タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

今村昌弘「屍人荘の殺人」(東京創元社)-2017年の各種ミステリランキングで高評価ということで久しぶりに本格ミステリを読んでみたよ。

 

毎年年末になるとミステリに関する年間ベストが発表される。「このミステリーがすごい!」、「本格ミステリベスト10」、「週刊文春ミステリーベスト10」などがあって、これを参考にして年末年始の読書計画を立てる読書もいる。

本書は、上にあげた3つのミステリベスト10のすべてで第1位を獲得したという作品である。しかも、この作品が著者にとってのデビュー作なのだという。これだけ高い評価を得ている作品とはどういう作品なのか。本格ミステリはほとんど読まないながら、気になる作品ということで今回読んでみた。

本書の内容については、カバー折り返しにある紹介文をあげておく。

神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲と会長の明智恭介は、いわくつきの映画研究会の夏合宿に参加するため、同じ大学の探偵少女、剣崎比留子と共にペンション紫湛荘を訪ねた。合宿一日目の夜、映研のメンバーたちと肝試しに出かけるが、想像しえなかった事態に遭遇し紫湛荘に立て籠もりを余儀なくされる。
緊張と混乱の一夜が明け――。部員の一人が密室で惨殺死体となって発見される。しかしそれは連続殺人の幕開けに過ぎなかった……!! 究極の絶望の淵で、葉村は、明智は、そして比留子は、生き残り、謎を解き明かせるか?!

ミステリ愛好家にして素人探偵である大学生たちが、他の学生たちとペンションに泊まる。すると、そこである前代未聞のトラブルに遭遇し、彼らが意図しない中でペンションに閉じ込められ、外部との通信も遮断されてしまう。その閉塞された中で、今度は残虐な殺人事件が発生する。外からの侵入は不可能な状況から、犯人は閉じ込められたメンバーの中にいることになる。素人探偵たちは、閉ざされた中で事件の捜査を行う。

以下、がっつりネタバレしています。これから本書をお読みになるという方は絶対に読まないでください!

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伊吹有喜「彼方の友へ」(実業之日本社)-Dear Friends~嬉しいときも、苦しいときも、悲しいときも、楽しいときも、いつもそばにいてくれたあの日の友へ

 

海外文学を中心に読書をしているので、国内小説にはどうしても目が届かない。そうすると大事な作品を読み逃してしまう。本書はまさにそうした読み逃していた作品。第158回直木賞候補作。

とある高齢者施設。大正生まれの佐倉ハツは、その施設で暮らしている。90歳を過ぎて、あまり体調もよくないから面会もすべて断っている。その日も、施設の職員からハツへの面会客があったと聞かされた。ただ、その面会客はいつもと違っていた。職員が手渡してくれたのは、チューリップやヒマワリ、スミレなどの花々がデザインされた花札のようなカードの入った小箱。〈フローラ・ゲーム〉というそのカードを見たハツの胸には、あの日の記憶がよみがえった。

物語の舞台となるは、昭和12年から昭和20年までの東京。それは、まぎれもない戦争の時代。銀座にある出版社・大和之興業社が刊行している少女向け雑誌「乙女の友」編集部である。佐倉波津子(本名はハツだけど、それが嫌で波津子と名乗っている)にとって、「乙女の友」は大好きな本であり、主筆の有賀憲一郎と挿絵画家の長谷川純司は憧れの存在だ。波津子は、ある事情から「乙女の友」編集部で有賀主筆専属の雑用係として働くことになる。

戦争の色が次第に濃くなっていき、街や人が戦争ムードに包まれていく中で、全国の少女たちに少しでも夢と希望を届けたいと願う「乙女の友」の編集部員たち。たとえ、当局から睨まれることになっても、ギリギリのラインでオシャレを楽しむ心のゆとりを届けたいと頑張る人たち。本書は、沈鬱な時代で戦う作家、画家、そして編集者の物語だ。何もかもがギリギリで、あらゆることが監視と制約の対象とされた時代。「戦地で戦う兵隊さんたちを思えばこそ、内地の人間が着飾ったり、愉しんだりすることは許されない」とされた時代。かつては叙情的で愛情豊かな詩篇やユーモアに溢れた娯楽小説で埋め尽くされた誌面が、物資を制限され、表現を制限されていく。それは、物語に描かれる架空の話ではなく、現実にも起きていたことなのだ。そう考えると、すべてに恵まれた時代に生きていることは幸福なのだと実感する。

本書は、戦争の時代を背景にしたお仕事小説であると同時に、主人公の佐倉波津子(佐倉ハツ)が「乙女の友」に憧れるひとりの読者から、作家となり、やがては「乙女の友」を支える存在となるまでの成長の物語である。彼女は、憧れの存在であった有賀主筆や長谷川純司をはじめとする編集部の面々や霧島美蘭、荻野紘青、空井量太郎といった作家たちとの仕事を通じて、多くのことを学ぶ。それはいつしか彼女の中で大きく花を開き、彼女は戦争末期そして終戦後の「乙女の友」を支える柱となるのだ。

「第5部 昭和二十年」から「エピローグ」へと続くラストシーンは、それまでの波津子の成長を見守ってきた読者の胸をきっと熱くする。彼女の弱さと強さがひしひしと感じられ、彼女を支え続けてきた人たちの存在が強く強く心に浮かんでくる。素敵な物語を読ませてもらった。

スティーグ・ラーソン/ヘレンハルメ美穂、岩澤雅利訳「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上/下)」(早川書房)-#はじめての海外文学 このシリーズの最大の魅力はなんといってもリスベットである!

 

 

「ミレニアム」シリーズは、スウェーデン発のミステリーシリーズであり、本書「ドラゴン・タトゥーの女」は、その第1部になる。著者のスティーグ・ラーソンは、ジャーナリストとして活動してきた人物で、本書の主人公のひとりミカエルは、著者自身を投影しているのかもしれない。

雑誌『ミレニアム』の編集責任者であるミカエル・ブルムクヴィストは、実業家であるヴェンネンストロムの不正を記事にしたことで、彼から名誉毀損で訴えられ有罪判決を受ける。ミカエルは『ミレニアム』から離れるが、その彼のもとに、大物実業家であるヘンリック・ヴァンゲルからある依頼が舞い込む。それは、前に失踪した娘ハリエットの行方を探してほしいというものだった。ハリエットは、ヴァンゲルが住む島から突然姿を消した。島に渡るにはたった一本の橋を使うしかない。しかし、彼女が失踪した日、誰も彼女がその端を渡っていった姿を見ていなかった。つまり、彼女は閉ざされた孤島から忽然と姿を消したのである。

ハリエット失踪事件の謎を調べる中で、ミカエルはひとりの女性と女性とタッグを組むことになる。相棒となったのはリスベット・サランデルという調査員。彼女は、見た目は少女のように華奢だが、凄腕のハッカーであった。そして、壮絶な過去をもった女性でもあった。リスベットと仕事を進める中で、ミカエルは次第に彼女に惹かれるようになっていく。

全世界で大ベストセラーとなったミレニアムシリーズの記念すべき第1部にあたる本書は、スティーグ・ラーソンのデビュー作にあたる。「ドラゴン・タトゥーの女」は、およそ40年も前に失踪し、すでに死んでいるとさえ思われている少女の行方を探すように依頼されたジャーナリストが、凄腕調査員とコンビを組んで調査にあたるストーリーである。閉ざされた孤島で起きた謎の失踪事件。その謎が明らかになることで浮かび上がってくる様々な事実や事件。そこに切り込んでいくミカエルたちの調査の足跡は、ハードボイルド小説の雰囲気を有した本格ミステリ小説である。

物語として面白く、時間を忘れて作品に没頭できるところも魅力的だが、やはりいちばん印象に残るのはリスベット・サランデルというキャラクターだ。小さく華奢な身体で14歳くらいの少女のように見える彼女だが、その能力はきわめて高く、いとも簡単に調査対象のコンピュータシステムをハッキングして情報を取得する。全身にタトゥーを入れ、ピアスで覆われ、大型バイクを乗りこなすリスベットは、見た目としても能力としても魅力的なキャラクターだ。そして、複雑な過去も背負っている。

ハリエット失踪事件の真相が明らかになったとき、ミカエル、リスベット、そして謎の鍵を握る人物との手に汗握る攻防がはじまる。その展開はまさにジェットコースターのように一気呵成に読ませる。上下巻の長編小説だが、その長さを感じさせないエンタメ度満点の作品である。はじめての海外文学としてチャレンジするには手に取りやすい作品だと思う。

 

 

アン・ファイン/墨川博子訳「フラワー・ベイビー」(評論社)-#はじめての海外文学 落ちこぼれクラスの生徒たちに与えられたミッションは三週間の疑似育児体験!?

 

『悪ガキ』、『落ちこぼれ』が集められた四-Cでは、サイエンス・フェアのテーマに選んだのは〈児童発達〉だった。その内容は〈フラワー・ベイビー(flour baby)〉、つまり“小麦粉の赤ん坊”である。こうして、ひとりあたり三キロの小麦粉の袋を赤ん坊に見立てた四-Cの生徒たちの奮闘の三週間がはじまる。

〈フラワー・ベイビー〉の課題には5つのルールがある

1.いつも清潔にし、濡らさないこと。汚れたりしないように注意すること。
2.体重を週二回測定すること。軽くなったり重くなったりしないように。
3.昼夜を問わず、いかなるときも一人にしてはいけない。
4.毎日育児日記をつける。
5.フラワー・ベイビーがちゃんと世話されているかは監視される。ただし、誰が監視しているは非公開。

〈フラワー・ベイビー〉は、正しく世話をしなければならない。その辺に置き去りにしたり、汚してしまったりしてはいけない。となれば、必然的に世話をする生徒たちの自由が犠牲になる。〈フラワー・ベイビー〉に振り回されて募っていくイライラを爆発させる生徒も現れてくる。

かと思えば、〈フラワー・ベイビー〉を預かるビジネスを立ち上げる生徒も現れてくる。実に商魂たくましい。

サイモンは〈フラワー・ベイビー〉を育てる中で、自分の父親のことを考えるようになる。彼の父は、生後六週間になるサイモンを置いて家を出ていってしまった。以来、サイモンは母親と暮らしてきた。サイモンは、〈フラワー・ベイビー〉の世話をしながた、なぜ父が家を出ていったのかを考える。

サイモンは〈フラワー・ベイビー〉を通じて赤ん坊を育てることの楽しさも知っていく。サイモンは、まるで本物の赤ん坊に接するように〈フラワー・ベイビー〉に接する。その中で、次第に〈フラワー・ベイビー〉を愛しく感じるようになっていく。

フラワー・ベイビーを小脇にかかえこむと、サイモンは川面を見つめた。
「おれは、おまえが本物の赤んぼうでもかまやしないと思う。たとえ、やることが増えてもだ。おまえが泣きわめいても、おむつをよごしてばかりいても、店ですごいかんしゃくを起こしても。そんなの、かまわないさ」
フラワー・ベイビーをのぞき見ると、脇の下で、心配もなく気持ちよさそうにしている。フラワー・ベイビーの鼻のあたりと思えるところ、サイモンは指で突っついた。
「おれにはわからないんだ。どうして赤んぼうが虐待されるのか」

子どもを産んで育てることは大変なことだ。ときにはイライラして、つい手をあげたくなってしまうこともあるだろう。だけど、サイモンが〈フラワー・ベイビー〉と接する中で感じたように、どんなに赤ん坊が手に負えなかったとしても、子どもに対する愛情は失われることはないのだ。だからこそ、サイモンは子どもを虐待する親の存在が信じられない。

「フラワー・ベイビー」を読んでみて感じたのは、この本は子ども向けに書かれているけれど、むしろ大人が読むべき本なのだということ。どの生徒に自分が共感できるかで、自分が子育てに向いているのかを考えることができるのではないかということだった。

本当にいろいろと考えさせられる作品である。『はじめての海外文学vol.3』の推薦本として選ばれたこの機会に、老若男女を問わず多くの人に読んで欲しいと思った。

コルソン・ホワイトヘッド/谷崎由依訳「地下鉄道」(早川書房)-奴隷制度に支配された19世紀アメリカ。虐げられた黒人奴隷たちを北へ逃がすための〈地下鉄道〉が存在していた。

 

舞台は19世紀はじめのアメリカ南部。その時代、アメリカには奴隷制度があり、アフリカから連れてこられた黒人やその子孫たちが、白人農場主の奴隷として劣悪な生活環境で苛酷な農作業に酷使されていたことは、世界史で学んだ。

「地下鉄道」は、その時代を舞台にした小説である。主人公はコーラという黒人少女。彼女は祖母の代から続く奴隷の家系に生まれ育った。母のメイベルは、まだ子どもだったコーラを残して逃亡し行方知れずになっている。

物語はまず奴隷たちの苛酷な日々を克明に描き出す。ジョージアのランドル農場で奴隷として働くコーラの日常を通じて、私たちは黒人奴隷たちがいかに厳しくつらい毎日を送ってきたかを目の当たりにする。生きるために最低限の環境で、身体をボロボロにして働く日々。一切の自由を奪われ、理不尽に虐げられる日々。互いを助け合いかばい合うはずの奴隷同士でも、疑心暗鬼や羨望から互いを憎み対立する。

苛酷な奴隷生活をおくるコーラに逃亡の話を持ちかけたのはシーザーだ。彼は、奴隷を北に逃してくれる〈地下鉄道〉があると言い、コーラに一緒に逃げようと誘う。こうしてコーラは、シーザーとともに〈地下鉄道〉を使って自由への逃亡を図る。

本書のタイトルでもある〈地下鉄道〉とは、奴隷たちを北部へ逃がすための活動を行っていた実在の地下組織である。もちろん、あの時代に地下を走る鉄道が存在するはずはなく、そのような名前で呼ばれていたということだ。著者は、それを『実際に奴隷を逃がすための秘密の鉄道が地下を走っていたら』という架空の設定で本書を書いた。

「地下鉄道」は、コーラの自由への逃亡と彼女にふりかかる様々な苦難の物語だ。コーラの逃避行は、ジョージアからサウス・カロライナ、ノース・カロライナ、テネシーインディアナと続く。その旅路は必ずしも順風ではない。ときに自由への希望に胸を膨らませ、奴隷としては味わうことのなかった幸せを謳歌する。しかし、彼女を連れ戻すための奴隷狩り人による追跡は、彼女に平穏を与えようとはしない。

本書は、黒人問題、奴隷問題といったアメリカの暗黒の歴史を描き出す社会派の物語であるが、なにより最高のエンターテインメント小説でもある。19世紀初頭に地下を走る鉄道があったらという架空の世界で繰り広げられる自由への闘いは壮絶であり、逃げるコーラと迫りくる奴隷狩り人との攻防は、手に汗握る緊張感をもって読者に突き刺さってくる。

この奴隷狩り人リッチモンドと彼の手下たち一行の姿は、西部劇に描かれる悪役の姿そのものだ。訳者あとがきには、

たとえば奴隷狩り人リッチモンド一行の奇抜さは、「マッドマックス」風の演出で映像化したら、たいそう映えるのではないかと思う。

 

とあって、なるほどと思ったし、リッチモンド一行にかぎらず、登場するキャラクターや展開する場面など、本作自体が映像化に向いた作品のように思うし、実際にテレビドラマ化も決まっているそうだ。ピュリッツァー賞や全米図書賞など、2016年のアメリカの主要な文学賞を総なめにした話題作だけに、ドラマも人気になるだろう。

「ししししvol.1~特集・宮沢賢治」(双子のライオン堂)-『草獅子』が名前を変えてリニューアル。新生文芸誌の特集は〈宮沢賢治〉です。

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昨年(2017年)、はじめて伺わせていただき、それからも何度か顔を出させていただいてる双子のライオン堂は、自ら出版業も手がけている。先だってレビューした西島大介アオザイ通信完全版#1」も双子のライオン堂の出版物だ。

liondo.jp

 

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この「しししし」も双子のライオン堂が刊行している年刊の文芸誌である。もともと、2016年に刊行された「草獅子」という文芸誌があったのだが、今回その「草獅子」を受け継ぎ、かつ全面的にリニューアルする形で新しい文芸誌として「しししし」が刊行された。なので、「草獅子」の次号予告にあった『宮沢賢治特集』がそのまま「しししし」の特集となっている。

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年末12月29日の最終営業日に、取り置きをしてもらっていた本書「しししし」と先日〈本が好き!〉の投稿500本目のレビューとなった伽鹿舎「戦争の法」を入手し、年明けから読み始めた。この手の文芸誌は、一気呵成に読む感じではないので、少しずつ読み進めてきたところだ。

 

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全体を読み終わって感じるのは、『文芸誌をどう創るか』という創造性に対する編集メンバーの想いである。それは、本誌の編集に携わったメンバーの想いであるとともに、文芸誌を受け取る側である私たち読者の想いでもある。

私自身、文芸誌というものを熱心に読むことはあまりない。月刊文芸誌を定期的に購入することもない。今のところ定期的に購入しているのは、書肆侃侃房から刊行されている「たべるのがおそい」だが、これは厳密にいえば文芸誌よりはムック本に近いと思う。(実際に「文学ムック」とあるし)

そんな中で、『書店発の文芸誌』である「草獅子」や「しししし」は、これまでの文芸誌とは違う視点から創られ、私たちに違う視点での文芸誌の楽しみ方を示してくれるのではないかという期待がある。それは、クリエイター側も考えていることで、「しししし」の創刊に関する彼らの想いは、「巻頭言」にすべて記されていた。

本誌の内容について簡単に。

『特集・宮沢賢治』では、長野まゆみさんのエッセイ、室井光広さん、山下聖美さんによる宮沢賢治論、宮沢作品の読み方に関する評論、吉本隆明氏による宗教論的作品解題、くれよんカンパニー、坂口尚さんによる宮沢作品を原作にしたマンガ、「銀河鉄道の夜」、「フランドン農学校の豚」を題材とした読書会が収録されている。

中でも、個人的に読み応えがあったのが、山下聖美さんの「宮沢賢治の〈読み〉をめぐって」である。

日本人ならば誰でも知っているであろう宮沢賢治。(中略)そして多くの人々が口をそろえて言うのが「なんだか不思議というか、よくわからない感じがするのですが」という疑問だ。(中略)しかし一方で、「なんとなく、すごくわかる」感覚を抱かせてしまうのが宮沢賢治という作家の特徴だ。

この冒頭からの数行で、私たちが宮沢賢治という作家の作品から感じている漠然とした印象が表出されていると思う。

「よくわからないけれど、なんだかすごくよくわかる気もする」

という感覚が、宮沢賢治という作家の醸し出す印象でもあるように思える。この感覚の正体を、山下さんは短い文章の中で探し求めていくのだ。

その他、生前の著作から再録された吉本隆明氏の「宮沢賢治銀河鉄道の夜』」も、賢治が傾倒した日蓮宗と作品との関連性や融合性を踏まえた賢治の創作における宗教性の存在論も読み応えがあった。

特集以外にも、単価や詩歌、小説などの創作があり、一般から公募した「本屋の思い出エッセイ」の入選作品も掲載されている。また、「本屋日録」は双子のライオン堂の他、BOOKS青いカバ、書肆スーベニアなどの本屋さんのある一ヶ月の日常が記されていて面白い。全部で12軒の本屋さんの日常が記されているのだが、実店舗をもたない劃桜堂の日常は他と比べて毛色が違っていて逆に目立っていた。

ところで、本誌のタイトル「しししし」だが、とても個性的で印象的なので覚えやすくていいタイトルだ。双子のライオン堂が発行している文芸誌なので、ライオン=獅子で双子ということで「獅子獅子」をひらがな表記して「しししし」としたのかもしれない。これについても「巻頭言」ですこし言及されている。

年刊ということだからかもしれないが、本誌には次号予告はない。しかし、1年後にはまた何か面白い企画を掲げて「ししししvol.2」が刊行されるのだろう。それを期待して2018年末の刊行を待ちたいと思う。もしかするとタイトルが「しししし」ではなくなっているかも、というわずかな疑念を胸の片隅に抱きながら。

デボラ・インストール/松原葉子「ロボット・イン・ザ・ハウス」(小学館)-タング、ますますかわいくなってるよー!

 

 

『庭にロボットがいる』なんてことは、日常でそうそう起こることではない。ましてやそれが、2回も起きるなんて宝くじに当たるよりも珍しいことだ。

でも、ベン・チェンバースの家の庭には、そのとき二体目のロボットの姿があった。ジャスミンという名前のロボットだ。

今回のロボットは黒い球体で、頭から針金ハンガーのフックや肩の部分に似た金属が好き勝手な角度に突き出ている。

1年半前にチェンバース家の庭に現れた一体目のレトロな箱型ロボット《タング》に比べるとずいぶんと無機質なロボットだ。

前作「ロボット・イン・ザ・ガーデン」で、レトロな箱型ロボット《タング》の狂おしいほどの可愛さにハートを射抜かれてしまった皆さん、彼が帰ってきましたよ!

「ロボット・イン・ザ・ハウス」は、マッドサイエンティストのボリンジャーからタングを救い出し、彼を含めた新しい生活をスタートさせたチェンバース一家の物語の続編である。ベンの優柔不断な性格などもあって、チェンバース家の家庭事情はちょっと複雑だけど、ベン、“元”妻のエイミー、ふたりの間の愛娘ボニー、そしてロボットのタングの4人はひとつ屋根の下で幸せな同居生活をおくっている。

そこに現れたのは、タングの生みの親でもあるボリンジャーが送り込んできたジャスミンだった。彼女は、ボリンジャーが自らの所有物であると主張するタングを取り戻すために、ベンとタングの居場所を探る目的で送り込んだロボットだった。ジャスミンは、自らの居場所をボリンジャー宛に送信する。

友情によって結ばれた愛するロボットを救うためにマッドサイエンティストと戦う男。そんなハードな物語を想像してしまいそうになるが、このシリーズに関しては、それ以上にタングというロボットの超絶かわいい姿や行動にキュンキュン、ニヤニヤしてしまう方が大きい。

まだ十分な知識も経験も持たないタングは、小さな子どもと同じだ。目に入るものすべてに興味を持ち、多少危険なことでも無意識に手を出してしまう。本書の中では、ちょっと幼稚園生くらいの年頃で、ちょっとした反抗期に入っている。妹のような存在のボニー(タングは舌っ足らずに『ボンニー』と呼ぶ)の面倒を見たがるけど、ベンもエイミーも心配で目が離せない。そこに新しいロボットの登場だ。彼らの混乱、ドタバタぶりが面白いけど不安でもある。

まだまだ幼いタングや、よちよち歩きのボニーが巻き起こす様々な事件や、ときに腹立たしいけど愛くるしさに溢れた彼らの表情や行動は、過去に子育てを経験してきたり、今まさに子育て真っ最中のお父さん、お母さんたちから、大いに賛同されるのでないかと思う。それは、懐かしい思い出でもあり、現実の悩みでもあるだろう。

本書シリーズは、AIの発達によって家庭に日常的にロボットが暮らす社会を舞台にしている。リアルな現実社会に限りなく近い設定ではあるが、まだまだSFの世界である。そんな空想の世界であっても、子育てというものは機械には変わることができない人間性(父性や母性)を必要としていることを本書が示していると思う。

前作のレビューでは、タングと行動をともにする中で、父親としての自覚が生まれ、父親として成長していくベンの姿に共感した。父親とは、子どもが生まれた瞬間から父親になるための成長をスタートさせる。前作のベンは、まさに父親になりたての男だった。

本作でのベンは、父親としての成長に加えて、家庭を守る男としても成長している。それは、家長としての絶対的な威厳ということではない。家庭の中で、果たすべき役割をきっちりと果たせる人間になったということだ。様々な困難を経てベンとチェンバース家の人たちは大きく成長した。

この物語の続編が出るのかはわからない。でも、いつの日かもっと大きく(タングの場合はロボットなんで物理的にはムリなんだけど)なったチェンバース家のその後のお話を読んでみたいと思っている。