タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

ハン・ガン/斎藤真理子訳「すべての、白いものたちの」(河出書房新社)-白きもの、それは、儚くて、柔らかくて、優しくて、少し怖い

 

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小説というよりは、ひとつひとつが美しい詩歌のような、胸にじんわりと染み入ってくるような作品だと感じた。

そう、これは『作品』だ。「小説」であり「物語」でありながら「小説」でも「物語」でもない。『作品』なのである。

芸術的といってよいだろう。美しく刻まれた言葉には、儚い息づかいが感じられ、柔らかい空気の流れを感じる。夢のように幻想的な感覚があれば、スッと首筋を撫であげるようなゾクリとする感覚もある。ひとうひとつの言葉に、ひとつひとつ違った感触がある。

『白』は、なぜこんなにも儚くて柔らかいのか。
『白』は、なぜこんなにも優しくて怖いのか。

『白』は命の象徴であり、「生」と「死」をあらわしている。

生まれくる無垢なる命には、生きるための「白」がみえる。何者にも染められていない無垢なる「白」は、未来の希望を描くための真っ白なキャンバスのようだ。この世に生を得た者は、その身を汚れのない白いおくるみにくるまれ、健やかに呼吸を繰り返す。

死にゆく者の行く末に見えるのも「白」だ。生まれてすぐに死んでいったという姉の存在も、40歳にも満たない若さでアルコールの海に溺れて死んだ叔父の存在も、死んだ者たちの人生は白く塗りつぶされる。なぜなら、彼らの思い出は残された者によって書き換えられるものだから。はっきりと書かれてはいないけれど、死とは新たに生まれ直すこととすれば、「死」は「白」へと通じる。

この『作品』には、さまざまな白きものが存在する。ドア、産着、霧、タルトック、息、白木蓮、白髪。

無機質な「白」にハン・ガンは言葉を与える。言葉を与えられた「白」は、命を与えられ、意味を与えられる。そして、「白」は物語となる。私たちは、作家が「白」から生み出した物語を読み、その意味をそれぞれのイメージとして形にする。

観念的で抽象的な言葉でしか、この気持ちを表現できない。単純に「感動した」とは記したくない。だけど、私にはハン・ガンのように言葉に命を与えるとはできない。それでも、どうにか言葉をつむいでみれば、抽象的で曖昧な、奇妙な文章が生まれる。

もう無理はやめておこう。この作品を語るのに、これ以上おかしな言葉を費やす必要はない。儚くて、柔らかくて、優しくて、少し怖い。ハン・ガンのつむぐ美しい言葉が生み出した命をゆっくりと味わってください。

 

すべての、白いものたちの

すべての、白いものたちの

 
すべての、白いものたちの

すべての、白いものたちの

 

 

チョ・ナムジュ/斎藤真理子訳「82年生まれ、キム・ジヨン」(筑摩書房)-どれだけ理解したつもりでも、どこかに男性目線のバイアスが生まれる。キム・ジヨンを診察しカルテを記した精神科医と私は『同じ穴の狢』なのだ

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韓国で100万部を突破する大ベストセラーとなり、日本でも2018年12月に刊行後10万部を超えるベストセラーとなった話題の本である。

キム・ジヨン氏、三十三歳。三年前に結婚し、昨年、女の子を出産した。

こんな、ちょっと無機質とも思える書き出しで物語は始まる。この書き出しには理由があって、本書はキム・ジヨンを診察する精神科医のカルテという形態をとっているからだ。キム・ジヨンは、あるときから友人や母親の人格が憑依したような言動を繰り返すようになり、精神科のカウンセリングに通っている。カウンセリングの中で語られたキム・ジヨンの生い立ちが記録され、物語となっていく。その中で、彼女が精神的に壊れていく要因がみえてくる。

彼女が壊れていった理由は、彼女が女性であるということだ。韓国社会が抱える女性に対する理不尽や不平等が彼女をジワジワと苦しめ、過剰にストレスを与え、たまり続けたストレスはやがて表面張力を失って心のコップから溢れ落ちる。

  • 家庭でも学校でも優遇されるのは男の子で、女の子は常に我慢を強いられる
  • 仕事でどれだけ頑張って評価されても、出世するのは自分より評価の劣る男性社員ばかり
  • 結婚すれば跡取りとなる男子を産むことが求められ、女の子が産まれれば落胆される

こうして書いてみると、理不尽以外に言葉がみつからない。そして、私たち男性が当たり前のように過ごしている日常で女性と無意識に接してきたこと、彼女たちのつらさに思いが至らなかったことを恥じた。

だが一方で、彼女たちが過敏になりすぎているのでは?と感じるところもあった。たとえば、兄弟姉妹の中では長男がチヤホヤされるのは、彼が将来跡継ぎとして担う責任を考えれば致し方ない部分もあるのではないだろうか。でも、そう考えてしまうことが、無意識に家父長制というしがらみに囚われてしまっているということかもしれない。

あらゆる場面で、女性が男性より低く見られたり扱われたりすることは多い。日本でも韓国でもその他諸外国でも、そういう理不尽で不平等な環境を改善するために、女性たちは声をあげ続けてきた。その声が届いて女性の地位が改善したところもあれば、日本や韓国のように彼女たちの声を全力で叩き潰そうとしたり無視したりするところもある。

本書が韓国で大ヒットしたり、日本でも翻訳小説としては異例の10万部を超えるベストセラーとなっているのも、女性たちの支持があったからだ。男性たちの中にも、現状に問題を感じ、この本に共感した人も多いはずだ。訳者あとがきには、本社が大ヒットした理由について著者自身が「進歩的な考えを持つ男性たちが、この問題は男性が知らなくてはいけないと考えて読んだ」ことをひとつの要因としてあげていることを記している。

私は自分が『進歩的』な男性だとは思っていない。むしろ昭和生まれで前時代的な考えにとらわれた古臭いタイプの人間だと思っている。だから、本書を読むときも反発心が起こるのではないかと思いながら読んだ。だが、読めば読むほど自分を恥じる気持ちが強くなった。

  • 自分は無意識に女性を蔑んでみてしまっているのではないか
  • 何気ない言葉が女性を傷つけ、悲しませているのではないか
  • 女性が社会的な地位を確立していくことに理不尽に嫉妬しているのではないか

そういう考えが次々と湧き上がってきた。そう考えられることが『進歩的』というのなら私は進歩的な男性なのかもしれないが、当たり前の感受性を持っていれば、進歩的であろうがなかろうが、男性の傲慢さを思い知らされ恥じ入る気持ちになるはずだとも思う。

この本のレビューを男性が書くことは正直難しいと感じた。どんな言葉を使っても、結局男性は男性としての視点でしか物事を考えられない。男性の視点でこの本を評価すれば、共感であろうが反感であろうが、どちらにしても本当の意味での共感や反感にはならないと思う。

こうして書き連ねた私のレビューも、男性視点というバイアスが存在した上で書かれたものだ。「この本の本質がわかっていない」「理解したフリをしているだけ」なのかもしれない。キム・ジヨンの苦しみを理解したかのようにカルテを記して悦に入っている精神科医と私は『同じ穴の狢』なのである。

鹿子裕文「へろへろ~雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々」(ナナロク社、筑摩書房(文庫))-読んでいる間は、ただただ笑っていた。でもそれで終わりじゃなかった。読み終わったときには胸に深く刻まれるものが残されていた。

 

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々

 

 

 

ナナロク社版の「へろへろ」を購入したのは、2月の「本を贈る展」だった。その後、すぐに読み始めることはなく、しばらく時間をおいているうちに、本書が筑摩書房で文庫化された。ちくま文庫版には、「文庫版あとがき」「下村恵美子が「よりあい」を去った日」と、橙書店の田尻久子さんの解説「物語はおわらない」が追加収録されている。なので、ちくま文庫版も買った。(@ときわ書房志津ステーションビル店)

で、文庫も発売された3月の半ば近くになって本書を手にとった。

読みはじめていきなり鷲掴みにされた。書き出しが自分の想像のはるか上空、成層圏を突き抜けて宇宙の彼方までぶっとんでいたからだ。

本書は、高齢者介護施設を舞台にしたノンフィクションである。たぶんそうだと思う。福岡に実在する『宅老所よりあい』がいかにして生まれ、どのような苦労の中で運営されているのかの記録だ、と思う。思うのだが、読んでいるとそんな堅苦しいイメージはガラガラと音を立てて崩れていく。そして、顔にはニヤニヤとした笑いが浮かび、それが次第に大きくなり、爆笑へと成長していくのだ。

最初から最後まで笑いっぱなしだった。鹿子さんの文章が面白いのは当たり前なのだが、やはり登場人物たちのキャラクターが際立っている。これが創作小説だったら、登場人物たちは“キャラが立っている”と評するところだろう。しかし、本書はノンフィクションである。登場人物はすべて実在の人物なのである。『宅老所よりあい』を立ち上げた下村恵美子さんも村瀬孝生さんも、下村さんが宅老所をつくるきっかけとなった大場ノブヲさんという強烈なばあさまも、出てくる人はみんなみんなこの世に実在している(いた)のだ。

読者を圧倒する強烈な登場人物たちは、やることなすことすべて型破りだ。

高齢者介護について、私たちには固定したイメージがある。介護の仕事は、人の命を預かる責任ある仕事だ。仕事の内容も厳しくキツイ。それなのに給料は安い。そういうイメージだ。

ところが、この本にはネガティブな部分がほとんど出てこない。運営資金には相当に苦労しているし、認知症の老人たちを相手にした介護の仕事が大変なことも書かれている。書かれているが、彼らは常に明るくて前向きなのだ。下村さんの好きな歌のフレーズを借りれば、まさに「ケ・セラ・セラ~ なるようになるわ~」なのである。

毅然としてぼけ、下の世話も覚束なくなっても「死ぬ覚悟はできている!」と言い張る大場ノブヲさんに会ったときも。
最初のデイサービス施設をつくるときに800万円の費用が必要だとわかったときも。
特養施設の補助金申請に悪戦苦闘しているときも。

どんな苦しい場面でも『宅老所よりあい』に関わるメンバーは、ケ・セラ・セラ~と乗り越えていく。手作りのジャムをバザーで売ったり、チャリティコンサートを開いたり、寄付を募って歩いたりして資金を稼ぐし、デイサービスに集まる老人たちとは人間として接する。

なんとパワフルな人たちなのか。ゲラゲラと笑って読みながら、私は心から下村さんたちを尊敬していった。彼らの取り組みに喝采をおくりたくなった。

一方で危惧することもあった。さきほど書いたように介護の仕事は安月給でキツイ仕事だ。多くの施設でヘルパーさんたちは、身体的にも精神的にもつらい仕事をこなしている。施設の運営資金も慢性的に不足しているだろう。介護の仕事が人間の命にかかわる重要で責任の重い仕事なのに、それに報いるような環境ができていないのは間違いなく国の責任だ。国が責任をもって彼らに手厚い環境を整備しなければならないはずだ。

しかし、本書を読むと「運営資金のことも、介護の仕事のことも、現場のやる気と創意工夫でなんとかなる」という考えが浮かんできてしまう。私が危惧するのはそこだ。『宅老所よりあい』の事例が全国の高齢者介護施設に当てはめられるわけではないのに、『よりあい』でできたことがなぜ他の施設ではできないのか。やる気がないのではないか。と思われてしまうのではないかと懸念してしまうのだ。

『よりあい』の人たちの話は、勇気と希望を与えてくれる。介護の現場のつらさを吹き飛ばしてくれる楽しさがある。「一人の困ったお年寄りから始まる」という行動理念を基本姿勢とする『よりあい』の取り組みは、全国の施設が参考にするべきだろうし、施設で働く人が仕事を楽しめてこそ、そこに集う老人たちも幸せに過ごせるのだと思う。

でも、これだけは書いておきたい。『宅老所よりあい』は、きわめて稀なケースなのだ。全国の施設がすべて、ケ・セラ・セラ~でなるようになるわけではないのだ。そこは勘違いしてはいけないと思う。頑張ることは大切だ。それ以上に、私も含め行政や市民が彼らを知ること。そして、支えることがもっと大切なのだと思う。

 

 

J・G・バラード/南山宏「ハロー、アメリカ」(東京創元社)-アメリカ崩壊から1世紀。荒廃し砂漠と化した大地が見せつける人間の狂気。

 

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イギリスから大西洋を横断してアメリカ大陸を目指した蒸気船アポロ号がマンハッタン島に到着する場面からJ・G・バラードのSF長編「ハロー、アメリカ」は始まる。

書き出しからは、この物語の時代設定がアメリカ大陸がコロンブスによって新大陸として発見され、ヨーロッパからの移民が海を渡りだした17世紀頃のように思われるかもしれない。だが、読み進めていくとすぐに違うことに気づく。物語は、22世紀が舞台なのだ。そして、アメリカは20世紀に最高の栄華を極めた後、衰退し崩壊していた。1999年にアメリカの油井から原油が掘り尽くされ、アメリカはエネルギー危機を迎える。代替エネルギーの確保もままならず、国家は衰退していく。人々はアメリカを捨て、ヨーロッパや他の国に移住する。エネルギー問題を端緒として、さまざまに世界が歪みだすという構図は、非リアルではあるが、どこかでリアルを感じるところもある。

本書に描かれるのは、アメリカが崩壊した1世紀ほど後の時代である。主人公は蒸気船アポロ号の密航者ウェイン。彼は、自分がアメリカを建て直し第45代大統領としてたつことを夢見る。彼はアポロ号の船長たちと西を目指して移動する。彼らの行く手には、1世紀前に大陸に残された人々の末裔がいくつかの部族をつくって暮らしている。広大な砂漠が地上を覆いつくした世界は、アメリカが打ち捨てられた不毛の土地となっていることを表している。

西へ西へと向かうウェインたちは、やがて砂漠の中にきらびやかな街を発見する。そこは、かつてのアメリカの栄華の象徴でもあった場所ラスヴェガスだ。そこでウェインたちは、第45代アメリカ大統領を名乗るマンソンという人物と出会う。

1981年に刊行された本書は、バラードが描き出すアメリカの未来像である。本書でアメリカが崩壊する原因となったのがエネルギー問題だ。1970年代に中東戦争の影響などから日本でもオイルショックが起きて、エネルギー問題が顕在化した。石油や石炭、天然ガスなどの化石燃料は数十年以内に枯渇するとの予測がたてられ、原子力の利用などが模索された。ただ、私が子どもの頃から「もうすぐ無くなる」と言われ続けている石油や天然ガスは、2019年に至る今でも枯れることなく供給されていて、枯渇する気配もない。

バラードは、現実に化石燃料が枯渇したアメリカを衰退させ、崩壊させた。そして、およそ100年が過ぎて、また当たらなフロンティアをアメリカ大陸に送り出し、彼らが崩壊し荒廃したアメリカの大地で見せつける狂った世界を描き出した。マンソンが見せる狂気は、人間の弱さであり、閉塞した世界によってあぶり出される恐怖でもある。一方で、狂気と対峙し希望を見出そうとするラストの場面もまた、人間が有する強さであり、勇気である。

バラードの作品を読むのは本書がはじめてである。SFをあまり読み慣れていないので、どこまで本書を読めているのかはわからない。それでも、十分に楽しむことができた。『はじめての海外文学vol.4』で岡和田晃さんが推薦している作品である。そういう意味では、海外SF初心者にもわかりやすい作品なのだと思う。

 

ペネロピ・フィッツジェラルド/山本やよい訳「ブックショップ」(ハーパーコリンズ・ジャパン)-海辺の街に小さな本屋を開くのが彼女の夢。ほんのささやかな夢だった。

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本書は、映画「マイブックショップ」の原作である。著者のペネロピ・フィッツジェラルドは、1916年に生まれ、2000年に83歳で亡くなっている。作家としてのデビューは60歳に近くなってからだが、1979年に「テムズ河の人々」でブッカー賞をしていて、「ブックショップ」は1978年にブッカー賞候補になっている。

舞台は、イギリス郊外の海辺の町ハードバラ。1959年、その町にある『オールドハウス』と呼ばれる古い家で書店を開業しようと考えているフローレンス・グリーンが主人公である。

ハードバラに書店を開くことは、けっして順風満帆なことではない。

1959年、ハードバラにはフィッシュ&チップスの店も、コインランドリーも、映画館もなく、隔週の土曜日の夜に町役場で映画が上映されるだけだったので、町の人々はそうしたものを望んでいたが、書店のオープンを望む者はいなかったし、フローレンスがそれを考えていようとは、誰一人想像していなかった。

本書がはじまってすぐに、読者はフローレンスの前途が相当に厳しいものになるであろうことに気づかされる。オールドハウスを購入し書店を開業するための資金の貸付を銀行はなかなか認めてくれないし、オールドハウスを巡っては町の権力者であるガマート夫人が絡んでくる。夫人は、オールドハウスを芸術センターにするから別の場所で開業するようフローレンスに告げる。フローレンスはそれを断り、オールドハウスでの開業にこだわる。

フローレンスとガマート夫人の対立を軸に、ふたりの周囲にはさまざまなタイプの人物が登場してくる。

オールドハウスを巡ってフローレンスと対立するガマート夫人。
BBCで働いているらしい怪しげなマイロ・ノースという男。
何年も自宅に引きこもったままひっそりと暮らしているブランディッシュ氏という老紳士。
フローレンスの店を手伝うクリスティーン・ギッピングという少女。

それぞれが個性的であり、ある者はフローレンスと対立し、ある者はフローレンスをサポートする。

こうして彼女はオールドハウス書店を開業する。開業してからも、オールドハウスに固執するガマート夫人はどうにかフローレンスを追い出そうと画策する。フローレンスは、そのたびに問題を乗り越え、自らの店を守ろうとするが、ガマート夫人のように町に影響力をもつ人間と闘うのは厳しい。フローレンスのささやかな夢は、少しずつ、だが確実に壊されていく。

この本を読む人の多くは、本が好きだし、本屋が好きなのだと思う。そんな読者にとって、この物語はどのように読まれるのだろうか。全編にわたって寒々しく光のささないハードバラの風景は、町からも人からも温もりを感じさせない。フローレンスは、たったひとりで闘っているようにみえる。ブランディッシュ氏をのぞいて、誰もオールドハウス書店を守ろうとはしないが、一方でガマート夫人をのぞいて積極的に妨害する人もいない。町の人たちは、事のなりゆきを見ているだけの傍観者でしかないのだ。

本書のラストは、ある意味で落ち着くところに落ち着いたラストと言えるかもしれない。幸せな終わり方とは言えない。フローレンスの未来がどうなっていくのかもわからない。後味が悪いと感じる読者もいるかもしれない。ひっそり静かに幕を下ろしたように感じる読者もいるかもしれない。

冒頭に書いたように、本書は映画「マイブックショップ」(監督・脚本:イザベル・コイシュ、主演:エミリー・モーティマー)の原作である。映画は、原作を基本としつつアレンジされていて、作中人物の役割だったり、原作には登場しないブラッドベリ作品が重要なアイテムになっていたりする。また、ラストも原作にはないアレンジが施されている。

原作と映画でどんな違いがあるのか。どんな印象を受けるのか。私は、少しモヤモヤしたところがあるものの、原作にはない希望を映画では感じることができた。他の人がどんな印象を受けるのか、とても興味深い。

***以下、映画のネタバレが含まれます。***

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吉澤康子+和爾桃子編訳/アーサー・ラッカム挿絵「夜ふけに読みたい不思議なイギリスのおとぎ話」(平凡社)-子どもの頃、寝る前に読み聞かせてもらったおとぎ話。そんな気分でゆっくり楽しみたい一冊です。(一気読みしちゃったけど)

 

 

赤ずきんちゃん」「さんびきの子豚」「ジャックと豆の木」などなど、子どもの頃に読み聞かせてもらったり、絵本で読んだりしたおとぎ話を19編収録しています。編訳は翻訳家の吉澤康子さんと和爾桃子さんです。案内役として登場するねこのチェシャとチェッコもカワイイです。

収録されているおとぎ話には、冒頭に紹介したように誰もが子どもの頃に聞いたり読んだりした有名なおはなしもありますし、あまり知られていないおはなしもあります。知っているおはなしでも、子どもの頃に読んだ内容と全然印象が違っているおはなしもあります。「さんびきの子豚」や「赤ずきんちゃん」は、読んで思わず「知ってるのと違う!」と(心の中で)叫んでしまいました。

大人向け、というか子ども向けにアレンジしていないおとぎ話を読んで感じるのは、おとぎ話は想像以上に残酷だし、期待以上に示唆に富んでいるということです。本書に収録されている19編の中にも、残酷なおはなしがあります。けっこう頻繁に登場人物は死んでしまうし、首をちょん切られたりします。本書では、そういう残酷なシーンが含まれているなどの配慮が必要なおはなしには目次で『☆』のマークがついています。

残酷なおはなしばかりではありません。継母にいじめられていた娘が最後には幸せを掴むおはなしや、不器用でみんなにはバカにされているけど正直に生きていれば報われるおはなしがあります。いろいろなタイプのおはなしが楽しめるのも、おとぎ話の良さなのだと思います。面白く読んで、読み終わったときに何かに気づける。それが、おとぎ話なのだと思います。

読んでいて印象に残ったおはなしは「めんどりペニー」です。

ある日、めんどりペニーが干し草を積んだ庭で小麦をつっついていると、ポコッ! どんぐりが頭に落ちてきました。

と始まるおはなしで、どんぐりに驚いためんどりペニーが「たいへんだ、空が落ちてくる」と王さまに知らせに行こうとする道中を描いています。めんどりペニーがとことこ歩いていくと、おんどりロッキー、アヒルのダドルズ、ガチョウのプーシー、七面鳥のラーキーが次々と加わっていきます。仲間が増えるたびに「めんどりペニーとおんどりロッキーとアヒルのダドルズと、ガチョウのプーシーと七面鳥のラーキー」と全員の名前を呼ぶので、その繰り返しが面白いのです。私は「めんどりペニー」を読みながら、『落語の「寿限無」みたいだな』と感じていました。読み聞かせをするなら「めんどりペニー」が一番面白いと思います。

おとぎ話の数々をより楽しくしているのが、アーサー・ラッカムによる挿絵です。特徴的な挿絵によって、おとぎ話の世界観や登場人物たちの表情がイメージできるのが魅力的です。

アーサー・ラッカムは、今から150年くらい前の1867年にイギリスで生まれた挿絵画家で、本書に収録されているおとぎ話の挿絵の他にも「不思議の国のアリス」の挿絵を描いたりもしています。本書の案内役チェシャとチェッコは、ラッカムの飼いねこの名前です。ラッカムとねこの写真も本書には掲載されています。

『夜ふけに読みたい』とありますから、おはなしをひとつずつゆっくりと楽しみたいところです。でも、ひとつおはなしを読み終えると「次のおはなしはどんな内容なんだろう?」と気になってしまって、ついついやめられなくなってしまう。なので、1回めは一気にドーンと読んでしまって、あとからお気に入りのおはなしをひとつひとつ読み返してみる。そんな読み方をオススメしたいです。

コリン・アダムス/小宮太郎訳「ゾンビ対数学~数学なしでは生き残れない」(技術評論社)-発生当初、ゾンビは指数関数的に増加します。しかし、エサとなる人間の数が減少すればゾンビは減少に転じ、ゾンビの減少によって人間の数が増加に転じます。これはすべて数学的に説明できます。

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まず最初にお断りしておかなければいけない。本書をゾンビが出てくるスプラッターなホラー小説として期待するのはやめておいたほうがいい。頑張って読むというのを無理に止めるつもりはないので、読む読まないは個人の自由だが、たぶん途中でつらくなると思う。

本書「ゾンビ対数学」は数学書である。ゾンビが登場するしホラー的な要素もあるが、軸は数学、それも微分積分にある。内容はこんな感じ。

・関数 f(x) の導関数 f'(x) は、そのグラフの位置 x における接線の傾きに等しい。

・ある時刻 t におけるゾンビの数を Z とすると Z は以下の数式で算出できる。

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・ゾンビと人間の共存性については、捕食者と被食者の関係から、ロトカ-ヴォルテラ・モデル(捕食-被食モデル)によって求めることができる。

 

微分積分、代数、統計学などの数学や物理の基本的な知識があれば、本書はそれなりに面白いだろう。高校2,3年生くらいの知識だろうか。ただ、専攻が文系だったという方だと厳しいかもしれない。なにしろ、本文中には数式や数学用語が頻出する。数学書なのだから当たり前だ。なので、最初に断ったとおり、ホラー小説として読むのはやめておいたほうがいい。

一応ストーリーはあるので簡単に説明しておくと、主人公はクライグ・ウィリアムズというロバーツ大学数学科教授である。彼が授業をしているとチャーリーという生徒が遅刻して教室にやってくる。どうも様子がおかしい。チャーリーは、ミーガンという生徒の首に喰らいついたのだ。たちまちパニックになる教室。チャーリーはゾンビになっていた。そしてミーガンも。クライグは、大学に残っていた事務員のマーシャ、生物学科教授のジェシー、同じ数学科教授のオスカー、学生のアンガスらとともに、どうしたらゾンビと戦い、生き残れるかを数学の知識をフル活用して導き出していく。果たして彼らは生き残れるのか。そして人類の未来はどうなってしまうのか。

ネタバレ云々するような本ではないと思うので結末を明かしてしまうと、ゾンビと人間は捕食-被食モデルの関係から互いに増加と減少を繰り返しながら、程よいバランスの中で共存することになる。クライグたちは、ゾンビの習性(直進方向にしか進まない、寒さに弱い、など)を理解し、効率よくゾンビから逃れる手段を身につけていく。

面白いのは、ゾンビが人間を捕食する存在であっても、捕食によって人間を絶滅に追いやる存在には至らないところだ。本書では、ゾンビは死者が蘇った存在ではなく生き物であるとしている。生き物であるから活動にはエネルギー源が必要であり、それが人間の肉だ。なので、ゾンビに襲われた人間は、感染してゾンビになる場合もあれば、ゾンビの食料として食い殺される場合もある。

捕食-被食の関係の中で、捕食者であるゾンビが指数関数的に増加したとしても、食料となる人間が減少すればゾンビの増加も頭打ちとなり、そこからは減少に転じる。食料がなくなればゾンビといえども飢えて死ぬしかない。ゾンビが減少すれば、天敵がいなくなるので人間の方が増加に転じる。だが、ある程度まで増えていくとゾンビのエサが増えることになるので、今度はゾンビが増加に転じ人間は減少する。

数学嫌いの人は、「数学なんか勉強しても社会に出たら役に立たない!」と力説する。だが、本書を読む限りでは、あらゆることはすべて数学によって説明できるし、数学によって解決できる。

「数学って素晴らしい!」「数学最高」となるかは不明だが、数学が何かの役に立つものだということはわかったような気がする。