主人公は、おそらく著者自身であろう。作家を目指し、新人賞を受賞して華々しくデビューできたとしても、作家として成功し食べていけるようになれるのはひと握りである。多くの作家は、「やすぶしん」の主人公のようにいつしか書くことから離れ、平凡だが堅実な人生の方へ向かっていく。夢だけでは生きていけない。実力だけでなく人気もなければ生きていけない世界の厳しさを突きつけられた。

発表の場があれば、その実力を開陳できる。しかし、限られた商業出版の枠の中には、彼らのために用意できる椅子の数は少ない。発表の場がなければ作家は読者から忘れられ、そのまま消えていくことになる。「吟醸掌篇」に掲載されている6人も、そういう不遇を過ごしてきた作家たちである。

「このままで本当に消えてしまう。でも、私たちはまだ書いている!」という叫びが、本書から立ち上がってくる。作家とは書くことによって自己を表現するのが仕事だ。そのプライドのようなものが、それぞれの作品にはこめられているようにも思える。発表の場を得られた作家たちは、自らの表現力を最大限に発揮し、すべてを作品にこめたのだろう。その迫力が、読者を圧倒する。

あまり知られていない作家の作品なので、読者としては「大丈夫かな。面白いのかな」という不安を感じる。私自身も読み始める前は、それほど期待していなかった。実際には、先述のようにそれぞれの短篇に圧倒され、こんな作家がいたんだという驚きがあった。きっと他にも、私の知らない作家がいるのだろうという期待も覚えた。知らない作家を知ることの喜び、まだ見ぬ作家に対する期待感。だから読書は面白い。

 

 

カトリーヌ・カストロ原作、カンタン・ズゥティオン作画/原正人訳「ナタンと呼んで 少女の身体で生まれた少年」(花伝社)-フランス発のバンド・デシネ。身体と心の性にギャップを感じるトランスジェンダーについて、その悩みや苦しみを知り、理解するために必要な作品。

 

ナタンと呼んで―少女の身体で生まれた少年

ナタンと呼んで―少女の身体で生まれた少年

 

 

「ナタンと呼んで」の主人公リラ・モリナは、自分の身体に違和感を感じている。自らの身体と心の性の不一致に関する違和感だ。

リラは、見た目の性と自認する性にギャップがあるトランスジェンダーだ。彼女の場合は、身体は女性だが心は男性となる。その身体と心のギャップが彼女を苦しめる。大きくなっていく胸、やがてはじまる生理。女性らしい服装や髪型に対する嫌悪感。女の子として扱われることへの憤り。身体がどんどん『女性らしさ』を得ていくほどに、リラの抱える違和感、嫌悪感は増していく。

なんだよ、これ?

ままならない自分の身体への違和感と思春期の苛立ちから、リラは反抗的な態度で周囲と接してしまう。自分に対する嫌悪から、リストカットを繰り返すようになっていく。そうした彼女の苛立ちや嫌悪が、カンタン・ズゥティオンの描く絵からヒシヒシと伝わってくる。

リラは、悩み苦しんだ末に両親に自分の気持ちを叩きつける。

オレは男なの!
男なんだよ!!
オレは女じゃない!!
娘じゃないんだ

そして、彼女は言う。

これからはナタンって呼んで

と。

娘の突然の告白に両親は困惑する。それでも、リラが性別適合手術とホルモン治療を受けて男性の身体を手に入れていくと、少しずつ娘リラを息子ナタンとして受け入れるようになっていく。

LGBTという言葉が広く認知されるようになっても、ナタンのような人たちにとって、まだこの社会は生きにくい。本書を読んで、そう感じた。家族も友人も、頭ではナタンを理解しようとしても、感情の困惑は拭いきれない。身近な人たちでも困惑してしまう状況で、広く理解を得ることは難しい。

巻末の訳者解説によれば、この物語は実在のトランスジェンダーをモデルにして描かれている。邦訳版には記されていないが、原著では作者のカトリーヌ・カストロによる「この物語の本当の登場人物たちは匿名であることを望んでいる」との謝辞があるという。

「匿名を望む」ということは、やはり、トランスジェンダーであることを実名でカミングアウトすることには抵抗があったということだろう。それは、LGBT問題に先進的と思われるフランスであっても、当事者がカミングアウトすることが容易ではないことを示している。

その後、モデルとなったルカという少年は自らテレビに出演し、本書が実在の自分を描いていることをカミングアウトした。ルカの顔写真が本書の帯に掲載されている。彼がどれほどの勇気をもって人前に立とうと決心したのか、その勇気を人々がどう受け止めたのか。それは、彼のカミングアウトをきっかけにして本書がそれまで以上に話題になったという事実が物語っていると思う。

私には、リラ=ナタンの苛立ちや不安、嫌悪に共感することはできない。それは、LGBTを否定するわけではなくて、彼らの心情に自分をシンクロさせるのが難しいということだ。私にできるのは、彼らを理解することだと思う。共感は難しくても、LGBTを知ること理解することはできるはずだ。

相手を知り、理解することは、LGBTに限らず、すべてについて共通することだと思う。本書を、自分にとって、LGBTを理解するための一歩にしていきたいと思う。