タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

エヴァ・イボットソン/三辺律子訳「クラーケンの島」(偕成社)-地図にものらない秘密の島は怪物たちの楽園。島を存続させるため、おばさんたちはある一計を案じるのですが...

 

クラーケンの島

クラーケンの島

 

 

エヴァ・イボットソン「クラーケンの島」は、秘密の島で生き物たちの世話をして暮らす3人のおばさんたち(エッタ、コーラル、マートル)が、自分たちがいなくなったあとも島を守ってくれる後継者を探すために、ある大胆な計画をめぐらすところからはじまります。

彼女たちが考えたのは、若くて丈夫で学ぼうという気力ある子どもを誘拐して島に連れてくるというものでした。立派な犯罪ですが、彼女たちにとってはやむを得ないことなのです。こうして3人のおばさんはロンドンへ向かいます。そして、3人の子ども(ミネット、ファビオ、ランバート)を島に連れ帰りました。

ミネットは、仲の悪い両親の間で悲しい思いをしている少女です。父親の住むエジンバラと母親の住むロンドンの間を行き来していて、移動の間に幸せな自分を妄想することだけが癒やしの時間という少女です。

ファビオは、お金持ちで厳格な祖父母の世話でとても厳しい寄宿学校に入れられてしまったブラジルの少年です。彼は、寄宿学校での生活がつらくてたまりません。ブラジル生まれの少年にとって、イギリスでの暮らしはなじめないことばかりなのです。

3人目のランバートは、他のふたりとはちょっと違う子どもです。彼は金儲けしか頭にない父スプロット氏に甘やかされて育ったので、それはそれはわがままな少年です。なぜ彼が『選ばれし3人』に入っているのか? 彼はマートルのちょっとした手違いで島へ連れてこられたのでした。

ミネットとファビオは、最初は自分たちを誘拐したおばさんたちを憎み、どうにかして島を脱出したいと考えます。でも、おばさんたちは、彼らの親に身代金を要求するわけでもなく、手荒に扱ったりもしません。島の仕事については厳しい面もありますが、それは子どもたちを自分の後継者として育てようとしているから。そのことに気づいたミネットとファビオは、いつしか島の仕事が好きになっていきます。そして、100年に一度現れるという伝説のクラーケンに出会います。しかも、クラーケンの息子の世話をすることになるのです。(ちなみにランバートは誘拐された恐怖と持ち前のわがままぶりで完全に厄介者になっています)

一方、子どもたちが誘拐されたロンドンでは、事件が大きな騒動になっています。だけど、子どもたちの身の安全を真剣に考えて心配しているような家族は誰もいないのです。ミネットの両親も、ファビオの祖父母も、自分たちのことしか見えていないのです。子どものことを考えているように見せているだけなのです。

一番強欲なのはランバートの父スプロット氏でした。彼は、息子がようやくかけてきた携帯電話の連絡内容から、秘密の島に金儲けの種がわんさかと転がっていることを知ります。どうにかして島を手に入れようと画策し、あくどい方法で実現させようとします。

イボットソンの作品では、2018年末にレビューした「リックとさまよえる幽霊たち」を読んだだけですが、「リックとさまよえる幽霊たち」と「クラーケンの島」には共通点があります。それは、人間の残酷さと人間によって生きる場所を失った生き物たちの悲しさです。

「リックとさまよえる幽霊たち」では、人間が次々と都市開発を進めたことで安住の場所を失った幽霊たちのために『幽霊のサンクチュアリ』を作ろうと少年が奔走します。少年の純真な気持ちを踏みにじるのも、幽霊たちが平和にとりつける安住の場所を奪うのも、欲にまみれ、エゴをむき出しにした人間の大人たちです。

本書でも、人間の大人たちは、欲にまみれ、互いにいがみ合い、自然を壊して生き物たちの安住の場所を奪う存在として描かれています。「クラーケンの島」で分別もあり優しい大人は、エッタとコーラルとマートル、そしてドロシーだけです。彼女たちは、他の大人たちとは正反対の人間です。ミネットの両親やファビオの祖父母、そしてランバートの父が見栄と欲に取り憑かれているのに対して、おばさんたちには島の生き物たちの世話をすることだけしかありません。生き物たちが安心して暮らせる場所をつくり、一生懸命に世話をすることだけです。そこには欲もないし見栄もないのです。

私たちは、大人になればなるほど欲深く罪深くなっていくように思います。欲深く、他人を蹴落としても前に出るような気概がないと生き残れないと思い込んでいます。だから、いつも不安で仕方なくて、不安を払拭するために相手を攻撃しているように思います。

イボットソンが描くのは、そういう私たちの愚かしい部分なのだと思うのです。私たちの罪深い部分を諌めているように思うのです。

本書のラストは、子ども向けの作品ということもあり、未来に希望をもたせてくれるようなハッピーエンドになっています。ですが、大人たちにとっては、ただのハッピーエンドではありません。本書のラストで描かれる子どもたちの未来への希望は、大人である私たちが道を作ってあげなければいけないことでもあります。イボットソンは、そういうメッセージを大人たちに発信しているのだと思うのです。

 

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クラーケンの島 [ エヴァ・イボットソン ]

カレン・ヘス/金原瑞人訳「イルカの歌」(白水社)-イルカに育てられた少女ミラ。彼女が人間の世界に戻ったときに起きる悲劇と奇跡(ミラクル)。ミラの本当の幸せとは?

 

イルカの歌 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

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キューバ沖の孤島で野生児発見

物語は、アメリカ沿岸警備隊によってキューバ沖の孤島に11歳から16歳くらいの少女が発見されるところから始まります。たったひとりで孤島に暮らしていたと思しき少女は、沿岸警備隊によって『ミラ』と名付けられ、ボストン大学で認知神経システムを研究するエリザベス・ベック教授に預けられ、人間性を取り戻すための教育を受けることになります。

ミラは、イルカに育てられた少女でした。事故に巻き込まれ海に投げ出されたミラを救ったのはイルカのお母さん。ミラは、イルカの庇護を受け、ミルクを与えられ、食事を与えられて成長しました。イルカたちと一緒に海を泳ぎ、イルカたちに見守られて孤島に暮らしました。

ベック教授の施設に預けられたミラは、ベック教授の他、ミラの世話役のサンディ、ベック教授の息子ジャスティンたちと出会います。そして、ミラと同じ野生児であるシェイにも。ミラとシェイは、同じ頃に保護された野生児として、ベック教授の施設で教育を受けていました。

「イルカの歌」は、ミラのひとり語りで書かれています。最初、ミラは言葉がおぼつきません。何年もイルカたちと暮らしてきたミラにとっての言葉はイルカたちの歌だったからです。ミラは少しずつ人間としての能力を身に着けていきます。人間としての感情を身に着け、言葉を覚え、自分の意思を持つことを覚えていきます。

はじめはつたなかったミラの言葉は、次第にボキャブラリーが増え、表現も豊かになっていきます。やがてミラはコンピュータを操作することを覚え、自分の考えを文章としてコンピュータに記録できるようにもなるのです。それは、研究者であるベック教授にとっても驚くべきことでした。

ミラが順調に人間としての能力を取り戻していく一方で、シェイは野生児のままでした。人間として成長しないシェイは、いつしか研究施設にとってお荷物になっていきます。研究対象としては使い物にならない存在になってしまうのです。

イルカに育てられ、人間の汚い部分を知らないミラは、ベック教授がなぜ自分を施設に閉じ込めておきたがるのか、なぜ海をみせてくれないのかがわかりません。ミラは、自分がもっと人間としての能力を高めて、ベック教授が望むような人間になれば、きっと自分の願いを聞いてくれると思ったのです。自由を与えてくれると信じたのです。

ミラにとって、『自由』とは与えられるものではありません。イルカたちと暮らしていたとき、ミラはいつだって自由でした。自由に海を泳ぎ、自由に遊び、自由に眠る。誰かによって自由を束縛されることなんてなかったのです。

「イルカの歌」が描くのは、人間にとっての『自由』の意味ではないかと思います。

私たちが子どものころ、自分の周りには『自由』が溢れていました。両親や周囲の人たちの庇護の下で、という限られたスペースではありましたが、何かに束縛されたり、理不尽なルールや世の中の空気によって自由を奪われること、自由であることを我慢することはありませんでした。

ミラは、イルカたちに守られている中で自由を得ていました。だけど、人間という社会には、彼女の自由を束縛する障害がたくさんありました。政府が決めたルールであり、研究対象としての束縛です。ミラという格好の研究材料を手放すわけにはいかないと考える人たちは、彼女を施設に閉じ込めます。ミラは、自分が彼らの思うような人間になれば自由を返してくれると信じて勉強します。彼女の信じる気持ちが、読んでいて痛いほど胸に刺さります。諦めない強さに少しでも希望を見出したくなります。

成長して大人になり、親の庇護の下を離れて社会にでたときの私たちは、ミラと同じような困惑を覚えていたかもしれません。学校のルール、会社のルール、多くの人々と接することで感じられる微妙な空気感。人間社会に馴染めず成長できなかったシェイが厄介者として扱われたように、私たちもルールに従えない、空気を読めない人間は異端児として扱われ、厄介者とされます。ルールを守り、空気の読める人間こそが正しい人間であるとされます。私たちは、そのことに疑問も持たずに生きています。

ミラのように、自由を得るために努力する姿は、私たちが忘れていることなのではないでしょうか。

この物語のラストで、ミラは『自由』を取り戻すことができたのでしょうか。彼女は、再びイルカたちに出会うことができたでしょうか。ミラの本当の幸せとはなんなのか。ミラの選択が彼女の幸せの選択であったと信じたいと思います。

 

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「しししし2~特集ドストエフスキー」(双子のライオン堂)-本屋発の文芸誌第2号。新しいドストエフスキーをお届けします。

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赤坂にある本屋「双子のライオン堂」が年1回刊行する文芸誌が「しししし」である。本書は、その第2号となる。一般発売は2019年1月25日だが、一部書店では先行発売されている。私は、版元でもある「双子のライオン堂」で購入した。

特集はドストエフスキー。一般的な文芸誌が作家の特集を組む場合、さまざまな視点が考えられるだろうがメインは作品論であり作家論になるのではないか。たとえば、

・「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」などの作品解題
ドストエフスキーという作家の生涯とその作風の変遷
ドストエフスキー作品に描かれるロシアの隆盛と衰退

みたいなテーマで文芸評論家やロシア文学の研究者、歴史学者などが論考を組み立てていくようなイメージである。

「しししし2」のドストエフスキー特集は、文学論的な内容からは少し離れた視点で書かれている。寄稿者は、山城むつみ氏、吉川浩満氏、遠藤雅司氏などの批評家、文筆家、歴史料理研究家といった肩書を持つ方々の他、多彩なメンバーが名を連ねる。

山城氏は、「ドストエフスキーについての入門書はなにを読めばいいか」「ドストエフスキーはなにから読めばいいか」という問いに対してそれぞれに作品をあげているが、それよりも面白いのはドストエフスキー占星術師にみてもらった話だ。その結果については、山城氏の寄稿を読んで確認していただきたいが、私はそれを読んでドストエフスキーに対する見方が変わった気がする。なるほど、彼はそういう人だったのかと。いや、占いの結果なので実際のところはわからないんだけどね。

ドストエフスキー特集には、他にも一般文芸誌には思いもつかない多彩さがある。

まず、特集の冒頭に掲載されている伊川佐保子氏の「(ある雌馬の死の間)」と「祈り」の2篇の詩文で驚かされる。この2篇、上段に漢字かな混じりの文章が書かれていて、その下段にすべてひらがなで同じ文章が書かれている。下段の文章を読むとそのからくりがわかる。それは『回文』だ。前から読んでも後ろから読んでも同じ文章になっているのである。回文というと「たけやぶやけた」くらいの短いセンテンスしか思いつかないので、この長さの回文を作れるだけでも尊敬してしまう。しかも、ただ回文になっているだけではなく、それぞれが一篇の詩としてできあがっているのがすごい。

その他、ドストエフスキー特集には、くれよんカンパニーによる「弱い心」の漫画があり、ドストエフスキーに関する同人誌「カラマーゾフの犬」を主催するmerongree氏によるエッセイ、ドストエフスキー作品の誌上読書会(題材は「白夜」「罪と罰」)も収録されている。

「しししし2」のドストエフスキー特集が、他とは一線を画することがおわかりいただけるだろうか。

前号「しししし1」のレビューの中で、私は「しししし」という本屋発の文芸誌が有する意義について書いた。それは、これまでの文芸誌とは違う視点から創られ、私たちに違う視点での文芸誌の楽しみ方を示してくれるのではないかという期待である。今回、前号から1年ぶりに刊行された「しししし2」は、その期待を裏切らかなかった。

特集以外にも読みどころは多い。

創作は、尾崎武氏の短歌、文月悠光氏の詩、横田創の短編、シャーウッド・アンダスン/鴻巣友季子氏訳の翻訳短編が掲載されている。この中では、昨年「落としもの」を読んで完全にその作品の虜になった横田創氏の「わたしの娘」が秀逸だった。どんな話か説明しにくいのだが、ひとつ言えるのは読んでいる間は絶対に気を抜いてはいけないということだ。とにかく油断は禁物。私は最初ちょっと気を抜いたら迷子になった。何回か繰り返し読むことでジワジワと感じ入る作品である。山城むつみ氏と横田創氏の対談も掲載されている。

他にも様々な書き手がエッセイやコラムを寄稿している。また、読書から募集したエッセイから大賞に選ばれた2篇も掲載されていて、それぞれ味わい深く素敵なエッセイなのでオススメしたい。

私は相変わらず文芸誌の熱心な読者ではない。そんな文芸誌に思い入れのない読者でも惹きつけてしまう面白さが「しししし」にはある。他の文芸誌と違って、年1回発行というところも、内容を充実させるという意味ではちょうどいいペースなのかもしれない。

次号「しししし3」は、2019年末に刊行されるはずだ。さて、次はどんな特集を組んでくるだろう。どんなメンバーが書き手となるのだろう。それは1年間のお楽しみである。

liondo.thebase.in

 

s-taka130922.hatenablog.com

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アンナ・ウォルツ/野坂悦子訳「100時間の夜」(フレーベル館)-ハリケーンがもたらしたニューヨーク大停電。その経験がエミリアを変える。

たったひとりニューヨークへ向かうフライトを待つ14歳のエミリア。彼女は、父親が起こしたスキャンダルをきっかけにネット上で晒し者にされた。だから、ひとりででも逃げ出すしかなかった。オランダからニューヨークへ。

アンナ・ウォルフ「100時間の夜」は、たったひとりでニューヨークにきた14歳の少女エミリアが、偶然知り合ったセスとアビーの兄妹、そしてジムと4人で過ごした物語だ。超大型のハリケーンがニューヨークを直撃し、大規模な停電に見舞われる中、エミリアはセスたちと過ごすことで、ほんの少し成長する。

エミリアが単身ニューヨークへやってきたのには理由がある。冒頭にも書いたように、彼女はオランダ人で教育者である父と芸術家である母がいる。その父親が教育者として恥ずべきスキャンダルを起こした。それをきっかけに、エミリアたち家族は、ネットで激しいバッシングを受ける。身の安全を脅かすような脅迫まで受けるようになり、エミリアは逃げ出すことを決めた。父親のクレジットカードをつかって飛行機のチケットをとり、宿泊先を手配した。ニューヨークに行けば何かが変えられると信じたのだろう。

エミリアは、次々とさまざまなトラブルに見舞われる。

最初のパニックは飛行機の機内で起きた。エミリアは、極度の潔癖症だった。機内は完璧な空調でバクテリアは除去されていると頭では理解していたし、自分が触れる座席や肘掛けも除菌シートで念入りに拭いた。でも、飛行機にはたくさんの乗客がいた。彼らはバクテリアの温床だ。そう思っただけで彼女はパニックになった。

次のトラブルはニューヨークで起きた。予約していた宿泊先は存在していなかったのだ。その住所には、セスとアビーという兄妹が母親と3人で暮らしていた。エミリアは泊まる場所を失い、失意の中で偶然であったジムの部屋で一夜を明かす。その部屋が、エミリアにとっては耐え難い汚れた部屋であっても。ただ、このトラブルによる偶然の出会いが、大停電をセス、アビー、ジムと一緒に過ごす最初の一歩になった。

「100時間の夜」の設定で、潔癖症であることはエミリアという人間の性格付けにも重要な要素になっている。彼女が潔癖症であるが故に、彼女は父親のスキャンダルを許すことができない。ただ許せないというだけでなく、スキャンダルの本質を知ることさえも拒否する。もしかしたら、エミリアが考えているようなひどい話ではなかったかもしれない。でも、知ることを拒否するエミリアには、父親がスキャンダルを起こしたことだけで嫌悪の対象であり、軽蔑の対象になっているのだ。

だが、さまざまなトラブルに見舞われ、セス、アビー、ジムと大停電の中を過ごさなければならなくなると、エミリアは次第に変わっていく。極限の状況の中では、潔癖であることは我慢しなくてはならない。お風呂にだって入れないし、食事やトイレだって多少の汚れは我慢するしかない。それでも、セスたちはエミリアをバカにしたりしない。むしろ、彼女のために優しく接してくれる。エミリアも、完全に潔癖症を克服することはできないが、ある程度は妥協できるようになっていく。そして、少しずつ父親が起こしたスキャンダルについて、セスたちと話せるようになっていく。それまで、目をそらし続けてきたことをキチンとみられるようになっていく。

14歳くらいのころは、親の存在がうっとうしく思ったりする時期だ。男の子だったら母親に毒づくようになったりするし、女の子だったら父親を汚いものでも見るような目で見たりするようになるだろう。成長期のティーンエージャーが全員そうだというわけではないだろうが、そういう十代を過ごした記憶のある大人はけっこういると思う。

エミリアもそういう14歳なのだ。そして、彼女を変えてくれるのは友だちなのだ。同じ悩みを持つ友だち。一緒に苦労をした友だち。彼女は友だちと接することで気づきを得て、そして変化=成長する。

友情の尊さ、友だちの大切さを改めて思い返すことができる作品である。

エミリー・バー/三辺律子訳「フローラ」(小学館)-「ドレイクとキスをした」。記憶に障害のあるフローラがたったひとつ覚えていられたこと。それだけを支えにして彼女は旅立つ。北極へ、そして未来へ。

寒々とした氷の海。遠くに見える雪山。そして、氷の上に佇む少女。

エミリー・バー「フローラ」の表紙に描かれている風景。その佇む少女が本書の主人公フローラだ。彼女は、10歳のときに受けた脳手術の影響で記憶に障害が残った。『前向性健忘症』というのが彼女の記憶障害の名前。いま起きたこともすぐに忘れてしまう。生活に関することは覚えている。10歳までの記憶もある。でも、それ以降の記憶はすべて時間が経つと忘れてしまう。

でも、彼女はたったひとつ覚えていられた。ドレイクとビーチでキスをしたこと。ドレイクはペイジの彼氏だけど、フローラは彼とのキスの記憶だけ、時間が過ぎても覚えていられた。だから、ドレイクを好きになった。そして、彼に会うためにたったひとりで旅をすることにした。北極への旅。

記憶に障害のある17歳の少女が、たったひとつ覚えていたキスの経験を頼りにその相手を探して北極まで旅をする。フローラの一途な愛が、彼女に障害を乗り越える勇気と希望を与える。フローラは愛の力で困難を克服してドレイクに会うことができるのか。

「フローラ」は、そういう物語だ。少なくと中盤過ぎまでは。でも、第2部の後半からラストにかけて展開する出来事は、悲しくてせつない。

たったひとりの旅の中で、フローラはたくさんの人に出会う。それはとても素敵な出会いだ。彼女は、出会ったことを忘れてしまうけど、でも彼女に出会った人たちはみんな彼女を好きになる。それは、フローラがとても魅力的だから。きっとそうなんだと思う。

フローラは、ドレイクに会いたくてたまらない。たくさん不安なこともあるけれど、ドレイクに会えれば安心できる。そのはずだった。彼女の思いが強ければ強いほど、ドレイクとの再会によって彼女が経験することの重さが伝わってくる。

フローラのドレイクへの愛が悲しくてせつないものであるように、フローラに向けられた家族の思いも悲しくてせつない。フローラが『前向性健忘症』を患うきっかけとなった出来事。彼女に対する母のトラウマ。ただ黙って見守るだけの父の苦悩。パリに暮らし重い病気になっている兄。フローラの家族は、それぞれがそれぞれの思いで彼女と接している。

第3部に入って、フローラは冒険を終えて自宅に戻っている。フローラの母は、以前にもまして彼女を大事に大切に守ろうとしている。フローラの気持ちを安定させる薬を与え、家の中でおとなしく過ごすことを望んでいる。

フローラの本当の姿に気づかせ未来に希望を与えるのは、兄ジェイコブが彼女に遺した手紙だ。その手紙には、フローラがなぜ『前向性健忘症』になってしまったのか、母がなぜフローラを過剰なまでに大事に守ろうとしているのか、そして18歳になったフローラがこれから自分で未来を作っていくことへの希望が記されている。

フローラにどんな未来が待っているのか。彼女の記憶障害は回復するのか。もちろん、先はまだ見えない。でも、ひとつわかっていることがある。この物語が一人称で書かれていること、つまり「フローラ」は、フローラが自分自身のことを記した物語だということ。そう考えれば、彼女の未来はきっと明るいと信じられる気がする。

ジェイ・マキナニー/金原瑞人訳「モデル・ビヘイヴィア」(アーティストハウス)-出ていってしまった彼女への思いがひたすら未練がましいだけなのに、なぜかオシャレで洗練された物語のように感じる不思議。

1999年に刊行された作品だけに、20年という時代の流れを感じさせる。街の風景、人々の服装、夜な夜なパーティーで踊り、マリファナやヘロインに興じる。

「じつは、ずっと話そうと思ってたんだが、おれの新しい短編集のなかに『モデル・ビヘイヴィア』っていう話が入ってるんだ。いいか、これはフィクションだぞ。架空の物語だ。だが、きみが読む前に話しておこうと思ってね」

同棲していたモデルの恋人フィロミーナに出ていかれてしまった主人公に、友人である作家ジェレミーがそう告げる。彼の短編小説『モデル・ビヘイヴィア』は、幻想と現実についての物語であり、誤った偶像崇拝についての物語でもある。と、ジェレミーは続ける。そして、その小説には作家とモデルが出てきて、作家は友人のガールフレンドと関係をもつのだと。

ジェイ・マキナニー「モデル・ビヘイヴィア」は、そういう物語だ。

主人公は、ファッション情報誌のライターをしているコナー。彼には、東京で知り合ったモデルの恋人フィロミーナがいる。だけど、最近ふたりの関係はギクシャクしている。どちらかというと、フィロミーナがコナーに愛想をつかしているようだ。コナーは、フィロミーナの気持ちが自分からはなれていることは薄々気づいている。なぜ、彼女の気持ちが離れていったのか、どうして彼女を幸せにすることができなかったのかを考え続ける。

愛情をケチったから
彼女が欲したキスを与えなかったから
彼女が話しかけても不機嫌に応じたから
他の助成を口説いたから
花を買わなかったから
専門家ぶった態度で彼女の感動を否定したから

考えてもきりがない。ひとつ言えるのは、コナーがダメ男だということだ。自分ではイケてるつもりでいるのだろうが、自己中心的で、見栄っ張りで、特に才能があるわけでもない。見た目は洗練された男なのかもしれないけれど、性格的にはサイテーの部類に属するやつだ。

とにかく、この物語の基本にあるのは、出ていった恋人に未練がましい情けない男の姿である。その部分はブレない。

その基本部分だけを読むと、本書はまったくつまらない小説である。なのに、途中で読むのをやめようとは思えない。なぜか気になって先を読みたくなるのだ。読み終わって、自分がなにかすごくオシャレで洗練された物語を読んだような気分になった。でも、よくよく考えてみれば、物語のベースは『恋人に振られた情けない男』の話なのだ。

刊行から20年経った今、1999年当時のアメリカや日本の世相や風俗、若者たちの流行ファッションや生活スタイルを知らない若者が本書を読んだら、間違いなく違和感しか感じないだろう。時代を問わずにいつでも読める作品がある一方で、本書のようにその時代だからこそ読める作品もある。この本を読んで、オシャレや洗練さを感じる世代と違和感しか感じない世代とのギャップがどこに生まれるのか。世代間での読み比べとか面白いんじゃないかと思った。

 

ジミー・リャオ/天野健太郎「おなじ月をみて」(ブロンズ新社)-ぼくがみている月をきっとあの人もみている

ハンハンはまっていました。

ジミー・リャオ「おなじ月をみて」は、待ち続ける物語です。まだ小さいハンハンは、いつも窓の外をみて、なにかをまっています。窓の外に続いている道の向こうから、待ち続けるものがいつかやってくるのを待っています。

それは、ライオンでしょうか?

それは、ゾウでしょうか?

それは、ツルでしょうか?

ハンハンが待ち続ける窓の向こうには、傷ついた動物たちがやってきます。ハンハンが待っている相手も、もしかしたら、いやきっと傷ついているのかもしれません。

人は誰も、なにかを待ち続けているのかもしれません。

遠くへ行ってしまった人を待ち続けているのかもしれません。

いつかきっと戻ってくると信じて、待ち続けているのかもしれません。

待って、待って、待って、待って。

いつまでも待っているのです。無事に戻ってきてくれると信じて待っているのです。

ときに、待ち人は永遠に戻らないこともあります。出ていったときとは違う姿で戻ってくることもあります。

ハンハンが待ち続ける相手は、無事に戻ってくるのでしょうか。ハンハンと同じ月を、どこかの遠い場所で見上げているのでしょうか。ハンハンが待ち続けているように、ハンハンに会えることを待っているでしょうか。

平和なときの『待つ』は、とてもワクワクして楽しいことです。

でも、待つことがつらくて、心が痛いときもあります。とにかく無事で戻ってくることを待つことの苦しさはつらくて悲しいです。

ジミー・リャオは、この作品に『平和への祈り』をこめました。アジアに、そして世界に平和がおとずれることを祈って。

そして、私たちは祈るのです。もう戻らない人の安らかなることを。

その人の遺してくれた物語を読み続けていくことが平和への祈りだと信じています。