タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

キャシー・アッペルト&アリスン・マギー/吉井知代子訳「ホイッパーウィル川の伝説」(あすなろ書房)-突然、大好きなシルヴィを失ってしまったジュールズは、「あのときどうして・・・」と自分を責める。そんな彼女の前に現れたのは一匹の子ギツネだった。

「ホイッパーウィル川の伝説」を読もうと思ったのは、『本が好き!』で開催中の『2018春のやまねこ祭!』への参加が目的なのだが、その前にひとつきっかけとなったことがある。

それは、〈やまねこ翻訳クラブ〉の会員でもある翻訳者・中村久里子さんのツイートだった。このツイートに記されたリンク先「こころフォト~忘れない~」に掲載されていたのが、東日本大震災津波で亡くなった岩手県宮古市の女性の遺された息子さんが中学生になって書いた読書感想文だった。その課題図書が、本書「ホイッパーウィル川の伝説」なのである。

 

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「ホイッパーウィル川の伝説」のレビューを、私はこの少年より上手く書くことは絶対できない。テクニカルな意味では書けるかもしれない。しかし、彼の書いた感想文には、彼でなければ書くことのできない重く、辛く、そして悲しい経験がある。まるで、この物語が彼のために存在したかのように、彼があの日母親を失ってからの日々を慰めるようにこの本は彼の手に渡されたのだ。

「ホイッパーウィル川の伝説」は、シルヴィとジュールズのふたりの姉妹の物語だ。ある雪の朝、まだ学校へ行くスクールバスが来る前、ふたりは家の前で雪だるまを作って遊んでいる。パジャマの上からパーカーを着てミトンの手袋をはめたふたりは、せっせと雪だるまを作る。

ふたりには、パパと交わした大事な約束〈パパ憲法がある。

家から呼ぶ声が聞こえないほど遠くへ行ってはいけない。
野生動物に手を出してはいけない。
スクールバスに乗りおくれてはいけない。
なにがあっても、絶対に、奈落の淵に近づいてはいけない。

なかでも、奈落の淵へ近づくことを禁じた約束はいちばん大事な約束だ。だけど、ふたりはパパに内緒で奈落の淵に行ってる。もう何十回、何百回も。それは、願い石を奈落の淵から投げるため。そうすれば、願い石に書いた願いが叶うと信じているから。だから、その雪の朝もシルヴィは奈落の淵に向かって走っていった。足の速いシルヴィなら、スクールバスが来るまでにすぐ戻ってこれるはずだった。だけど、シルヴィは戻らなかった。

たったひとつ、自分が誤ったことで不幸なことが起きる。それは、その人にとって、悔やんでも悔やみきれない、一生重くのしかかってくることだ。雪の朝、シルヴィが奈落の淵から戻ってこなかったこと。あのとき、もっと強く引き止めておくべきだった。なぜ、シルヴィを行かせてしまったのだろう。ジュールズの心に深く傷は刻まれてしまう。「特別なともだち」のサムも彼女を立ち直らせることはできない。

シルヴィが奈落の淵で姿を消した頃、森のなかで子ギツネが生まれた。セナという名前のメスの子ギツネは〈ケネン〉だ。ケネンとは、魂とつながった存在。この世に生を受けたセナは、自らのケネンとしての役目に導かれるように、ジュールズと出会う。

「ホイッパーウィル川の伝説」は、絆の物語だ。シルヴィとジュールズ、パパとジュールズ、ママとシルヴィとジュールス、サムとエルク、エルクとジーク、エルクとピューマ、そしてジュールズとセナ。人と人、家族、親友の絆、人間と野生動物たちとの絆、生者と死者の絆。つながりは時に脆く、しっかりつかまえていないと離れていってしまう。だけど、たとえ切れた絆でもきっとまたいつかつながるときがくる。ときにそれは形を変えて。

冒頭で紹介した少年の感想文にも、少年と母との絆がはっきりと見える。あの日、母は津波によって少年の手から奪われ、母子の絆は失われてしまった。少年の喪失感はいかばかりであったろうか。時が経ち、成長して「ホイッパーウィル川の伝説」を読んだ少年は、母親との絆が永遠に失われてしまったのではないことに気づいたのだろう。少年の感想文のラストには、そのことがしっかりと記されている。

少年につながりの存在を教えてくれた「ホイッパーウィル川の伝説」。この悲しいけれど温かい物語を書いた著者と、そして少年や私たちに届けてくれた翻訳者に心からの感謝を伝えたい。

ジョゼ・ジョルジュ・レトリア文、アンドレ・レトリア絵/宇野和美訳「もしぼくが本だったら」(アノニマ・スタジオ/KTC出版)-わたしが本だったらなにを願うだろう。わたしの本たちはなにを願っているだろう。

小田急線の豪徳寺駅を下りて数分、住宅街の中に『ヌイブックス』という一軒の小さな本屋さんがあります。こじんまりとした店ですが、店主さんのセンスが感じられる素敵な棚に並ぶ本や雑貨の数々はとてもおしゃれです。

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この本「もしぼくが本だったら」は、ヌイブックスの棚の下の方に何気なく並べられていました。見つけたときすぐに「これは絶対に買うべき本だ」と感じました。

もしぼくが本だったら

 

このフレーズからはじまる28の言葉たちは、本が好きな人ならばきっと共感できる言葉たちです。

もしぼくが本だったら
つれて帰ってくれるよう
出会った人にたのむだろう

 

もしぼくが本だったら
ぼくのことを〈友だち〉とよぶ人に
夜がふけるまで読まれたい

わたしがこの本とヌイブックスの棚で出会ったように、本もわたしたちとの出会いを待っています。出会った本を抱えて家に連れて帰るときのワクワクした気持ちは、何ものにも変えられません。そして、その本のページを開いたら、きっと時間の概念はどこか遠くへ消えてしまうでしょう。

もしぼくが本だったら
本棚のかざりにするのは
かんべんしてほしい

 

もしぼくが本だったら
流行や義務で
読まれるのはごめんだ

楽しくなる、嬉しくなる言葉ばかりじゃありません。ときに、胸に刺さる厳しい言葉もあります。ついつい調子に乗ってたくさん本を買ってしまうわたしには、「本棚の飾りにはしないで」と願う本たちの声に、いつも申し訳なく思っています。いつかきっと読んであげるよ、と誓うけれど、読めない本が増えるばかり。

「有名な文学賞を受賞したから」とか「ベストセラーとして評判だから」とか、ふだん本をあまり読まない人の中にはそういう理由で本を手に取る人もいるでしょう。出版不況といわれている中で、どんな理由でも本を手にして買ってもらえるのは嬉しいことかもしれません。でも、やはり本は読んで欲しがっているのです。買った本は読んであげて欲しいと思います。と、わたしのように読めない本をたくさん抱えている人が言っても説得力はありませんね。

本との出会いは一期一会です。この本「もしぼくが本だったら」と出会えたこともそうです。そして、その出会いの場となってくれたヌイブックスさんや、他のたくさんの本屋さんとの出会いも大切な出会いだと思うのです。本屋さんには、きっとたくさんの本との出会いがあるのです。だから、わたしは本屋さんに行き、そしてたくさんの本と出会うのです。

安達祐介「本のエンドロール」(講談社)-普段はあまり気にしたことはなかったけれど、私たちが本を読めるのは、その本を印刷・製本してくれる人たちの存在があってのことだと気づかされた。

この本を知ったのは、2月に『神楽坂モノガタリ』という書店で行われたイベントで、三省堂書店の新井見枝香さんが「ゲラで読んでメチャクチャ面白かった」と絶賛していたからだ。その後、出版社が発売前の作品のゲラを提供している『NetGallery』というサイトで本書も公開されていたので、リクエストして読み始めた。本当にメチャクチャ面白かった。

www.netgalley.jp


「夢をお聞かせいただきたいのですが」

質問に立った女子学生は、両手でマイクを握り締め、緊張した面持ちで訊ねた。
豊澄印刷株式会社営業第二部のトップセールス・仲井戸光二は座ったままマイクを手に取った。
「夢は、目の前の仕事を毎日、手違いなく終わらせることです」

本書は、学生向けの就職説明会の場面からはじまる。営業マンとして成績優秀な仲井戸の味も素っ気もない言葉に、同じ営業マンである浦本学ぶは憤る。そんな浦本の気持ちはおかまいなしに仲井戸は困惑する学生たちに向けてさらに続ける。

「私たちの仕事は印刷業です。注文された仕様を忠実に再現する仕事。夢は何かと訊かれて、強いて言うなら今お答えしたとおり、目の前の仕事を毎日手違いなく終わらせることです」

本が私たちの手元に届くとき、それは紙に印刷され、製本され、完成した商品として届けられる。作家がどれだけ気持ちをこめて物語を紡ぎ出そうが、装丁家がどれだけ時間をかけてデザインを考えようが、最後にそれを〈本〉という形にして私たち読者に与えてくれるのは、印刷会社であり、製本会社の仕事があってこそのことだ。印刷・製本の機能が正しく機能していなければ本は出来上がらない。仲井戸の言う「目の前の仕事を手違いなく終わらせる」とは、まさに印刷・製本の機能を正しく実現するということだ。

でも、それでは印刷会社には夢がないのか。浦本は、同じ質問に対して、仲井戸に反発するように答える。

「私の夢は…印刷がものづくりとして認められる日が来ることです」
話しながら、就活生たちに少しでも夢を感じてもらえる言葉を、頭の中で模索する。
「本を刷るのではなく、本を造るのが私たちの仕事です」
言葉につられて、気持ちが熱を帯びる。
「印刷会社は…豊澄印刷は、メーカーなんです」

物語が完成しただけでは本はできない。印刷会社、製本会社が本を造る。その考えは、浦本も仲井戸も共通している。浦本は、だから印刷会社は本を造るメーカーなのだと考え、仲井戸は、だから印刷会社はその機能を果たすことが使命だと考える。その違いが、ここから始まる物語の軸となっていく。

〈ものづくり〉の現場に立って重要な役割を担っていると考える浦本は、その気持ちが空回りしてときに窮地に陥る。生産管理部に迷惑をかけ、印刷工場の現場に無理な対応を押しつける。作家、装丁画家、編集者の無理難題や理不尽な要求、強引な手法に翻弄され、周囲をトラブルに巻き込みながら、彼は印刷会社の営業マンとして成長していく。

本書の魅力は、本が生まれるまでのプロセスを丁寧に描いているところだと思う。本のページデザインや印刷工程の管理、カラー印刷に必要な色の調合、機械のメンテナンス、誤植の対応、その他様々な工程やトラブルへの対応を経て、本を本としての形を得る。

だが、彼らの頑張りや苦労を私たちはほとんど知らない。彼らの存在は、本の巻末にある奥付に記された会社名の中に埋もれている。

そんな埋もれた人たちの存在に光をあてたのが、本書「本のエンドロール」なのだ。エンドロールとは、映画の最後に流れるスタッフロールを指す。映画では、監督やプロデューサー、出演者だけでなく、すべてのスタッフたちの名前がエンドロールに記されている。本も同じなのだ。作家や装丁家、発行人以外にも、一冊の本に関わるスタッフはたくさんいるのだ。

本書では、最後にこの本に携わったすべてのスタッフの役割と名前が記されている。印刷営業、本文進行管理、校正、刷版、本文印刷機長、印刷オペレーター、製本進行管理、仕上げ、表紙貼り、スリップ・ハガキ印刷、配送、配本など、ひとつの本を作るためにこれだけ多くの人がそれぞれの役割を果たしているのだということに驚き、同時に感謝する。

本はこうして生まれるのだ。こんなに多くの人の手を介して生み出されるのだ。そのことに改めて、いやきっと初めて気づくことができた。

横田創「落としもの」(書肆汽水域)-不思議で不気味で癖になる。そんな味わいの短篇集

書店の店頭で見て、なんだか気になる本というのがある。横田創「落としもの」は、まさにそういう本だった。

著者は、2000年に「(世界記録)」という作品で群像新人文学賞を受賞し、2002年には「裸のカフェ」で三島由紀夫賞の候補にもなっている。これまでに「(世界記録)」、「裸のカフェ」、「埋葬」を刊行しているが、現在はどれも新刊での入手は難しい。余談だが、Amazon横田創の著作を検索したところ単行本第一作となる「(世界記録)」には5万円の価格がついていた。

本書「落としもの」は、前作「埋葬」以来、およそ8年ぶりの単行本である。版元『書肆汽水域』は、東京丸の内の「KITTE」4階にある「マルノウチリーディングスタイル」という書店を手がけた北田博充氏が立ち上げた出版社だ。

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「落としもの」には、「ユリイカ」、「新潮」、「群像」、「すばる」に2007年から2009年にかけて発表された6篇の短篇が収録されている。

収録作品
 お葬式
 落としもの
 いまは夜である
 残念な乳首
 パンと友だち
 ちいさいビル

冒頭に収録されている「お葬式」を読んだときには、まだ普通の短篇集だと思っていた。祖母のお葬式で火葬場に行くことを拒む母。長い介護生活の疲れと母を失った悲しさが彼女をそうさせているのだろう。特に奇をてらったわけでもないように思えた。

ところが、読み進めていくと次第に作品のおかしさが見えてきた。それは、「お葬式」だけではない。収録されているすべての作品が、不思議で不気味な雰囲気を醸し出しているのだ。

表題作「落としもの」は、タイトルの通り、『落としもの』に異様な執着を見せる女性の話である。落ちている物が気になって仕方がない。取り残されて迷っている見ると落ち着かない。放置されている雑草も気になる。彼女はあるとき、飼い猫が家を抜け出していくあとをついていく。そして、究極の『落としもの』を見つけるのである。

それぞれの短篇は、読み始めこそ、ややもするとありきたりな印象を受けてしまうが、すぐにそれが間違いであると気づく。読み始めは、「あぁ、そういう話なのね」とわかったような気持ちだったのが、いつしか「なに、この展開、どうなるの?」と期待が膨らみ、さらに読み進めていくと「・・・」と言葉を失い、最後には「とんでもないものを読んでしまった」とため息をつく。

この感じの物語は、好き嫌いがはっきり分かれるだろうと思う。私は完全に好きなタイプの物語だ。横田創という作家の存在を今まで知らずにいたのがもったいないと思ったほどに、本書でその作品世界にハマってしまった。過去に発表、刊行された作品がすべて本書の同じタイプの作品かは、実際に読んでみないとわからないが、過去作品への期待値はあがっているので、探して読んでみようと思っている。

新井見枝香「探しているものはそう遠くはないのかもしれない」(秀和システム)-某大型書店で働くアラフォー独身〈カリスマ書店員〉のちょっと(というかかなり)イタい(けどなんだか楽しそうな)日常

著者は、神田神保町、有楽町、池袋、その他全国に展開する某大型書店で働く書店員。著者を招いて行うトークイベント『新井ナイト』や直木賞発表のタイミングに合わせて自分が一番面白いと思った小説に授賞する『新井賞』などの企画を展開するなど、いわゆる〈カリスマ書店員〉である。

jinbocho.books-sanseido.co.jp

新井見枝香の初の著作となる本書は、彼女が書店員であるということを考えれば、「書店で働くことの楽しさや大変さ」であったり、「『新井ナイト』や『新井賞』の誕生秘話」や「お気に入りの作家のこと」、「本が売れない時代に対する憂慮」みたいな、書店回り、本回りの話題を中心にしたエッセイ集なのだろうと思うだろう。

はっきり言っておくが、そういう“真面目”な話を期待してはいけない。

本書の目次をあげておく。

 #1 会社に向いてない
 #2 結婚に向いてない
 #3 大人に向いてない
 #4 たまには向いてることもある
 #5 生きるのに向いてない

目次からは、書店も本も作家も、おおよそ本に関わる話は見えてこない。そして、実際に読んでみると、「オイオイ、本の話はないのか」とひたすらツッコミ続けることになる。ま、半分も読み進めればツッコミ続けるのにも飽きてくるので、そこからは普通に『アラフォー独身女性のイタい日常エッセイ』として楽しめばよいだろう。

なので、この本を読んでなにか面白そうな本が紹介されていないだろうかとか、次に書店を訪れた時にどこをポイントに回ればいいだろうか、といった読書や書店巡りの参考となる何を得ようとは考えない方がいい。

「だったら、この本を読む意味がないんじゃないか?」

確かにそうかもしれない。著者が書店員(しかも、かなり有名)だからという理由でこの本を読むのはオススメしない。でも、ちょっと変わったエッセイとして読むには面白い内容だと思う。構えて読むような堅苦しい本じゃない。仕事に疲れたときとか、重厚長大や重いテーマの小説を読んでいるときの気分転換などに、ちょっと気楽に適当なページを開いて読む。この本は、そういう本なんだと思うし、もしかしたら著者も、「メインの読書の隙間にちょっと気軽に開いてみて」という感じで書いているのかもしれない。

パトリシア・フィニー作、ピーター・ベイリー絵/相良倫子訳「ダメ犬ジャックは今日もごきげん」(徳間書店)-『あんぽんたん』は褒め言葉!ジャックの毎日は今日もごきげん快調!!

みんな、久しぶり!タカラ~ム家のアイドル・ラムよ。しばらく会わなかったけど元気だった?

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え? しばらく姿を現さなかったから死んだと思ったって? ちょっとずいぶんじゃないの。私のことはちゃんとタカラ~ムがTwitterで報告してたでしょ。

まぁ、確かにこの歳になるといつお迎えが来ちゃってもおかしくないから、音沙汰がないと誤解されるのも仕方ないかもね。でも安心して、散歩だっていくし、階段だってヒョイヒョイってのぼれちゃうんくらい元気なんだから。このあいだは足を踏み外して三段くらい転げ落ちちゃったけど(実話。あのときはマジで驚いた@飼い主)。

さて、お久しぶりに登場したのには理由があるの。それは、この「ダメ犬ジャックは今日もごきげん」に言いたいことがあるからなのよ。

パトリシア・フィニーの「ダメ犬ジャックは今日もごきげん」は、ストープス家で飼われているクリーム色のラブラドール・レトリーバー犬ジャックの能天気でごきげんでドタバタな日々を描く物語。ジャックは、家族からあんぽんたんって呼ばれるくらい『おバカ』な犬なんだけど、自分では褒められてるって勘違いしてる。同じ犬仲間の私から見てもイタいヤツなのよね。

ジャックが飼われているストープス家には、主人のトムさん(ボス)と奥さんのシャーロットさん(ミセス・ボス)に、テリーっていう女の子とピートとマイクっていうふたりの男の子がいて、全部で5人家族なの。ジャックは彼らのことが、大、大、大、だーいすきなのよ。私がタカラ~ムの家族をだーいすきなようにね。

ストープス家には、ジャックの他にネコが3匹いるの、しましまネコのレミー、黒地に白ぶちのメイジー、白地に黒ぶちのマスキー。ジャックはネコたちと仲良くしようと思ってるんだけど、ネコたちはジャックをちょっとバカにしてる。だって「あんぽんたん」なんだものね。ジャックのおバカ行動に入れられるネコたちのツッコミも面白いわよ。

そうそう、大事なことを忘れてたわ。この物語は、ジャックの視点で描かれているの。だから、あなたたち人間が読んで「?」と感じてしまうような表現がアチコチに出てくる。たとえばジャックは人間のことを『サル人』って呼んでるし、ズボンのことは『うしろあしカバー』って呼んでる。ま、私は同じ犬仲間だからジャックの言ってることはだいたいわかるけどね。でも、大丈夫。わからないときは本のうしろの方に「犬語辞典」が用意されてるから。さすが著者はわかってるわよね。

さてさて、この物語の背景がわかってもらえたところで内容の説明に、ってもうこんなに話しちゃってるじゃない!

というわけで残りは端折っちゃうわね。『あんぽんたん』のジャックは、ボスたちを愛し、ボスたちに愛されて毎日を楽しく暮らしてる。大メシ食らいのおバカ犬だけど、なんだかにくめないヤツなの。ドタバタしてミセス・ボスに怒られちゃったりもするけれど、そんなことはおかまいなし、っていうか自分が怒られていることがあまり理解できないみたいなのよね。ま、しょうがないか『あんぽんたん』だから。

そんなおバカなジャックにも恋の季節がやってくる。おとなりにペトラという素敵なレディが引っ越してくるのよ。ジャックはたちまち恋におちる。ペトラもジャックのことはまんざらでもなくて、お互いに意識し合うようになる。いいわね~、あぁ、私も若い頃は近所のオス犬と恋におちたものよ。互いのお尻のにおいを嗅ぎ合ったりしてね。ま、今となっては昔のことだわ。

ペトラに恋してからのジャックは、おバカ行動にさらに拍車がかかる。それは、愛するペトラを思っての振る舞いなんだけど、ストープスさん家族はそれで散々に振り回されちゃう。話は次第に大事になっていくんだけど、それが最後には良い方向に進んでいくんだから、バカとハサミは使い様ってことなのかしらね。

そんなわけで、最後にはジャックの活躍(?)で大きな問題が解決することになるし、ジャックとペトラも幸せになるんだけど、でもね、同じ犬仲間としてちょっと言わせてちょうだい。

この本の主人公ジャックは、あんぽんたんのダメ犬なんだけど誤解しないでね、世の中の犬たちは彼みたいなあんぽんたんばかりじゃないからね。少なくとも私は『あんぽんたん』でも『おバカ』でもないですからね。でも、どんなにあんぽんたんでおバカでも、人間(ジャック風に言えば『サル人』ね)のボスたちはみーんな私たちを愛してくれているのは間違いないわ。そうよね、タカラ~ムさん!

(はいはい、ちゃんと愛してますよ!@飼い主)

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こちらのレビューは、書評サイト「本が好き!」で開催中の「2018春のやまねこ祭!」参加レビューとなっています。

 

ローベルト・ゼーラーター/酒寄進一訳「キオスク」(東宣出版)-#はじめての海外文学 ナチの影がひたひたと迫るウィーンの街で、少年フランツはフロイトと出会う。

なんと優しくて、なんと温かくて、そしてなんと切ない物語なのか。

ローベルト・ゼーラーター「キオスク」は、1937年のウィーンを舞台に、ナチスの影がひたひたと街を支配していく中でフランツという17歳の少年が様々な人たちと出会い成長していく物語だ。

ザルツカンマーグート地方に母と暮らすフランツは、17歳で母の友人であるオットー・トゥルスニエクが営むキオスクの見習いになり、ウィーンでひとり暮らし始め、トゥルスニエクからキオスクの心得(新聞を読むこと。葉巻とタバコのこと。お客を覚えること)を学ぶ。

キオスクにはいろいろな人がやってくる。死別した夫二人の博士号を引き継いだハインツル博士博士夫人は、毎日ウィーン新聞とライヒスポスト紙を買っていく。店を開けてすぐに来店する元国会議員のルスコヴェッツ商業顧問官は、ところかまわず放尿するダックスフントを連れていて、新ウィーン・ジャーナル紙とグロリエッテというタバコをひと箱買う。午前中は労働者、昼時には年金生活者や学生のお客さんがくる。

そんなたくさんのお客の中にその人はいた。

その痩せた年配の紳士が来店したときは、トゥルスニエクの反応が違った。紳士を「教授」と呼び、丁寧に接客をしていた。

「だれだったんですか?」ドアを閉めてから、フランツはたずねた。(中略)
ジークムント・フロイト教授さ」そういって、トゥルスニエクは息んで椅子に腰を下ろした。

そのときフロイトが忘れていった帽子を届けたことで二人は懇意になる。フランツは、フロイトに悩みを話し、フロイトは彼に忠告を与える。フランツは恋をし、そして破れ、ひとつの階段をあがる。

物語の前半、フランツと母との葉書のやり取りやトゥルスニエクとの会話、ボヘミアの少女アネシュカとの出会いと楽しい時間そして別れ、なにより、フロイトとの出会いと交流は優しさと温かさに溢れている。田舎町で世間を知らずに暮らしてきた無垢な少年が、都会の空気や都会の人たちと接することで、たくさんのことを学び、たくさんのことを経験していく。読んでいて、とても微笑ましく、なんだかフランツの成長を見守る親のような気分になってくる。

だが、そんな温かい日々に暗い影を落とすのがナチスの台頭だ。それは、フロイトについてトゥルスニエクが語る言葉にあらわれている。

「一見、気さくそうに見えるが、けっこうそっけない御仁さ。頭を治すドクトルなのにな。それにやっかいな問題を抱えている」
「問題?」
ユダヤ人なのさ」

オーストリアがドイツに併合され、ウィーンの街にナチスの影響力が増大していく中で、フランツのキオスクも迫害の対象となる。トゥルスニエクは、フロイトや他のユダヤ人を相手に変わらぬ商売を続けていたことで、『ユダヤ人の仲間』と落書きをされ、店を破壊される。そして、ポルノ印刷物を所有し販売していた罪で当局に連行されてしまう。

トゥルスニエクの逮捕が、フランツに与えた影響は大きい。物語は、そこから一気につらく切ない方向へ展開していく。トゥルスニエクの解放を願いながらひとりキオスクを守るフランツ。それでも、ナチスの支配は日増しに強まっていき、ユダヤ人であるフロイトはイギリスに亡命することになる。当局の監視の目を盗んでフロイトと最後の時間を過ごす。最後のふたりの会話からは、絶望と無念が感じられる。と同時に、フロイトからはフランツへの慈愛が、フランツからはフロイトへの敬愛が感じられる。そこから続く別れの場面からは、フランツの強い決意が感じられる。

現実にあった暗黒の時代を背景にした物語は、こうして幕を閉じる。読み終えて、田舎育ちの純真無垢な少年が、複雑な時代の中で強く成長し生きてきた意味をゆっくりと考えてみる。彼が経験するすべてのことには、なんらかの意味がある。それをひとつひとつ考えながら、彼の物語を読み返してみようと思った。